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講義を出すモチベーション [教育について]

明けましておめでとうございます。

年末に読んだ本について書こうと思いながら,関連のいろいろな話を見るうちに,壮大な議論になってまとまりがつかなくなり,なかなか書けないままに仕事が始まってしまいました。

と,そこで読んだこのコラム。

日経ビジネスオンライン 
山中浩之 ニュースを斬る 2014.1.6 
就活、「コミュ力偏重」から「成績も」へ?
「やりたくないこと」にどう立ち向かうかを企業は知りたい
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20131227/257650/?P=1

年頭から気合いの入る内容です。

今の私のポジションは教員養成系なので,教員として学校現場で活躍できる人材を送り出すことが使命です。ここ数年はどこでも教員の数が足りず,採用試験の合格率はずいぶん高いので合格するのは割合容易。ですから試験そのものは目的になりません。しかし都道府県等の教員採用は,公務員として定年まで雇用するのが原則なので,いい加減なヤツを教員として現場に送るわけにはいかない。だから私の講義は厳しいです。1年前期の必修科目の合格率が5割を越えたことはありません。ε-δ 論法もあきらめません。なぜって,その議論が出来るぐらいでないと,小学校でちゃんと国語が教えられないからです。増して今度英語が入ってくるそうだし。

これは国立大学の教員養成系だからこそできることなのはわかっています。しかも本学にはそれなりのレベルの学生が入ってくる(らしい)。

まあよそ様のことは知らないのですが,とにかく

 「教員採用試験に受かるだけを目的としていない」
 「現場で30年教師を続けられるだけの基本的な能力・取り組む姿勢を身につけさせる」

ということでやっています。年末に卒業生諸君が集まってくれました。その大半が教員として活躍しており,間違いなくそれぞれの現場において中心的な立場になっている。単に年齢のことではなくて,実際にそういう評価を受けている。もちろん彼ら・彼女らの努力の賜物なわけですが,それにちょっとでも関わることが出来たのかと思うと,こちらもやりがいを感じるわけです。

一方で,そこまでやっているので,安易な「教員養成6年制への移行」に強く反対しているのです。

かつて,大学に講義に来てもらったある岡山県下の教員が平気で「大学で学ぶことなんて,学校現場では役に立たない」と豪語したことがあったようですが,「学生時代に勉強しなかった自分でもなんとか現場をこなしてきた」に過ぎないわけです。しかも昔は学校現場でのOJTが機能していた。それに何となくついて行けば管理職になれたかもしれない。しかし現在はそうは行かないので,大学でより高度なレベルまで経験させて現場へ送り出しています。,昔のことはともかく今の我が方ではそこまで考えて学生を指導しています。

さて。

こういう「職業学校」的な立場でない,しかも「理工系」学部でないところではどうか。文系学部のマスプロ教育に意味があるのか。

同じ大学教員として,決して他人事ではありません。

その中で,こういう動きが出てきたことはむしろ歓迎したいと思います。大学の評価が入試の偏差値でなされることはそれこそ「ガラパゴス」。これから世界と戦っていかなくてはならない我々としては,教育の質を上げることが必要なのです。

私の出身大学では
賢く入ってバカで出る  人事を尽くさずして温情を待つ
といって笑っていましたが,本当にそれは冗談で終わらせなくてはならない。

教育は
バカで入っても,立派な人間として卒業させる
ためにあるのです。もちろん前提となる力がない者はそんなに簡単には力はつかないわけで,だから長い時間を掛けて教育をする必要がある。それでも卒業したら同じなのです。

今年もガンガンやります。いや,これまで以上にガンガンやります。

以上,鬼の曽布川,年頭の所感。

「大学」の進むべき道 [教育について]

いつも意見を興味深く読んでいる2者が一応議論を戦わせているようなので読んでみた。

アゴラ 言論プラットフォーム

松本 徹三 2013年12月02日
現在の日本の大学教育に必要なのは、「改善」ではなくて「革命」
http://agora-web.jp/archives/1570973.html

辻 元 2013年12月06日
大学は教育環境を提供するところ
http://agora-web.jp/archives/1571829.html

正直に言って、どちらの議論もダメダメです。出発点がずれており、現状認識もずれており、しかも最終到達点もずれています。

本来あるべき姿、そして最終的にもっとも効果を生み出すのは、辻氏が言うように、大学は学ぶ機会を与える場所であるということ。それがもっとも効率的だし、枠にはまらない成果をもたらすものです。だから根本的な意味ではこのスタイルを続けるべきであると私は考えます。

一方、松本氏の主張にも大いにうなずけるところがあります。およそ、アメリカの一流大学の教育スタイルを見本にすべきだというのが基本線であり、実はそれは辻氏が言うところの「学ぶ機会を与えている」ことにほかなりません。

しかしダメダメなのはその出発点と方策。
○ 辻氏は「学問は高尚なものであり、意識の高いものが取り組むべきものだ」という感覚から抜け出していないように見える。
○ 松本氏は「企業に評価されるようなものが良いものだ」「学生は顧客であり,そのニーズにこたえなくてはならない」

私はどちらも反対です。

辻氏が松本氏の意見につけたコメント通り、現状は意識が高くない学生が大半である。したがって辻氏の基本線を強く主張するだけではほとんどすべての大学はよくならない。

松本氏は「大学の教育を企業によって評価させろ」というけれど、目の前の営利を求めている企業が評価するものなんて、その大半は30年後は使い物にならないでしょう。バブル期にやっていた人事策がいかに失敗だったかを見れば、そんなものはあてにすべきではありません。

本当に意味のある教育をするためには、未来を考えなくてはならない。しかし未来なんて誰にも分らないのです。だから辻氏の言うように大学は鍛錬の場ではなくてオープンに学ぶ場であるべき。他方,松本氏の言うような社会で役に立つ人材を供給するためには、自ら考えていく姿勢は強く植え付けるべき。少なくとも大学受験までの段階でそれがひどくスポイルされているからです。

二人の意見を折衷して、まあまあ、と折り合いをつける気は全くありませんが、その両方の精神を取らなくてはならないし、逆にどちらの方法論もあまり使い物にはなりません。

松本氏は 「旧態依然たる教授会支配」 「学問の独立を隠れ蓑にしてこそこそ逃げ回る」 ことを批判されています。それはその通り。教授会支配が多くの場合ネックになっていることは確かなのでそこは解決しなくてはなりません。それをうまくやれた大学だけがこれから生き残っていくことは間違いありません。確かにトップダウンの中には頓珍漢な内容も少なくないのですが。

その上で、上手く行くかどうかわからないことも含めて古臭い大学の発想はもちろん、企業の目先の利益を追うだけの圧力もはねのけ、新しいことにどんどんチャレンジをし、その中から評価されるべきいいものを残していくというのが大学のすべきことです。

とりあえず大きな枠組みでの話はここでやめておきます。

私自身は、そういう「新しい取り組み」について創造しなくてはならない状況なので、自己研鑽も含めながらそちらへ向かっていきます。


人の議論の上前を撥ねたような記事で恐縮ですが、お気に召したらこちらもぽちっと。

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反転授業 [教育について]

日本の小学校で反転授業をやった話を見た。

教育とICT オンライン
先進事例で知る 情報化で変わる学び 2013年12月5日
「国内初、小学校での「反転授業」が子供にもたらしたもの」
http://pc.nikkeibp.co.jp/article/column/20131203/1113963/

いやいや、驚いた。これを本当に実践したとは。
内容ではなく,家庭環境などを思って,子どもたちが本当に予習してこられるか?という意味では手放しでは喜べなくて,ごく特殊な事例だとは思うけれど、何が素晴らしいって、予習用に渡したビデオのサイズ。

どうやら「2,3分」のものらしい。それを担任の先生が作ったと。

これは素晴らしい。手間はかかるだろうけれど、絶対に必要だと思っているので。それを担当の教師が自分で準備しなくては、その後のディスカッションの質が向上しない。

この報告をよく読むと、気になる点もある。

 アメリカと比べると、先生の専門性は日本の方が上です。日本の先生は、ただ一斉授業をするのでなく、その中で子供たちにインタラクションをさせるという、職人芸的な授業をしています。  アメリカは、教師とそれ以外の職業の流動性が高いので、教師から別の職業に転職する人や、その逆の人が少なくありません。そこで、何年も修行しなければできないような特別な授業をすることよりも、マニュアル化されたキットを用意して、普通のスキルを持っている先生なら誰でも授業ができるようにする、というところに重点が置かれています。

前にも書いたように、アメリカの教員のレベルは決して高くない(こちらをクリック。 下の注も参照)。だからこの手のものは広がりやすいし効果も出やすい。しかし今のわが国ではメリットは限定的だ。もし日本で導入するならば、その授業を担当する教師が自ら作ることに意味があると思う。そうすれば非常にいい効果が出るだろう。この報告にも

ですから、市販の教材をポンと持ってくればよいかというと、それは疑問です。先生にとっても、市販の教材を子供たちに投げるだけというのでは、“自分の授業を奪われていく”感がぬぐえませんし。

とある。ちょっと「奪われていく」は性善説過ぎると思う。「楽だ、ラッキー」になりそうな気がする。だから

全国から授業力の高い先生を集めて、その先生の授業ビデオをパッケージ化してみるのはどうでしょうか。その先生とティームティーチングをするような形なら、現場の先生にも受け入れられやすいかもしれません。あとは、自分たちで作ったビデオを学校の中で共有して、ブラッシュアップさせていくという方法もあるでしょう。


というあたりも、慎重にしなくてはならないと思う。学習者に単純な技能を身につけさせるだけならばこれでもいいと思うが、深く掘り下げることが反転授業の目的だとすれば、やはり授業担当の教員が作るべきだと思う。だから

教師にこれを作る時間を与えてくれ。もちろん勤務時間内にだ
今上がっている話は逆のようだが(ここからジャンプ)。

俄然、やる気が出てきた。来年やってみようかな。大学生相手だったら少しアレンジしたほうがいいかな。解説ビデオををWebサイトに挙げておいて、予習させてそのノートの一部のコピーを出させてあとはディスカッション形式をメインにする。

ちなみに我々数学屋さんはみんなこれで鍛えられてきたんだよね、自ら予習してきて、ゼミ形式で先生の前でしゃべって、叱られて。

注: アメリカではKhanアカデミーのビデオが予習用として使われているようですけど、はっきり言って授業としてのレベルは低いです。日本の多くの小学校で先生方がやっている授業のほうがはるかにレベルは高いですので、お間違いないように。

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それが実態 [教育について]

数日前に呆れて書いた話。

「インパール作戦だよ,これ。」
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2013-10-29

ここで取り上げた,財務省関連から出てきた話の中に
教師は一般事務職に比べて給料が高い、だから一般並みに下げる
というのがあった。全く呆れたのだが,その呆れた理由の詳細についてわざわざまとめてあったサイトを見てしまった。

教職に意欲のある若者もこのサイトを見るかもしれない。そういう人たちの意欲を削ぐ可能性もあるので少しためらわれるが,現実は現実。むしろ待遇改善を叫んだ方がいい。日教組は長年くだらないことに意欲を燃やしてきたようだが,これこそが日教組の取り組むべき仕事である。

【教員の現実】公的ブラック企業『教職』
http://matome.naver.jp/odai/2137160915054702001


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インパール作戦だよ,これ。 [教育について]

皆さん,残念ながら日本も終わりました。もうこの国に未来はありません。

教員数、大幅削減で一致=地方交付税の加算廃止も―財政審
(時事通信 10月28日(月)16時3分配信)
 財政制度等審議会(財務相の諮問機関)は28日、2014年度予算案の編成に向けて、小学校や中学校の義務教育に対する国庫負担金の大幅削減を求めることで一致した。委員からは、少子化に伴って「児童・生徒の減少に合わせ、教員の削減はやむを得ない」などとする意見が相次いだ。  一般会計予算の2割近くを占める地方交付税交付金に関しては、リーマン・ショック後の景気対策として導入された「別枠加算」(約1兆円)の廃止を総務省に求めることでも合意した。ただ、地方自治体からは継続を求める声が強く、年末の予算編成に向けた調整は難航しそうだ。  財務省は28日の会合で、子ども1人当たりの教員数を維持しながら定数を2000人減らし、高い給与水準を地方公務員並みに引き下げれば、14年度の国庫負担金が約370億円削減できるとする試算を提示した。委員から異論は出ず、「良い教育のためには教員の数を増やせばいい、という考え方は古い」などとして大筋で了承された。 


話は財務省が決めることらしい。最悪なのは最後の文句。

「良い教育のためには教員の数を増やせばいい、という考え方は古い」


「古い」って何? じゃあ「新しい」は何で,それは良いものなの? 

バカとしか言いようがない。

教員の給料を一般公務員並みに下げるんだって。アメリカがそうだからかな。

ということは,日本の義務教育水準をアメリカ並みに下げるということだよ。待遇が悪い仕事にだれが一生懸命になるんだろう。増して,最近は精神的に辛い仕事になってるんだよね,教師は。

結局,教員のモチベーションは高いのが当たり前ということなのかな。給料がいくら低くても。
給料は低くても優秀な人材が教員になろうとするということなのかな。

あり得ないね。

つまりはさ,「飯は食わせないけれども気合いで何とかする」というインパール作戦の発想だよね。

その結果日本軍がどうなったのか皆さんよくご存じのはず。

日本の教育における転換の節目が来ました。

こんなものが通るようでは,日本はおしまいです。もう見込みはありません。わが子には海外移住を考えさせます。



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考える力をどうつけさせるか [教育について]

北尾吉孝氏(SBI ホールディングス)。森信三語録はもちろん,その関係の著作も読んでいる。とにかくいちいち頷くことばかりで,ここに取り上げることをしなかったのだが,これは取り上げざるを得ない。

『「ネット依存」について』 2013年10月17日 16:43
http://www.sbi-com.jp/kitao_diary/archives/201310177424.html

ちょっと引用させていただく。
調べ物をする上で大変便利で効率的であることは間違いないのですが、ネット依存が過度に進行した結果、自らの頭で考えるといったことが薄らいできている部分が無きにしも非ずというような感がするわけです。


ICTですぐに「答え」が得られるならば,自らの頭で考えることをしなくなるのは自明の理。そうやって多数の愚者とそれに乗らなかった一部の賢者がいるだけという社会はいかながなものか。

いやいや,考える力をつけさせるには,答えを与えないことが大切なのですよ。我々はそこを逆手にとって,答えを与えておいて「なぜか?」と問いますが,それとてなかなかできるようにはならない。

若い頃,たとえば10代までは自分の頭で考えさせることが必要なのです。答えを検索させてはいけない。


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評価においては,評価者の力量が問われる [教育について]

ちょっと見落としていたのだけれど,これはおもしろい。

冷泉彰彦
大学入試への「面接導入」、本当に可能なのか?
Newsweek 日本版オンライン2013年10月08日(火)10時55分
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2013/10/post-592.php

60%はジョークと述べておられる。確かにシステムとして導入するという立場からすればジョークかもしれないが,我々大学教員からすると,なかなか厳しい指摘だ。

本学部は「教員養成」という枠がかかっているので,
「お辞儀がどうの」とか「ノックして入れ」などという「上下関係のヒエラルキーを前提としたコミュニケーションのスタイル」

から逃れられるかは,学校教育全体がどうあるべきかということについての社会的な合意が必要となるが,それは「職業訓練校」の性質を持っている,本学部の特殊なケースかも。

いわゆるリベラルアーツの延長であったり,技術者を養成したりするためには,ここで指摘されているぐらいのことが必要。ただしそれには評価する側の力が要る。

評価においては,評価される側だけではなく,評価する側の者の力量が問われる。


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やらねばならぬ [教育について]

東工大・三島良直学長のインタビュー記事を見た。

日経ビジネスオンライン  2013年10月23日(水)
理工系国内トップ校でも「欧米基準では『講義の質が低い』」
東京工業大学・三島良直学長が切り込む教育改革
田中 深一郎
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20131021/254828/

今の,そしてこれから自分の進む方向としては,三島氏の以下の発言がすべてである。

三島:イノベーションを創出するには、学生が発想豊かでいられるかどうかが重要だ。教養系科目や(異なる研究分野の)融合分野の科目を充実させ、受け身でチャレンジしない傾向のあった学生に幅広い考え方を身に着けさせる。守備範囲が広く、しかも非常によく考える癖を持つ学生を育てたい。それに加えて、コミュニケーション能力の向上も大事。異分野の人と話をして吸収する能力を磨くことで、全く新しい概念を発想することができる。


そしてそのために必要なこととして,次のように述べている。

三島:ノーベル賞を取るようなレベルの研究者は“仙人”のような人でもいいかも知れないが、そうした人はごく限られる。アカデミアに進む人でも、きちんとした教養やコミュニケーション力を身に付けることが大事だ。大学の先生が幅広い見識を持ち、専門分野以外のこともよく知っていて、学生に「今、世の中はこういう動きになっているよ」と教えられるようでないといけない。こうしたことがうまくできていないのが、今の日本の大学の苦しい点だ。専門分野の研究はずば抜けていても、幅が広い教員というのはなかなかいない。


すべきことはこれだ。やらねばならぬ。


(以下,2013.10.25 加筆)
私が岡山大学に勤め始めてから21年目。その前半は「教養教育切り捨て」の歴史でした。本学でも教養部が廃止され,体育の教員全員と,語学教員の一部が我が方へ配属され,しかし(当時)教育学部で必要な定員よりも遙かに大きな所帯となったことから,知らないうちにだんだん椅子を召し上げられ,しかし一般教育の体育の授業負担は残る。そういう状況の下,こんどは英語教員も減らされ,英語の授業の負担だけが残る。今は英語教育講座以外でもすべての講座で1コマずつ英語専門でない教員が英語を担当させられている。

そんな中,少なくとも中高で英語が嫌いだった,できなかった私が,なぜか英語の授業研究をし,英語の授業を何回も担当することになった。気づいてみれば数学の講義も英語で出している。

だがそんなことがこの三島氏の言う「教養」や「幅広い見識」や「コミュニケーション力」につながっているのではないかと思っている。

来年からはそれを前面に出して任務に当たりたいと思っている。



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子どもがバカにならないように [教育について]

やはりちゃんとわかっている人もたくさんいるのだ。

日経ビジネスオンライン 2013年7月31日(水) 慎 泰俊
 スマホを使いすぎて、バカになっていませんか?
   一週間のうち10%は、ネットも本も使わず、自分で考えてみよう
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130726/251577/?P=1


ここで慎氏が述べているように,ICT機器は我々を魅了する魔力があると言っても良いかもしれない。
新しい刺激に鈍感になっているはずの大人でもこうなのだから,発展途上の子どもはもっとそうだ。

だから私は子どもに使わせることには消極的な意見だ。少なくとも算数・数学という教科においては,非常に後ろ向きである。

算数・数学教育の研究を熱心にしている人の中にも,ICT導入に積極的な人がいる。その人たちの言い分はよくわかる。彼らはたとえば
自分で手で図を書いて確かめることがさんざん出来た上で

ICTを使ってさらにその先をすべきだという主張である。

しかしそれは無理だ。ICTを使って簡単にショートカットできることがわかっているのに,それをせずにいることはなかなか難しい。このことはここで慎氏も述べているとおり。大人でも出来なくなっているが,だからそれを敢えてしない時間を取ろう,というのが氏の主張である。大人に向かってわざわざこう薦めなくてはならないのだから,子どもには強制的にしなくてはならない。しかしそれは無理だろう。

教育へのICT導入推進の先陣を切っている人に向かって,その人の土俵に乗って意見してみたが,「なんだかよくわからない」でスルーだった。(2013.4.5 挑発に乗ってみた

そこでそのスルーを受けてもうすこし突っ込んで書いてみた。(2013.4.9スルーを受けて

しかし誤解をされても困る。自分で考える力がついたならば,むしろどんどんICTを使うべきであるとも思っている。たとえば大学生に対してはそういうこともやっている。(2013.5.7 ICT?使うよ

慎氏の指摘に対して,教育へのICT導入を声高に叫ぶ人たちはどう反論するのだろうか。
子どもがバカにならないようにしなくては。


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バカロレア,いいねぇ [教育について]

こんな記事が目にとまった。

French Bloom Net 2013/6/22 by cyberbloom
フランスの大学入試=バカロレア始まる:この哲学の問題、解けますか?
http://www.frenchbloom.net/2013/06/22/2058

そうそう。若いうちからこうやってしっかり考えることが大切。
ヨーロッパの評価されるべきところは,こうやってじっくり考える人を大事に育てていること。
国を挙げてこういう人を高く評価しているのだ。それに対して我が国の現状はひどい。曰く

この対極にあるのが、自分でものを考えずにお上にすべてお任せする日本のパターナリズムだろう。日本では哲学者の名前と思想の要約を丸暗記し、それをマークシートで答えることになるだろうが(私の世代の「倫理社会」はそうだった)、フランスでは哲学は学ぶものではなく、「哲学することを学ぶ apprendre à philosopher 」のだ。試験では、哲学史上の議論を踏まえながら「自分の議論」を展開することになる。


という。

少し自慢をする。我が研究室では,このレベルの哲学をさせているとまではいえないが,4年次に教員採用試験を受けるために,こういう議論をさせている。質はともかく,そういうことを議論しようという姿勢は間違いなく養っている。だから教員採用試験も怖くないらしい。折しもちょうどそういう時期であるが,彼らの様子は全く平常通りで緊張したり臆したりすることはない。そこが人間としての力になるのだろうと思っている。

この文章でもう一つ考察を深めてほしかったのが,原発絡みの次のコメント。
論理的に矛盾することを平気で言い続け、矛盾しないと安易に思い込める批判力の欠如が、あの原発事故を招いたとすれば、日本にこそ論理的な思考訓練が必要だろうと思うが、一方で国を挙げて哲学しているフランスが原発推進のお友達というのが非常に悩ましい。


そうじゃない。あの国はきちんと哲学をして,物を考えた上だからこそ,原発の積極導入に踏み切れたのだ。万が一にもチェルノブイリや福島のような事故が起きたとしても,自分たちで考えた結果なのだからそれを受け入れる。その覚悟があるから現状があるのだ。良記事だとは思ったが,この点で少し筆者のイデオロギーが入ったように見えて残念。

まあ世間では,こんな記事よりもあの青色発光ダイオードの中村修二教授のインタビュー記事

日経ビジネスオンライン 2013年7月9日(火)「国境を越える人材争奪戦」
国を作り替えないと日本に外国人は来ない
            ~中村修二・米カリフォルニア大学教授に聞く(前編)
細田 孝宏
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130705/250730/?n_cid=nbpnbo-bv_ru

の方に興味が集まるのかもしれないが。

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