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辞めること [自分の生き方]

凡そ大人の世界で,「辞める」というのは大変なことなんだと思う。

ダイヤモンド・オンライン
認められたい私、認めてくれない社会~「承認不安時代」の生き方~
【第5回】 2013年10月23日   梅田カズヒコ  (@umeda_kazuhiko) 
なぜブラック企業の社員は、会社を辞めないのか
http://diamond.jp/articles/-/43374

これによると,ブラック企業の社員がそれでもその会社を辞めない理由は,大別して3種類の理由があるという。なるほどと思う。裏を返すと,我々組織の一員として過ごしている者のあり方がが見えてくる。

ブラック企業の話を素人たる私が迂闊に語るのは不適切であるからおいておくとして,組織を辞めるときにはどんなことが起きるかを考えることにする。

多くの場合,どんな構成員でも何らかの意味でその組織内で存在意義がある。存在意義がないとされてしまうとこれはまた辛い話であるが,それも語る資格はないのでおいておく

組織から自分がいなくなるとなれば,組織は何らかの形でそれを埋めようとする。状況によっては人員補充をせずに「何とかしろ」というようなこともあって,それでマタニティハラスメントなどという状況が起きるとも言われているのだが、それもまたおいておく。普通は人員を埋めようとするものだ。

だから組織にポジションを持っている人は,余程のことがない限り「オレは辞めてやる」などとは口にしない。それが通じるのは漫画の世界だけである。一旦そんなことを口にしてしまえば,それが本心でなくても一人歩きをすることがある。それが大人の組織だ。だから転職を心に期す人も,まず辞める宣言をするのではなく,次の仕事を探して確定してから辞める宣言をするべきだと言われるのだ。

そこで思い出すのが,大相撲で大関まで上り詰めた、小錦八十吉である。彼は引退する場所の14日目の朝,師匠に引退の話をしたのだという。千秋楽にはハワイから家族を呼び,最後の取り組みを見せようと準備していたとか。しかし師匠はそれを聞いて即座に引退の手続きを取ってしまったのだという。引退するつもりの者が土俵に上がるのは,本気で相撲を取ろうとする対戦相手に失礼だ,と。厳しいが大人の社会はそういうものだ。

そんなこんなを考えているところでこんな記事を見た。

インパール作戦が敗色濃厚となり部下に自決したい旨を(慰留を期待し)相談すると、「死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。 形式的に止めないわけには参りませんが、責任を感ずるなら腹を切って下さい」と言われ、悄然としたものの自決することなく余生をまっとうした。 ― 牟田口廉也https://twitter.com/Deathbed_Bot/status/394694628458250240

昨日の「インパール作戦」呼ばわりに呼応してこんなのを見つけたので,笑ってしまった。

自分の周囲に起きた出来事に関連して思い出したことあれこれ。

辛いけど読みました [自分の生き方]


ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

  • 作者: 杉山 春
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2013/09/04
  • メディア: 単行本




[2013-10-09 14:28 に書いたこと]
どうしても読まなくてはいけないと思って読み始めたが,50ページで辛くなった。でも読まなくてはならない。一応満天下に公言する。そしてそのうちこの記事も書き換える。
ここに書いたことだし

[2013-10-09 15:45 に書いたこと]
この本。生育歴などについて,高校卒業のところ(3章の途中)まで読んだ。

子どもには母親が必要である。しかしある時期から今度は母親が子離れをしなくてはならないのだ。
自分のことを思うと,私が10歳の時に父が他界し,母は精神的に私に頼っていた感もあったようだが,29歳で岡山大学に職を得たときも,周囲の「なんでそんな遠くへやるの?」という声を無視して送り出してくれた。それも大切なのことなのだ。たまたま周囲に,おそらく母親が子離れしていないであろうと思われるケースを見ているので,余計にそんなことを思う。
ここに書いたことはやはりそうなんだと強く思う。

[2013-10-09 17:35 に書いたこと]
この本。名古屋で子ども2人を抱えて大変な思いをしながらも,周囲に助けを求められずに孤立していく様子(第4章)までを読んだ。

自尊心のある大人が他人に対して助けを求めるというのは,その相手に対して信頼がなくてはならない。
ここまでを読む限り,筆者の見立ては周囲にも強制的に踏み込めない状況があるし,本人もそれにすがろうという信頼がない。その勇気を振り絞って公的なところに保護を求めても,それに対して思うような反応がないときに,自分は見放されたとの感覚を強く持ってしまう。

自分一人の殻に閉じこもって,ほんの少しの情報を悪い方に捉えてしまい,勝手に疎外感を募らせてしまう。たまたま身近にそういう人がいるのだが,そうなってしまうと救いの手をさしのべてもそれにすがることができなくなってしまうというのは,割合実感を持って理解できる。もっとも,私の身近な例においては,長い間ずっと救いの手をさしのべている者に向かってまで毒を吐くので,救いの手も引っ込められてしまうのだが。

この件についてここに書いてからもう3年も経つ。我が子たちはもうずいぶん成長したのだが,親の仕事はまだ終わっていない。子どもたちが安心して巣立っていけるように背中を押してやり,万が一刀折れ矢尽きたときには帰って来てもいいんだという安心できる巣であるように,こちらも幸せに生きなくてはならないのだ。
****************

全編を読み終えて。この社会が,弱者に厳しい社会になってきていることは実感があったのだけれど,改めてこうやって突きつけられると苦しい。子どもを死なせてしまった女性を擁護するのもどうかとは思うが,そしていかなる理由があったとしてもそれは許されるものではないけれど,だからといってあの当時のこの女性に対する無責任な興味本位のバッシングに対する不愉快さは忘れない。

たまたま,こんな記事に,全然違う状況ながら同じことが書いてあったのを読んだところだが,みんななんでそんなにギスギスするようになってしまったのだろうと思う。この女性もそういう社会のなかで,誰からも相手にされず(と思ってしまい,かな),非常に狭い世界しか自分を肯定してもらえないと思ってしまったこと。この辺に悲劇があった。

さて,自分はどうする? 社会を変えるなんて大きなことは簡単にはできない。だが自分の周囲だけはこうならないようにしたい。そのぐらいしかできることはない。まずは自分の家族。そして周囲の学生。少しずつでもやっていくしかない。

大人の遊び [自分の生き方]

大人の遊びというと、単にお金を使うようなことが多いような気がする。
だがそれが本当に幸せなのかというと,必ずしもそうとは思えない。
たくさん物を買う「大人買い」にしても、結局それで得られる幸せがいかほどのものなのか。

ところで私は幸いにして、大人でも楽しめる、しかしお金勝負でない遊びをしている。それは音楽である。
トロンボーンという楽器を吹いていて、年中なにかの活動をしている。
こういうと「吹奏楽ですか?」「ブラスバンドですか?」と聞かれることが多い。
相手によっては「まあそんなものです」と答えるのだが、実は正確にはあまり吹奏楽をやったことはない。そればかりかどちらかというと「吹奏楽」を忌避しているのが実際だ。

先日、誘ってくれる方があったので「吹奏楽」に参加した。いつものトロンボーンではなく、別の楽器だったこともあって個人としてはそれほどいい演奏ができたわけではなかった。だから偉そうなことは言えないのかもしれないが、それでも「吹奏楽は問題だ」という思いが強くなってしまった。

合奏の形態としての吹奏楽には何の恨みもない。実際、その前に参加した吹奏楽(こちらはトロンボーンだった)はむしろ感動して演奏に参加することができたのである。

何が問題なのか。

残念ながら、吹奏楽の団体は,大人の団体の体をなしていないことが多い。
役員の方から本番開始15分前にステージ袖で「今日の演奏会は・・・」というお説教がなされるというのは、大人相手にはなかなかないことだと思う。それで士気を高めるのは、中高生の部活動ならあるのかもしれないけれど、大人の遊びでそんなことをしてほしくないものである。その団では私は助っ人かもしれないが、自分のできる範囲の準備をして、全力で取り組むべくその場にいるわけである。全力で取り組まなくてはこちらがつまらないわけで、そこは大人として信用してほしいものである。しかしその楽団はそういう方向ではなかった。

大人は遊びであっても自分のできる最大限のことをして、全力で臨むものである。

その参加理由はそれぞれいろいろあるだろうけれど、メンバー個々を尊重するのが大人の団体ではないのか。

私もそういう社会人の団体の運営をしたこともあるので、その苦労はよくわかるつもりである。だがそれでも大人がすべきことは守らなくてはならないし、逆に大人でない人は入るべきでない。

近隣のいくつもの団体について聞くのだが、どこもそんな感じらしい。その理由はわかる。すなわち運営している人たちも、「中高の部活動」しか知らないのだ。それ以外のモデルを知らないのだから、そんな運営になってしまうのは致し方ないかもしれない。

私はこんなことが嫌で、自分が主宰する催しは違うところに運営方針を置いている。音楽団体なのだから、音楽については基本的に妥協しない。各人のレベルは色々であっても、そのメンバーが光って称賛されるように、また各人が少しずつでも向上しようという取り組みができるように考えている。しかし音楽的な方針については妥協しない。一方で参加の頻度や取り組み方はそれぞれだ。このことを尊重してすべてが決まる。

そんな方針で始めたので、演奏レベルはなかなか思い通りにはならない。だが無理をして人前で演奏したりはしない。活動を始め半年ほどになるが、コンサートの予定は全くない。むしろ作らないようにしている。みんなの取り組み方がそれぞれである状況で、期限を切った目標を設定することは、結局ソサイエティの崩壊を招くのが関の山である。

もっとメンバーを増やし、運営上の方針はこういう大人の方針で行く。時間はかかってもそれなりに進めていく。


橋下徹氏から学ぶこと [自分の生き方]

このところ,大阪市長の「従軍慰安婦」関連および「米軍は風俗産業を使え」だのの発言を巡って議論が沸騰している。なかなか橋下氏を擁護する話は聞こえてこない。

まあ確かに私もその発言には呆れたのだが,それで氏を責めるほど閑人ではない。だが人々のやりとりを見ていて,この騒動も色々と勉強になると思った。すなわち,上に立つ者の物言いについてである。

ある種の本音なのだろう。しかしそれを彼が公開の場で語るべきかといえば,答えはNoである。しかも人々の反響が大きくなったことに対して,Twitterで一生懸命論陣を張っている。

こども同士のケンカならこうやってやり合うこともいいだろう。実際,こういうケンカに強い人であることは,大阪府知事時代からの豪腕ぶりをみればよくわかる。それで上手く行った部分がなかったとは言わない。

しかしこれでは国を任せるとか将来の社会を任せることはできないだろう。それはローカルな場,たとえば大阪府庁や大阪市役所の中ぐらいならその権力を動員して可能なことだろうが,もっと大きな世界ではとても通用しないということだ。

自分が政治家になるとは思わないが,上に立つ者の物言いということを考えたとき,変に「切れ者」であるよりもちゃんとしたことを言える人間にならなくてはいけないということを,改めて感じる。

どこからでも学ぶことはある。

ダンディズム [自分の生き方]

皆さん、明けましておめでとうございます。

昨年のこのサイトは、更新頻度がさらに低下していることを考えると、全くもったいないぐらい多くの方にお読みいただいており、大変感謝しております。年が改まったからといってその頻度が急激に回復することはないかも知れませんが、ぼちぼちおつきあい下さい。

さて。 昨年末に困った季刊誌(というにはゴツ過ぎのムック本かな)が創刊されました。
島地勝彦責任編集「クオータリー マグナカルタ」 ウィーヴ刊

マグナカルタ Vol.1 WINTER 2012

マグナカルタ Vol.1 WINTER 2012

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ヴィレッジブックス
  • 発売日: 2012/12/19
  • メディア: 単行本


あのシマジ教祖が編集長を務めるのですから、それなりの期待をするのですが、まあ年末に読んでみて色々と困りました。まずは自分の教養の無さを改めて思い知る次第。

その中で、今年の自分の生き方を考えたとき、中野香織氏の記事にはやられた感がありました。それはダンディであるとは、ダンディズムとは。まだまだ入手可能だと思うので引用は控えることにし、我流の解釈を。

そもそも「ダンディ」なんてのは「かぶき者」の様を半分揶揄したような見方。格好つけちゃって何だよ、みたいなもの。だからそれに「イズム」が付くなんて変。「かわいいイズム」みたいなものだという。

そしてその後が振るっている。いわゆる服装など外見的なものが最初であって、それに見合うように行動することだと。

そうそう、それそれ。確かに私の趣味は靴磨き。靴が汚いのは話にならない。しかし靴だけきれいでも、また高級な服を着ているだけでもダメ。それに見合った顔でなくちゃ。

シマジ教祖も言う。「男子たるもの、40歳までの顔は親が作る。だがそれ以降の顔は自分の責任だ」と。

それもそうだ。この年頭に当たり、外見はもちろんだが、それに見合った中身を作って行かなくては、そういう生き方をしなくてはということを改めて感じている。それが今年の抱負ということにしよう。

皆さん、今年もよろしくお願いします。




テニスはシングルスが好き [自分の生き方]

テニスを一生懸命やっていたのはもう20年以上も前のこと。

それこそ30年前、大学に上がった頃、当時付き合っていた女性にふられて、何か女性にもてることがしたいと思って、近所のテニススクールに通うようになった。元々運動神経の鈍い私のこと、人様に劣ることは甚だしいのだが、それでも時間をかけることで、なんとか少しは出来るようになった。そうすると試合をしてみたくなる。最初はスクール仲間とチームを組んで、ダブルスの試合に出るようになったのだが、まあ自分は下手で相手に迷惑をかけるので、それほど熱心に対外試合に出たわけではない。

20年ほど前、岡山大学に赴任したとき、それこそ当地には知り合いもなく、遊んでくれる人もなかったのだが、大学の教職員が集うテニスのソサイエティに入れてもらって、少し遊んでもらえるようになったのは良かったのかも知れない。おまけに言うと、出身校の同窓会に行くようになって、その仲間でテニスをするようになり、まあその中で伴侶を見つけたといえばそうなわけで、一応所期の目的は達成されたということにはなるのだが。

閑話休題。

この人のツイートを見て興奮して何かを書くのはやめようと思っていたのだけれど、でもこれはスルーできない。

伊東 乾 ‏@itokenstein
本当に自分がゼロから積み上げた仕事について、道具の末端から演奏・作品の具体まできちんと血管も神経も通った一身具足のものを出してゆく。他の人の仕事をレビューするのも大事な仕事と思うが、それは持分が違う内容、僕はもうそれはしない。このあたりで齟齬がある仕事ならお受けしない方がいい^^
https://twitter.com/itokenstein/status/273230347053985792

伊東 乾 ‏@itokenstein
今まで、いろんな企画について、いろんな人の(例えば「顔をたて」なども含め)都合にあわせることが、結果的に水で薄めることになり、きちんと主張が立ったものにならなかったケースもあった。そういうものは、もう、いいんじゃないかと思う。少なくとも僕は個人で責任取れる事で完結した仕事をしたい
https://twitter.com/itokenstein/status/273230911259160576

本当にその通りだと思う。本職の研究・教育はもちろんだが、音楽活動でもテニスでもそうなのだ。

テニスでは、ダブルスを組むと自分が下手なら相棒に迷惑をかけて面白くない。
相棒のテニスに対する取り組み方が自分と違うと、これまた自分にとってストレスである。
自分は勝とうとして一生懸命やっているのに、相棒が試合中に対戦相手と和んでいたりするとイライラする。
だからダブルスを組むのはやめた。下手でもシングルスの方がいい。ミスれば負けるだけ。相手より弱ければ負けるだけ。自分のしたことは全部自分で責任を取れる。人のやったことに責任を取らなくてもいい。

音楽でもそうだ。いや、アマチュアたる自分は「他人の責任を取る」などということは無いのだが、大きな楽団で演奏するとなると、やったことに対して自分で責任を取らずに済ませてしまう。そんなことを思って、少なくともソロのコンサートをやらなくてはならないと考え、そして運のいいことにそういうチャンスを数多く得た()。このコンサート自体はともかく、奏者として音楽に取り組む態度が変わったことは確かである。

多方面にその才能を発揮する伊東乾氏だが、自身が進めたいと思う中心を大事にするという宣言を聞いて、久々にそんなことを考えた。

振り返って自分としても色々と思うところがある。

そういえば最近テニスなんて全くやっていなかった。もうコートの端から端まで走ったらそれだけで倒れそうだ。シングルスが「好き」じゃなくて「好きだった」と書かなくては詐欺呼ばわりされそうだ。

他人の立場に立つこと [自分の生き方]

最も苦手なことについて書こうと思う。

絵を描くのも下手だし、字も下手。球技は好きだが鉄棒は苦手。

いやいやそんなことではない。それは「他人の立場に立って考えること」である。

自己啓発本のようなものが巷にあふれている。それを手にとってため息をついている人は多いだろう。それは大抵の場合、成功者が成功した記録であり、

「努力と研鑽を積んだ結果、周囲の人間の協力が得られ、幸運が舞い込んできた」

というようなものだからである。

私も運良くこの商売をしているわけで、周囲の協力と幸運は得られたわけだ。そんなわけでついつい「成功者の歴史を語ってしまう」ことになっていることはわかっている。

私は自己啓発本のようなものはバカにして見ないのだが、今回たまたま友人が貸してくれるという話題の本を読んで、そんな風にしてため息をついた。


ハーバード白熱日本史教室 (新潮新書)

ハーバード白熱日本史教室 (新潮新書)

  • 作者: 北川 智子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/05/17
  • メディア: 単行本



若い気鋭の日本史研究者の本である。自分より一回り以上も若い研究者に対する嫉妬かと言われればその通りなのだが、読んでいて途中でイヤになってしまった。特にいかにしていい講義を提供し、それが学生に評価されたかという話は、読んでいてひどい反発心を感じた。

著者はこれまでなかった視点から日本史研究に切り込み、その成果を活かしながら素晴らしい講義を実践をしているのだということはわかる。それに到るまでに並々ならぬ努力をしていることもわかる。さらに、大学学部時代は数学が(その一つの)専攻であったが、大きな出会いがあって日本史研究の分野に移って成功していることもすごいと思う。

方や自分は、いつまでもちまちまとショボい数学をやっている。細かいことは相当に手を入れているとしても、結局旧態依然とした数学を学生に講じている。残念ながらその枠組みを変えることは不可能と言っていいだろう。ハーバードの学生のように、「難しいことに敢えてチャレンジしよう」などという気持ちは全くなく、「出来れば逃げたい」と思っている学生に対して、高校までに彼らが培ってきたものの考え方を根こそぎ揺るがすような内容である。全国でこの内容を諦めている大学がたくさんあるところを、「必修科目だ」という強制力を持って何とか教室に縛り付けて講じているような状況だ。もっともその結果、自分の周囲では学生は立派な教員になって社会に出て行っているのだが。

その強制力すら効かなくなって、非常に空しい気持ちを感じてきている状況にいる側からすると、そんな成功譚には不愉快な気持ちすら感じる。

著者の北川氏には何の恨みもないし、何の文句もない。素晴らしいことをしておられると思う。ここで述べたいのは、私自身がこういうことを感じたことだ。

学生の指導をしようとするとき、それぞれに抱えている問題があることがわかる。それにはこちらの成功体験など何の役にも立たないばかりか、不快なものですらあるかもしれない。

そんな彼らの立場を強く感じ、改めて自分の言動を振り返るいい機会になった。

希望に燃える若い学生にはこの本はお薦めである。また、それだからと言って講義のレベルを下げることは一切しないので誤解の無いように。





記念すべき?本ブログ500本目の記事。

メタ認知をした結果 [自分の生き方]

最近流行のこの本を読んでみた。


置かれた場所で咲きなさい

置かれた場所で咲きなさい

  • 作者: 渡辺 和子
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2012/04/25
  • メディア: 単行本



氏の講演に共感する人も多いと聞く。私の勤務先から最も近い大学の1つである、ノートルダム清心女子大学の理事長・元学長である。私の周囲にも卒業生がいるし、一応キャンパスに行ったことぐらいはあり、近しいとは思っている。

さて、この本。読みやすいように(売れるように)短いエッセイと教訓という感じで並べてある。そんな構えが何だか安っぽい物に見えてしまいがちだが、中身は確かに評判通りだと思う。自身の経験に基づくアドヴァイスは、そのタイトルを筆頭に、特に「自分探し」に填っている若者たちに聞かせたい言葉ばかりだ。

大いにお薦めしたい本なのだが、実は私自身にとっては新しい発見のある本ではなかった。いやいや、つまらない本というわけではない。むしろ楽しく読んだ。それは自分が考えていることを、他人から言われるとうれしいというレベルのことである。すなわち、私自身がいつも考えている自分の生き方にちょうど合致した話が次々と繰り出されるので、気分はいいのだ。

しかし。

何度か書いたのだが、大学の教員たる者、新書本を読んでいるだけではダメだ、新書本を書く側にならなくてはと思う。

この本もその観点から見ることが出来るかもしれない。自分はいつになったらこの著者のように語れるようになるのだろうか。どうもそんなメタ認知的な見方をしてしまった読後であった。


ついでにこちらもぽちっと。

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五七調の衰退 [自分の生き方]

朝日新聞「天声人語」2012年2月17日付にこんな詩が引用されていた。

ひと晩に咲かせてみむと、 梅の鉢を火に焙りしが、 咲かざりしかな。


石川啄木「悲しき玩具」にある詩だという。むか~し、今から30年以上も前、高校2年の時に啄木を勉強したような気がする。私の出身校は楽しい観光旅行だけではなく、「研修旅行」と銘打って、一応お勉強する旅行だった。1年の時には箱根に地学と生物の巡検+日本史のお勉強。結構勉強した気がする。そして2年は全員で啄木を勉強し、途中から宮沢賢治も勉強した。旅行では自分は賢治の組で、花巻に行った記憶がある。そして「水仙月の四日」を読んで、何だか宇宙をコロイド視しているという感覚があるなあとレポートを書いたら結構受けたような記憶がある。この詩も当時見たことがあるのだろうが、残念ながら全く記憶にない。詩歌を知らないということはそれだけで教養が低いということだ。もちろんそれは曽布川のことを指す。

だがそんな話はどうでもいい。

検索してみると、この天声人語に共感した人たちの意見もたくさん見つかる(検索は読者諸氏にお任せしよう)。

それはもちろんステキなことなのだが、全然違うことを思ってしまった。

天声人語子はこの詩についてこう続ける。

3行書きだが、改行と読点をとばして読むと三十一文字のリズムになる


上述の詩は一応直接的に短歌だとは言っていないとしても、完全に五七五七七の短歌の形式だ。天声人語子はそれに気付いたという書き方だ。ガッカリである。

啄木について語る力などないし、それこそ高校生レベルから衰退こそすれ全く向上していないのだが、今改めていくつか啄木の詩を読んでも、万葉集のような生き生きとしたみずみずしさを感じる。

この歌のみずみずしさは、この歌が五七調のリズムになっていることに負うところも大きいと思うのだ。読者諸兄姉に向かって失礼な解説になるが、古い時代、たとえば万葉などの頃は五七調だったと言われている。それが時代がくだって古今などになると七五調がメインになったらしい。そのことは次の簡単な例でもわかる。以下、失礼な素人講義。

ちょっと季節がずれているが、持統天皇の有名な御製について。

春過ぎて夏来たるらし白たへの衣干したり天香具山

万葉集に載っているのはこの形だという。これはどう見てもこう書きたい

 春過ぎて夏来たるらし
 白たへの衣干したり
 天香具山

解釈は当然こうだ。

 春が過ぎて、夏が来たらしい
 (ほら)白妙の衣を干してるぞ
 天の香具山に

細部では専門家には叱られるかも知れないが、少なくとも句の切り方は当然こうで、五七、五七、7の「五七調」であることは明白である。

しかし、小倉百人一首では伝聞調の

春過ぎて 夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山


となって、「衣」以下は「下の句」になってしまっている。

「白たへの」については、「衣」に掛かる単なる枕詞だという解釈をよく見る。
しかし小倉百人一首の切り方だと、「夏が来た」ということを「白い」が強調しているようにも見えて、歌の味わいが全く違ってくる。すなわち「白妙」が夏らしさを強調しているように見える。

いい悪いではなくて、そういう風に人々の感覚が変わってきたのだ。

ここではその理由を我流分析してみると次のようになる。

五七調で書かれたものは、次のように読まれたとみるのが妥当だ。

●●●●●×××●●●●●●●×
   ・・・・・
●●●●●×××●●●●●●●×
   ・・・・・
×●●●●●●●

音符のように見て欲しい。
●は十六分音符。×は十六分休符。ただし休符は完全な「お休み」ではなくて、最後の音の伸ばしも入る。テンポは四分音符=50か、もう少し遅くか。2行目の・・・・・はテンポのない休符と見てもらおう。

すると、ずいぶんゆっくりな読み方であることがわかる。いや違う。詠み方だ。

さて、忙しい人はこれをどうするのだろうか。キーになるのは、
2行目の・・・・・はテンポのない休符

である。急いでいる人、慌てている人はゆったり休んでいるわけにはいかない。だから

●●●●●×××●●●●●●●×●●●●●×××●●●●●●●×●●●●●●●×

となる。こうなると、読むときにどこかで息継ぎをしようとすれば当然

●●●●●×××
●●●●●●●×●●●●●×××
●●●●●●●××●●●●●●●

となる。これが七五調が主流になった原因に関する曽布川藤四郎説である。

いやいや、歌など詠むのだから急いでいるというのは妙だが、少なくともその人の精神状態が影響するわけで、精神状況には社会状況などが影響するのだと思う。

そこで。

天声人語子が知識として啄木と五七調について知っていたかどうかなんてどうでもいいし、他人の知識がどうだなんて言う資格がチョー浅学の私にあるはずもない。

だが、このコラムをちょっと見て、今の世の中、慌ただしくて生きづらい世の中なんだなぁとつくづく思ってしまった。

追記: リズムの問題について、少しわかっていなかったことがあって、修整を加えました。

続・「芸術闘争論」の使い方 [自分の生き方]

いい加減な前の記事の上塗りを。

青島健太 “オヤジ目線”の社会学
ザッケローニ監督の選考基準「4つの条件」を仕事の場で考えてみる
日経BizCollege 2011.12.15
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20101210/254373/?ST=career&P=2

ここにはサッカー日本代表のザッケローニ監督の選手選考の基準について述べられていた。それは

(1)タレント(技術)
(2)チームの和
(3)フィジカル・コンディション
(4)向上心

だという。筆者の青島氏はこれになぞらえて我々が組織で仕事をしていく上でのあり方について述べている。

さらに穿った見方をするならば、これは前記事「芸術闘争論」の使い方とも同じなのではないかと思い立った。

すなわち、次のような対比である。
(1)タレント(技術)・・・・個性
  もちろん個々が秀でた個性を持ち寄って全体を組むのだから、これが無くては代表チームに入るのは無理だろう。

(2)チームの和・・・・構図
  まさに全体の構図が整っていなければ意味が無いのだ。

(3)フィジカル・コンディション・・・・コンテクスト
  ちょっとこの1対1対応は苦しすぎるのだけれど、個々のコンディションの流れが上手く互いを補い合って大きな流れになっていくことの意味。
  
(4)向上心 ・・・・圧力
  狭い広いはあるのだけれど、新しいものを作っていくための力だと見たい。

こんな風に対応させて見てみた。ただしここで一つ注意。
 ○ ザッケローニ監督の選手選考基準については、個々の選手=パーツが満たさなくてはならないもの
 ○ 村上隆の言うところは、トータルで出来上がったものについての見方。
つまり立場が全く違うのである。

しかし右も左も見ずに単にパーツに徹するのではなかなか世界に大きく貢献できない。単なるパーツであっても、自分の役割、位置などを認識して過ごしているのとそうでないのでは、トータルのパフォーマンスに大きな違いが出る。

長く高度成長期には「パーツ」であるだけで良かったのかも知れないが、今はそれではダメだ。パーツとしての立場を全体の大きな立場から見直すこと。

これが重要だ。
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