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独断と偏見による,日本円-チェコ・コルナの両替レート(2000年9月の感覚) [2000 in Praha]

 「両替レートについて」と銘打ちましたが,別にヤミで両替屋をやるわけではありません.この国は社会主義体制から脱却して,資本主義体制に移行しようとしていますが,まだその過程にあるため,通過としてのコルナ(チェコ・コルナ)は弱く,逆に縁やドルを持って買い物をする側にとっては,本当に天国です.とは言っても,どんなものでも安いか?というとそうとも言えません.
 ここでは,色々な品目について,それぞれに「このぐらいのレートで考えればいいですよ」という感覚について述べます.
2000年12月7日公式の為替レート 1チェコ・コルナ=2.828円

です.最新レートはここなどをご覧下さい.このページはこれを元に直感で書きます.1Kc=¥28 とあったら,日本の物価の10分の1だな,と思ってください.
食料品店で買う食料品 1Kc=¥20

 ものによって違うのですが,例えば長さ15cmくらいの小さいコッペパンが1Kc位.これを思うともっとか?と思いますが,例えば肉類や野菜でもう少し高いかな.でも,国?がバックアップをしているレストラン/食料品チケットがあり,額面50Kcが19Kcで買えるということなので,それも加味するとこのぐらいの感じと見ました.
ビール 1Kc=¥15/30

 ビールはこの国では必需品.チェコ人はビールを飲むのではない,ビールを「食ってるんだ」とは名言.店で買えば前者の感覚.ところが,店で生ビールを飲んでもそう値段は変わらないので店ではさらに倍.
飲食店での値段 1Kc=¥12

 観光客向けのところは別として,大体地元の人が昼御飯にちょっとごちそうを,と食べる店で1人100Kcぐらいでしょうか.でも貧富の差が激しく,「右や左の」という人や,ファーストフードの閉店時に余り物をもらいに来る人がたくさんいる状況を見ると何とも言えません.もちろん,1人500Kcもするような店もあるのですが・・・・
 それから,旧西側系のチェーン店も進出していて,特にアメリカ文化は発展の象徴と思われているらしく,にぎわっています.ここでは 1Kc=¥5位かな.
コンサートのチケット代 1Kc=¥20

 国や大きな企業が思い切りバックアップをしているので,この程度の値段で済んでいるようです.そんなわけで,毎日行き放題(!)
市内交通の料金 1Kc=¥25

 プラハの市内はすべて「市営」に近い感じなので,この安さ.特に3ヶ月定期を持つと,改札が要らず,乗り放題で 1150Kcですから,これは乗りやすい.また70歳以上は無料,ということから,年配の人が町中にどんどん出てくる原動力になります.またひっきりなしに来るトラム・メトロ・バスは本当に利用しやすい.「公共交通機関」という言葉が認識できます.
カメラのフィルム 1Kc=¥2.5

 カメラのフィルムだけは,世界的に見ても日本は安いようです.この国ではすべて輸入品,旧西側からの輸入品は高いのです.
電話代 1Kc=¥3

 3分で4Kcですから,今の日本とそう変わりません.また携帯電話もヨーロッパ全土で使えるものなので,料金は安くありません.
郵便代 1Kc=¥30

 これは正確にデータを取れば良いんでしょうが,はがきなど普通の郵便は比較的高め.しかし日本向けの航空郵便などは相当に安いです.だから大体の感じ.
プラハでのアパート代 1Kc=¥4

 これは結構高いです.と言っても,新しく借りるときの相場だろうと思います.昔からいる人がこれでは,とってもやっていけませんね.
プラハのホテル代 1Kc=¥4

 やはり相当高いと思ってください.さらに旧西側のチェーン店を思うとは,公式レートとあまり変わりません.
平均的なオフィスワーカーの給料 1Kc=¥12

 人の給料を直接聞くことは難しいのですが,前にちょっと聞いた感じで言うとこれぐらいでしょうか.ここからすると,チェコではみんな,「食っていくことは何とかなるが,それ以外はちょっと」ということになります.

以上は,プラハに2000年4月から9月まで暮らしてみた上での体感であり,全くそぶかわ個人の感想です。

プラハ・市内交通博物館 [2000 in Praha]

メトロやトラムやバスといった,この街の公共交通機関の歴史を紹介する博物館が,4月から10月までの週末・祝日だけ公開されています.最初は子守の一環で行ったのですが,街の歴史と共に考えるととても興味深いもので,何回も足を運びました.

プラハの市内交通の公式ページはこちら

左下の最初の写真に向かって右側には,これと同じだけの車庫があります.このページでは紹介していませんが,,そのうちの半分は,週末だけこうした古い車両をわざわざ使って観光用に営業運転している「歴史的トラム」の車庫として,また残りは各所から持ってきた古い車両,場合によっては本当に朽ち果てた残骸とでも言うべきものを運び込んで,往事の通りに復元し,展示・営業を行うための工場になっています.古い車両を使用可能な形で復元・保存することは本当に費用もかかり大変なことだと思うのですが,歴史を大事にするこの街の姿勢がよくわかる一面でもあり,とても興味深く思いました.


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これが市内交通博物館の外観です.見てわかるとおり,トラムの車庫として使われていたものをそのまま博物館として展示しています.
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これが初代のトラム.1875年に初めて開通したトラムは,最初こうした客車を馬で引いて軌道を走っていました.
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歴代のトラムです.何といってもこうしたものの実物が,しかもすべて「現役」(実際に営業運転することが可能)であることが驚きです.
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よくご覧下さい.これは実はトラムの客車が切符売り場になっています.昔はこういう車両もずいぶん使われたようです.また移動式の診療所になった車両もあったと資料にはありました.
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実物車両だけでなく,こうした模型も多数展示されています.
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普通は紅白の色使いですが,こうした色の物もありました.観光専用など,少し特殊用途だったようです.
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あまりにたくさんあって,見るのに忙しいです.
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こうした広告もそのまま残されています.それにしても,今のものと比べると何とも優雅なフォルムですね.


週末に営業される「歴史的トラム」は,こうした車両がそのまま使われます.この博物館に展示している間は,入り口から入れないように特別にドアが付いていますが,営業の時にはもちろんはずされます.車掌さんが乗り込み,昔の姿を彷彿とされるものすごい振動と共に,街を走ります.

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ずらり並んでいます.
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実際に車庫であることがわかりますね.
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かつては,資材運搬などに使われたこともありました.鉄道だから当たり前なのですが,我々の思う「路面電車」からするとずいぶん違うイメージですね.
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実はこの博物館はトラムだけではなく,このようなトロリーバス,そしてその後の普通のバスも多数展示されています.

写真を撮っているうちに,デジカメがなぜか「電池切れ」表示を.さっき変えたばかりなのに?というわけで,本当はまだまだたくさん車両がありますが,写真を撮ることはできませんでした.

付記:実はこうした画像をインターネット上で公開することには,もしかしたら問題があるかも知れません.私としては,この博物館が写真撮影が自由であること,映像についての注意書きなどが全くない(館内および配布物)こと,またこの展示物はすべて実働可能な車両であり,実際その一部は週末に「歴史的トラム」として営業運転もされているため,市中を一般に走る公共交通機関の車両と同等であると見なして公開することにしました.

Vysehrad 高い城ねぇ。。。 [2000 in Praha]

チェコの国民的な作曲家 B.スメタナの交響組曲「我が祖国」の第1曲目がこの
Vysehrad .直訳すると高い城という意味のようですが,今はもう遺構も少ししか残っておらず,「高い」を裏付けるものは多くありません.しかしその昔はVltava川から見るととても高くそびえ立っていたものと思われます.ここに住んでいた王妃「リブシュ」のことは,この街の繁栄とともに人々の心に深く残っているようです.

church0000.jpg(画像をクリックして拡大)
これは Vysehrad に残る最古の建築といわれる,聖マルティン教会です.12世紀初頭に立てられたといわれているそうです.遠くから,たとえば「Vltava川クルーズ」なんてので川から見てもとてもよく見える塔で,この辺りのシンボルです.

smetana0000.jpg(画像をクリックして拡大)
マルティン教会の裏にある墓地には有名な人がたくさん眠っています.たとえばこれはB.スメタナの墓.ちなみにスメタナという人は,日本人が想像できないぐらいこの国の人々にとっては重要な作曲家です.たとえば7世紀頃このVysehrad に住んでいたといわれる王妃 「Libse」を題材にして書いた同名のオペラはNarodni Divadloのこけら落としのためにかかれました.

Dvorak0000.jpg(画像をクリックして拡大)
ご存じ A. Dvorak の墓です.日本人にはスメタナよりもなじみが深いでしょう.でも彼の代表作「新世界から」は文字通りアメリカで書かれたものであり,その内容もチェコ,ボヘミアのものではなくアメリカのものです.こちらでは交響曲も9番より,7番の方が多く演奏されているようです.少なくともチェコ・フィルやプラハ響のこの2000-2001のシーズンには.

vysehrad10000.jpg(画像をクリックして拡大)
手前に城壁の跡が見えます.現在はこの程度しか残っていませんが,人々の心には深く残っているのです..
vysehrad20000.jpg(画像をクリックして拡大)
丘になっているこの城跡から見ると,本当にいい眺めです.敵を見つけるにはベストプレイス.

I.P.Pavlova から Ludmira 教会を望む [2000 in Praha]

新市街でもこの辺りから南にはあまり観光客は来ませんが,本当の街の息づかいが聞こえるような気がします.

ludmira00.jpg
 観光で来られる方にはそう縁の深いところではありませんが,トラムとメトロ C の乗り換えになる I.P.Pavlova はとてもにぎやかなところです.そして向こうに見えるのが ルドミラ教会です. Vysehrad の帰りに見て,なんだ同じだ,と思って写真を撮りました.この奥に見える Nam. Miru なども,観光にはあまり縁がないですが,地元の人にとっては重要な繁華街です.(クリックで拡大)



チェコ共和国の長期入国査証(visa)取得に関する注意 [2000 in Praha]

チェコ共和国の長期入国査証(visa)取得に要求された書類


 長期の入国査証申請に際し要求された書類等についてそれぞれ解説しましょう.

パスポート(旅券)
 これはどこの国に行くのでも一緒です.国外旅行をするのには必ず要ります.チェコ共和国への入国に際しては,滞在期間よりさらに6ヶ月間余計に有効期間があるものを要求されます.
 私の場合,少し前の法律のつもりでいたので間違えてしまいましたが,今は0歳の赤ん坊でもパスポートが必要です.写真を撮るのがちょっと大変だけど.私は危ういところでした.パスポートの取り方については都道府県の旅券担当係に問い合わせてください.

入国査証申請書
 申請書ははチェコ語で書かれていますが,英語で脇に説明もあるので,何とかなります.申請時に窓口で書き方を教えてくれるので,わからないところは開けておけばいいと思います.

写真
 写真は要求通り持っていきましょう.私の場合,用意していったにもかかわらず,窓口担当のおばさんが忘れて,こちらも忘れていたので,危うく出しそびれるところでした.

招聘状
 突然ふらっとやってくるものには長期滞在の許可は下りません.日本もそういう意味ではちょっと厳しいです.少なくとも誰か国内で「きちんと」した人が身元引受人になる必要があります.私の場合はこの招聘状がそれに当たります.私の場合は国の機関だったので問題ありませんでしたが,場合によっては招聘状にあるサインに公式の証明書をつけろといわれるかも知れませんし,実は後でわかったのですが,家族については別な意味での証明を求められることになります.
居住証明
 上の「招聘状」と同じく,この国に長く滞在するのに住まいがなければ困るわけです.特にプラハの近辺は住宅難であることもあり,実際に住居を確保することは大変だろうと思います.私の場合は国の機関である受入先から無償提供を受けることになっていたので,問題ないと思っていたのですが,あとから,公式の証明書をつけろと言われました.確かに,縁もゆかりもない人が勝手にここを使っていいという承諾書を書いてもわからない,という主張は理解できます.これに関しては,私の場合は受入側が準備してくれました.
銀行残高
 どういう人を「排除」しようとして言うのかわかると思います.実際にこの国に普通に滞在することが出来るのか,そうした経済的な裏付けがあるのか,ということが問題です.銀行に行ってすぐに英語で書いてもらうことができるかどうかはわからないので,時間に余裕を持って手続きをしましょう.私はよくわかりませんが,クレジットカードを取得してれば,それがこの代わりになるのかもしれません.調べてみてください.
保険証書
 海外旅行関連の保険はどの損保会社でもやっていますが,何しろ高い.私の場合,総計で11ヶ月ですが,家族3人で40万円以上保険料を払っています.それでもいざというときのためには仕方がないんだけど.たとえばクレジットカードに海外傷害・疾病保険が自動的に付帯しているものがあります.こうしたものでも済む可能性があるので,クレジットカードの会社にも相談してみましょう.傷害・疾病保障の他に,帰国費用の支払いについても保障されるものでなければならないことが,後で判明しました.それから,これも後からですが外事警察の担当者が英語が読めないので,チェコ語の公式の翻訳をつけろと言ってきました.
無犯罪証明書
 過去何年間か(よく知らない)長期滞在した国での無犯罪である証明を要求されます.私の場合は日本しかないので,その話だけしかわかりません.もし他の国のものが必要ならば,その国の大使館に依頼しなくてはなりません.


行くべき場所
警察本部の鑑識関係の部署(私の場合は岡山県警察本部の鑑識課)
申請に必要なもの
パスポート,写真1枚,戸籍抄本,住民票,査証申請書のコピー,手数料700円
発行までの期間
(岡山県警の場合)3週間
 最初から「提出相手国宛て」という形で証明書が出されますので,どこの国のヴィザを取るため,とはっきりさせて,査証申請書のコピーも出す必要があります.

アポスティーユ
この警察発行の書類には,アポスティーユ=日本国外務省によるお墨付きをつけることを要求されます.
大阪の外務省の出先に電話し,詳細を聞き,郵送で申請用紙を送ってもらう依頼をし,用紙が到着したら,また電話をして書き方の注意を受けながら記入,それから書留で依頼.さらに1週間はかかります.

注意しなくてはいけないこと
この書類はプライバシー保護の観点から,警察から受け取った段階以降,外務省のお墨付きを得るときに外務省の担当者が開ける以外は,相手国担当者が開ける前に開封すると無効になってしまうので気を付けましょう.

 そうした書類であるにもかかわらずなぜそれを知っているかはまた別のところで述べますが,この無犯罪証明書は日本語の原本と,そのしたに「こいつはこんな悪いヤツだ/とってもおりこうさんだった」という部分だけが英語とフランス語とドイツ語とスペイン語でも書いてあります.そして,氏名,住所,生年月日,本籍などの情報については,このアポスティーユの部分に英語(ローマ字)ですべて書いてあります.

 普通,これだけで充分どこの国でも通用するものと考えられますが,この大陸の真ん中の国であるにもかかわらず,驚くべきことに,後で英語で書いたものに対してさえも,チェコ語の公式の翻訳をつけろといってきました.「公式翻訳」についてはまた別のところで.


以上が在東京・チェコ共和国大使館から提出を要求された書類でした.結局上にも書いたとおり,後からこうやり直せ,という指示がたくさんきました.そしてさらに他にももっと書類を出せ,という要求が来ました.


さらに足りないといわれた書類
 このことについては別にまた述べますが,ヴィザ無しのまま入国後,入国査証申請書に記載したチェコ共和国の受け入れ側保証人に,上記のような書類補充と,さらに別途補充を要求されました.
•婚姻証明書
• 「私の」90日以上有効な入国査証の写し
 妻の入国査証に関しては,夫についてくるというが,それは本当に夫なのか.またそうであるとすれば,その夫はちゃんと入国査証を持っているか,という観点から,婚姻証明書(もちろん,アポスティーユ付きを要求され,さらにどうせそれにも公式翻訳が要求されるでしょう)および夫の90日以上有効な入国査証(の写し)を要求されました.また子についても両親の90日以上有効な入国査証を要求されました.婚姻証明書については,曽布川なんてのは珍しい名前ですから,夫婦だ(親族だ)とはすぐにわかりますが,国によってはもちろん夫婦別姓のところもたくさんあるわけなので,わからないでもないですが,今ここで家族揃って申請しているのに夫の(親の)入国査証を出せ,といってくるとは,全く四角四面というか官僚主義極まれりという感が否めません.最終的には私たちの場合にはこれを準備しませんでしたが,こうしたことが現地で起きたら,在プラハ・日本大使館に問い合わせましょう.情報をよくつかんでいますし,親切に対応してくれます.


アドヴァイス
 信用できるか,という問題ではなくて,共産主義時代の名残で国の組織が大きすぎ,しかも硬直化しているので,末端まで情報がきちんと行き渡っていない,もしくは中央が末端の実態を把握していないという理由により,在東京・チェコ共和国大使館の言うことでさえも,入国後に覆されることがあります.
 在プラハ日本大使館を窓口として,日本国はチェコ共和国とこうした外交上の問題について鋭意折衝を重ねているようで,2000年7月に話を聞いたときも,早くこうしたくだらない障壁をなくしたい,と日本大使館側は言っておられましたが,どうなるかはわかりません.在東京・チェコ共和国大使館に対して,「それだけで本当に大丈夫なのか」「最近こういう事例があったが本当に大丈夫か」と事前にしつこく確認をとることをお勧めします.

注意すべき事項

申請時における注意
 在東京・チェコ大使館のヴィザ申請の窓口は,日本の役所のように月~金9時から5時まで,とは開いていません.いつ開いているか確認しておかなくてはなりません.また 申請時は申請者全員が大使館の窓口に出頭せよといわれました.実際には,妻と子供は窓口の見えるところで遊んでいて,何もしなくて良かったので,あれなら別に私一人でも良かったのではないかと思ってしまいました.少なくとも我々の場合は岡山から東京なのですから,大きく旅費がかかります.
 それから申請が受理された後,本国に書類が送られ,OKが出るまでいくらか(実はとんでもなく時間がかかり,しかも大抵ダメだといわれて突き返されて)時間がかかり,さらにその発行は申請したところでないとだめと言われました.せめて受付窓口がうんと言ったら,その通り受理して欲しいですし,書類に記載されている内容に問題があればまだしも,一旦受け付けておきながら不備だ,と突き返すのは全く理不尽な話です.窓口で本当に書類は充分か,念を押して聞くことにしましょう.さらに,時間に大きく余裕を持ちましょう.半年では危ないと思った方がいいでしょう.

入国査証の発行に関する手数料
 入国査証の発行に関しては,互いに手数料を取らないという取り決めになっています(2000年7月在プラハ・日本大使館に確認)ところが中央でこのことが決まっているにもかかわらず,末端ではこれが知られていないことがあり,手数料を要求されることがあります.これには,手数料を支払わなくてもいいことになっていると,主張しましょう.後から返還してもらおうにも,たとえば私の場合,岡山から東京までの旅費を考えたら,あきらめざるを得ませんから.

「公式翻訳」について
 「公式」の意味するところがあまりよくわからず,私の場合は受け入れ側ホストに教えてもらった通りの業者に依頼しましたが,チェコ国内にすでにいる場合には,まず日本大使館に相談してみてください.実際には誰が翻訳をして文書を書いてもよく,それを公式に判定する人が判定して,正しいというスタンプを付いてサインすればそれでいいようです.日本語で書かれたものなどは結局日本大使館がその判定をするわけですから,何も業者にチェコ語や英語で頼まなくても,日本大使館に行って,日本語で細かい依頼をすることが出来ますし,費用もはるかに安いはずです.

チェコ共和国の長期滞在ヴィザ取得体験記 [2000 in Praha]

旧共産圏たるチェコ。滞在visaの申請を開始してから7か月,8月28日,やっとめでたく取得できました.以下はその時間を追った記録です。

2000年1月20日 在東京・チェコ共和国大使館に電話で問い合わせ


東京のチェコ共和国大使館に問い合わせをしました.その際に指示されたのは
1.パスポート(有効期限が滞在期間よりさらに6ヶ月以上先まであるもの,コピーを提出)
2.申請書(所定の用紙)
3.写真
4.招聘状
5.チェコ国内での居住地についての保証書
6.銀行残高証明書(日本での!)
7.傷害・疾病保険加入の証明書(そのときは詳しく指示がありませんでしたが,後から帰国費用もカバーするものであることを求められました)
8.過去?年間の間に滞在した国々の無犯罪証明書,外務省のアポスティーユつき

でした.そして申請者全員が大使館の窓口に出頭すること,それから本国に書類を送り,OKが出るまでいくらか時間がかかり,さらにその発行は申請したところでないとだめ,とのことでした.おそらく,申請してから発給までに2~3ヶ月はみてほしいとのことでした.

同日:チェコ共和国側ホストと相談(by E-mail)


 私の場合には,チェコ科学アカデミーの2人の研究者がホストになってくれました.たまたまこの日に頼んだときに忙しくなかった方の方が,その後このVISA取得関係でずっとお世話になることになります.彼は早速チェコ共和国外務省のVISAの担当責任者と談判をしてくれて,「東京申請・ウィーン,ブラティスラヴァまたはドレスデンでの発給」の確約を取り付けてくれました.なんと,ヴィザを採るために一旦帰国しなくてはならないか?と思って恐れていましたが,これはラッキーでした.

同日:戸籍謄本を多数取り寄せ


 私の場合は本籍が近くでないので,どうやら必要になりそうな,戸籍謄本を少し多めに取り寄せました.

2000年1月21日 無犯罪証明の取り方について,警察関係に問い合わせ


 前日は結局夕方になってしまったので時間切れアウト.そこでこの日,あちこちに何回か電話をかけ直して,やっと説明を受けました.

2000年2月1日 在東京チェコ共和国大使館に電話で確認


 ホストが調べてくれた「東京申請・ウィーン?で発給」については,チェコ共和国大使館は「そういうことができる,という確約はここでは出来ない」という話でした.

2000年2月8・9日 岡山県警察本部鑑識課に出頭,無犯罪証明の発行を申請


 仕事の都合で私と妻は日がずれましたが,県警の鑑識課は近くにあるので,行くことはそう大変ではありませんでした.行くと,愛想のいい係の人がでてきてくれて,どこへ行くんだい,という調子.手数料は700円.生まれて初めて指紋を採られました.発行までに3週間だって.

2000年3月1日 岡山県警鑑識課にて無犯罪証明書受領


 3週間待ちました.

2000年3月2日 大阪府庁内,外務省大阪分室に電話,即日郵便にて用紙申請


 大阪府庁内の外務省分室に電話し,無犯罪証明書につけるアポスティーユ証明の申請の方法を確認しました.そして即日用紙の送付を郵便にて依頼しました.

2000年3月7日 外務省大阪分室宛,書留にてアポスティーユ証明を依頼


 書類の書き方などについては,用紙を目の前にして電話をして,細かい説明を聞きながらやってくれ,ということだったのでその通りにしました.プライバシーに関わる重要な書類なので,往復簡易書留速達で依頼しました.

2000年3月3日 VISA申請窓口の受付時間などについて確認


 東京まで行くのです.行ったが窓口が開いていなかった,では困るので,受付時間について確認をとり,ついでに,事前に書類に不備がないかどうかチェックしてもらえるかの確認を取りました.また妻子のことについて,片道の航空券で入国できるかどうかについても聞いて見ました.これについては「相応しくない」人たちを排除するという目的から言うと,片道航空券では入国が認められない可能性があるからで,実際そういう国もあるようです.

2000年3月13日 外務省大阪分室から無犯罪証明書にアポスティーユ証明がついて届く


 これでやっと書類がだいたい揃ったことになります.このころ,出張をしなくてはならなくて,少し日があいてしまいます.

2000年3月18日 申請書類の不足について,在東京・チェコ共和国大使館に問い合わせ


 結局指示通りに書類が揃うまでに約2ヶ月近くを費やしてしまいました.私の住まいは岡山市です.岡山は神戸の名誉領事館の管轄ではないので,東京のチェコ大使館の窓口まで行かなくてはならないのですが,行ってみて,何が足りない,出直せと言われてはたまらない(往復の旅費が一人3万円以上,しかも決まった曜日の午前中しか窓口が開いていないので,前日泊もいる)ので,事前にコピーを郵送し,領事の判断を仰ぎました.その結果,チェコ国内での無犯罪証明書を取る必要があるが,それは大使館窓口で併せて申請すれば良い,あとはOKだとの返事をFAXにてもらいました.

2000年3月23日 東京・チェコ共和国大使館に申請のため上京


 午前中しかあいていないので,前日に上京.当日は朝から東京・広尾にあるチェコ共和国大使館へ.結構駅から歩くのだが,まあ良いでしょう.応対してくれたのは,チェコ人(とおぼしき,日本語がしゃべれない人).まあとても親切でありましたが,言われていた写真を渡しそびれたのを東京の宿に帰ってから気づき,即電話,郵便で送りました.

2000年4月13日 関空発フランクフルト経由でプラハ入り


 もちろんヴィザはありませんが,日本人は90日以内ならヴィザ無しの入国が認められているため,前年来たときと同様に,ちょっとパスポートを見て,すぐはんこを押してくれました.しかも変なところに.

あとは「準備はいいよ」というお上からのお達しを待つばかり.とおもいきや,そうではなかったのです.

2000年5月30?日 チェコ共和国警察本部外事担当から,ホストに連絡


 窓口出頭時にもOKが出たにもかかわらず,しかも申請から2ヶ月以上も経って書類不備だとして,補充を要求されました.おいおい,船便で送ったのか?そこで要求されたもの.
1.保険の証明書,無犯罪証明書およびそれに付いているアポスティーユ証明の「英語が読めない」のでチェコ語に公式翻訳したものを提出せよ.
2.居住証明書は本当に居住を証明できる者が書いた証明書なのか,公式な証明をつけよ
3.妻に関しては「夫に付いてくる」が申請理由だから,婚姻関係にある証明書をだせ.また夫の90日以上有効な入国査証のコピーを出せ
4.子供に関しては,両親の入国査証のコピーを出せ

なに,英語が読めない?おめえ,外事警察だろうが.世界でもっとも広く使われている言語が読めねえのに何が外事警察だ.居住証明は誰が出してると思ってるんだ,チェコ科学アカデミーだぞ.日本で言えば外務省か警察庁が文部大臣の行っていることをウソかもしれないと疑っているということか?色々とわからないことが多かったのですが,ホストももうあきれて笑っていました.

<ちょうどこのころ,私の1週間の国内出張.さらに個人的な事情で,家族で一旦帰国,10日ほどでまたチェコへ.すこし手続きが滞っています>

2000年6月19日 ホストとその後の対応について協議・外事警察に問い合わせ



 大半の書類はコピーを取って別途持ってきておりますが,特に無犯罪証明書は厳封書類なので,コピーを持っているわけもないのです.だから,書類を一旦返してもらわなくてはならない.そこでホストは外事警察の担当者に電話をしてくれました.ところが,まずその説明にホストが延々説明しなくてはならない始末.ちょっと考えりゃわかるだろうに.やっと話が付くまで4回も5回も説明をしていました(しているようでしたがチェコ語がわかりませんので・・・).
 ホストは本当によくしてくれます.私がチェコ語が使えないので,こうした交渉ごとを全部やってくれました.本当に感謝です.一旦出国しているので,まだまだ時間的には余裕があります.それにホストだってそんなに暇ではありません.そこで,翌週月曜に外事警察に書類を一旦返してもらうために行くことにしました.
 
この段階で妻子は取得を断念!

結局私自身は国家公務員として上司からの命令で出張してきており,査証を取らずに命令通り在留することは不可能なため,ヴィザを取ることが必要であると考えて手続きを続行しました.妻子については,補充すべき書類は在プラハ日本大使館に依頼すれば取得できるものであると思いますが,ホストにさらに手間をとらせることになるため,取得を断念.その代わり,90日以内に一旦出国し,再入国することにしました.そしてそれを理由に,妻子はウィーンへ,ブダペストへ,ローマへ,北欧へと,あちこち遊びに出ることにしました.結局無駄に払ったお金の総計は,岡山-東京の往復旅費,在東京・チェコ共和国大使館に払った手数料が合わせて6万円近く,そのほかに,警察の手続きの手間などを考えると,えらく無駄な出費をしたな,というのが正直な感想です.

2000年6月26日 外事警察へ出頭(その1)


 そうは言っても私の分は申請しなくてはなりません.ホストの都合が少しあって,昼飯を終わったところで集合.それから申請書類の原本を取りにホストに連れられて外事警察へ行きました.午後2時45分についたらもう今日は窓口はおしまい.スタッフもいない.まあ朝7時から開いているオフィスだから仕方がないという話しもあるのだが.そこで翌日出直すことにしました.

2000年6月27日 外事警察へ出頭(その2)


 6月27日(火)出直す.いやあ,この日の対応はひどかった.今度は朝10時過ぎに到着.何をするかというと,入り口のロビーにある電話で,あらかじめ聴いていてくれた部署に電話.日本のように最初から直接応対などしてくれないのである.しかしこれは理由もわからないでもない.担当者自身に危険が及ぶ可能性もあるからだということだ.実際には私はチェコ語が話せないから見てるだけ.全部ホストがやってくれた.何回も電話.誰も出ない.あっ,出た.説明をさんざんしてこちらの名前と番号まで聞いた挙げ句,ここじゃない,こちらの番号だと.そちらに電話.出ない.元のに電話.今席を外してるんだろう,後でかけろ.こんなことで10回以上電話.出ず.ちょっと一服.再度トライ.またでない.2カ所にどんどん電話.出ない.10:45.電話に出た.11時頃に担当者が戻るそうだ.また一服.11時少し前からまた電話.また10回ぐらいかける.やっと出た.なんと,担当者が違ってた.別の番号を回せとのこと.そこでそちらに10回ぐらい.やっと出た.担当者は11:30頃来るそうだ.そとのガソリンスタンド兼PODRAVINYの自販機で kava を飲んで待つ.11:30少し前.再度トライ.11:30少し過ぎ,やっと担当者が捕まる.わかりました,今からカウンターまで来ますとのこと.それから15分.若いお姉さん.おいおい,手ぶらできたよ.何だ?それまでに,その大先生はこういう話で・・・を8回は話し直している.ありゃあ,またお姉さんにもう一度.ガンガンやり合っている.結論.担当者は月曜の午前中に来る.そいつが来ないと何もわからない.書類も出してやれない.来週来い.やれやれ.

2000年7月3日 外事警察へ出頭(その3)その後,公式翻訳の業者?へ


 翌週出直す.やり方は一緒だったが,今度はさすがに割合すぐに話が通じた.そして書類を受け取って「公式翻訳」の「業者」へ.1週間見てくれ・・・はて?

2000年7月10日 公式翻訳のできあがりの目処が立つ


 ホストが電話で確認してくれた.この「公式翻訳」の業者は,翌週までに準備する.費用は木曜か金曜に電話をくれ.

2000年7月13・14日 公式翻訳について電話


 業者に電話をしてみる.英語が通じるからOKだと行っているそうなので自分で電話.ところがダメだ.ほとんどわからないチェコ語を3言ぐらい話して「明日だ」「来週月曜には英語が話せる奴が来る」という話だ.おい,そこは翻訳の仕事をするところじゃないのか?もう驚かない.外事警察が英語が分からないんだから,何があっても驚かないよ.

2000年7月17日 公式翻訳を受け取る


 結局2週間かかった.Kc3000.おいおい,これじゃあ日本で翻訳を頼む値段だろう.バカ高いなぁ.泣き泣きだ.

2000年7月19日 書類再提出


 やっと提出.今度は10分でOK.これで終わりのはずだ.発行まで,もうホストにお願いすることが何もなければいいのだが.

2000年7月28日 在ウィーン・チェコ共和国大使館から電子メール


 書類提出が終わった段階で,「かくかくしかじかだ,書類がそちらに着いたらメールをくれ」と知らせていたのだが,その返事が.「ウィーンで受け取りたいのなら,もう一度申請を全部やり直せ」と. あんたのところのトップがOKしている,といっているのだから,それに合わせた返事をくれればいいのに.まあお役所組織とはそんなものだ.もう驚かないぞ.

2000年8月16日 ホスト宛に,VISA発給が可能であることが通知


 実は恐れていたとおり,一旦東京のチェコ大使館に書類が送られたようでしたが,それをウィーンのチェコ大使館に転送してくれるということになりました.あとは私が行く日までにそれが届いていることを祈るばかり.

2000年8月28日 ついにVISA取得


 26日(土)からウィーンに入る.28日(月)は受付開始の8時30分のさらに15分ほど前に大使館到着.場所は地図で調べてわかりやすかった.シェーンブルン宮殿の近く.行ってみるとすでに10人ほどの若者が並んでいる.規定よりすこし早く開門,即受付が開始された.ドイツ語もよくわからない私であったが,3つある窓口のうち,多分これだろう,というのが当たっていた.私の番が来る.さて・・・と,英語が通じるのはいいのだが,(おそらく私用と思われる書類ファイルを見ながら)「申請書を書け」.これには参った.おいおい,オレは今日発給を受けられると聞いて来たんだぞ,今から申請じゃない.そう抗議すると,発給は今日するが,いるのだ,としかも写真を付けろ.予め言ってくれれば,いくらでも写真は撮ってあったのだが.でももういい.この一連のめんどくさい話の最後を飾ってこれぐらいのことが起きたって,もう笑えるぐらいだ.その窓口ロビーに写真の自動撮影機が.ところが小銭がない.と,そこに中国系の女性がやってきて,ボールペンを貸してくれるか?と言う.OK.その代わりにこの札をコインに換えてくれ.というわけで,60AS分のコインを入手.申請書に書くべき内容が,最初の申請と違ってはまずいと思い,忘れたところを空欄にしたまま再び窓口の列へ.と,受付の人は「OK,OK,あとはちょっと待ってろ」と.おいおい,それなら何で申請書をもう一度書かせたんだ?でもそれももういい.さっき「今日中に発給する」と窓口が言った以上,それは信じよう.それから待つこと15分後.めでたく窓口から呼ばれる.そして・・・ついに・・・感無量でありました.

おまけ


 私は数次入国(マルチ)VISAを取りました.これによる出入国の際には,毎回出入国カードを書かなくてはならないようです.ウィーンの大使館ではタイプでデータを書き込んだ用紙を2枚くれました.あとはコピーを取って毎回サインすればいいようです.


 

 

Troj 城 [2000 in Praha]

 6月24日,Troj 城(トロヤ城)に行ってきました.遠いかと思って覚悟をしていったのですが,意外に近くて拍子抜けしました.この「正門」の向かい側には,動物園があります.4月には動物園だけ行きましたが,今回はこちらだけです.

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「プラハのおうち」の裏手にあるストロモフカの森を抜けて行くと,運河の向こう側にトロヤ城があります.
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このようにとても大きな立派なお城です.
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こういった色合いの建物はあちこちにあります.すこし建築について調べたらまた情報を書きましょう.

(付記: この翌々年,Vltava川が大洪水となり,この一帯は完全に浸水。ゾウなど動物園の動物たちが流されていく様子がテレビで放映され,我が家では一家でとても悲しい思いをしました。)

あなたはなぜPlzenに行かないのですか? [2000 in Praha]

7月22・23日にビールの里として名高い,プルゼーニュ(ドイツ名:ピルゼン)の街へ行って来ました.ビール関係が主目的で,それについてはまた別のところで書くことにしましょう.このところずっと寒い日が続き,このまま夏が来ないのではないかと思ってしまいましたが,ちょうどこの日は晴れて暑くなりました.

写真はクリックすると拡大します。

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Plzenの旧市街地の中心・共和国広場にある教会(Sv. Bartolomej 教会)です.この塔はチェコ共和国随一の高さを誇ります.

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翌23日は快晴,本当に久しぶりに暑い日でした.こう見るとまたムードが違います.周囲が広くとってあり,建物も低くなっていることから一層そびえ立って見えます.

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共和国広場はぐるりと建物で囲まれていますが,どれもがこんな感じのパステルカラー.おとぎの国に来たようです.

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教会の塔の上に登ってみました.急な階段を上って足はガクガク.下を見たら怖いのでさらに足がガクガク.

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でもこれを見ると何だかケーキみたいですね.

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本当におとぎの国みたい.

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これはチェコ国内最大と言われる,シナゴーグ(ユダヤ教会)です.おとぎの国じゃないですよ.これも本当に堂々たる威容です.

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これはPlzen歌劇場です.工事中で見栄えが良くないですが,後ろ側のドームは明らかにプラハの国民劇場のコピー.いかに国中みんなでこういうものを大事にしているかがわかります.

ビールだけでも充分行く価値があると思いましたが,それ以外にも見所はたくさんありました.特にこの左の「地下道博物館」は,ガイドブックになぜか「日曜休館」と書いてあったので,信用してうっかり通り過ぎてしまうところでした.

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この街には地下道が掘られています.そこを見物する「地下道博物館」の入り口です.ここからはいると,ツアーで地下道のごく一部を回ってくれます.全長は何十キロだそうで,一番古いところは10世紀に作られました.戦争の時はもちろん,普段は食料の貯蔵庫として,また中には周囲の川から水を引き込む水道設備が作られ,さらに氷を入れて温度を下げ時間をかけた「下面発酵」により世界最高のビール「ピルスナービール」を造るためにも使われました.

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これが Plzen中央駅です.とてもおしゃれですね.

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帰りはECでプラハまで帰ってきました.

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Plzen,さようなら

追記(2013.10.13): この記事のタイトルの文は何か? チェコへ行く前に,岡山在住のスロヴァキア人の女性にチェコ語の家庭教師に来てもらっていました。その時に使っていたテキストにあった例文です。プルゼーニュの街の素晴らしさを思い出すとき,我が家ではいつもこの例文(の日本語)が口を突いて出るのです。

イチゴです [2000 in Praha]

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イチゴです。ものすごく色が鮮やかだと思いませんか?
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切ってみても,中までずっと赤い。こちらの果物・野菜類は皆こんな感じで力強いものがほとんどです。




Vltava と カレル橋 [2000 in Praha]

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旧市街側のヴルタバ(モルダウ)の河畔にて。向こうに見えるのがHradcany(プラハ城),そこに見える橋がカレル橋です。
何でもいいけど,オレ太ってるなぁ。
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この橋がカレル橋です。完成から600年も経ちますが,まだ堅固です。さすがに車の通行は禁止されていますが,その代わりに大道芸,似顔絵描き,土産物屋などがずらりと並んでいます。
夏休みなどには橋の上は観光客で身動きが取れないほどだそうです。
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このカレル橋のたもとの旧市街側に隣接している建物は,あのB.スメタナが住んでいた家です。この絶景の中に暮らして,あの『我が祖国』をはじめとする名作の数々を作曲したのです。
現在はこの家が『スメタナ博物館』になっています。
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