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撤退したっけなぁ [音楽関連]

こんな記事をみて、懐かしさが込み上げてきた。

常見 陽平
IT・メディア 有料メルマガをやめました 我が動員とマネタイズ敗北宣言 言論プラットフォーム アゴラ  2013年05月03日07:30
http://agora-web.jp/archives/1533347.html

私はメルマガをやっていたわけではないけれど、非常に共感した。
ちょっとコラージュ(笑)してみよう。

2011年5月をもって,私が岡山・ルネスホールにおけるコンサートシリーズ「岡山チェンバープレーヤーズ」をやめた理由について説明しよう。


第1の理由は、多忙になり、月1回の開催が厳しくなってきたことである。職場において責任ある立場につくことが予想されることもあり,毎月コンサートの準備をすることも,コンサート当日にホールに1日詰めることも辛くなってきた。


第2の理由は、毎月1000円(以上)払って来て出さるお客様に納得してもらえるコンテンツを作ることができなかったことである。自分自身の出演など、お客様からお代を頂戴するレベルでない演奏会が増えてきて、心が辛くなってしまった。


第3の理由は、理由2とも連動しているのだが、来場者数が伸びなかったことである。ポイントカードをつけるなどしてみたのだが、結局、最後の1年間は100人集められないコンサートが続いた。スポンサーもたくさんついてくださったにもかかわらず,黒字が出たことはシリーズ開始3年目からほぼなかった。


まあ帳簿上で見て,月1回ちょこっとパチンコをしたぐらいの赤字額だったので(ちなみ私はギャンブルはしません)道楽のレベルとしてはそれほど高くないけど,プロとしてやっていくなど、夢の話だった。

それでも多くの方の応援とお力添え,また毎月のようにお越し下さるファンの方々にも恵まれ,また自分の好きにプロデュースをまた演奏を出来たので,それは分不相応の幸せなことでした。

なかなか新しいものをクリエイトして、それを商売として成り立たせるのは難しいものだと思い知りました。

でもだからといって、これが不幸なものだとは思いませんでしたよ。
このサイトと違って
http://agora-web.jp/archives/1579066.html


岡山チェンバープレーヤーズ 活動の記録 http://www.geocities.jp/okayama_chamber_players/

Horizontal Maestro [自分の生き方]

去る1月20日,イタリアの指揮者 Claudio Abbado (クラウディオ・アバド) 氏が亡くなった。80歳だった。

中学生のとき-もう40年近くも前になる-にクラシック音楽を聴き始めた頃,気鋭の指揮者として大きく取り上げられていたのがアバドだ。カラヤンが帝王の座を手中にする頃,彼は楽壇に出てきた。

精緻なアンサンブルと,「カラヤン節」と言われる強力な個性を前面に出し,オーディオ&ヴィジュアルの技術が向上してくるのと呼応してどんどん出てきたカラヤンに比べて,その後にベルリン・フィルの首席指揮者になったアバドは,むしろ逆の控えめなタイプだった。

就任に際しアバドは,
自分は作曲家の後ろにいる
と述べ,自分の個性を前面に出すことよりも,作曲者に敬意を払い,本来目指すべきものは何なのかについて慎重に考える姿勢を示した。

ときにそれはつまらないとか個性がないという評価を受けることもあったのだが,それでもベルリン・フィルをサイモン・ラトルに渡すまで,音楽界全体を動かすような大きな仕事をした。たとえば、少なくとも日本では際物扱いされていた「ピリオド奏法」をベルリン・フィルという世界最高峰のオーケストラを介して定着させたことを挙げたい。

そんな彼の評伝が挙がっていた。

池田卓夫 Claudio Abbado――類ない「Horizontal Maestro」 intoxicate vol.105(2013年8月20日発行号)

これはすごい話である。曰く,上意下達型の指揮者たち・・・トスカニーニ,カラヤン,クライバーと違って,水平方向の人間関係の指揮者だというのである。ちょうどそれは,20世紀が指揮者の時代だと言われていたのに対し,21世紀が演奏者の時代だと言われるようになったのと呼応するようである。

閑話休題。

自分個人はとても悲しい気持ちで一杯なのだが,この文を読んで逆に勇気が出た。自分自身、50年近くなる人生の中で,垂直方向でリーダーをしようとして挫折してきたたくさんの経験と,それを水平方向に切り替えたときの円滑で幸せな思いが,この評伝を通じて思い出されたのだ。

ホリゾンタル・マエストロ,クラウディオ・アバド。

私はあの若い頃のはつらつとした姿を忘れない。そして自分もあんな風にまだまだ成長していきたい。


カラヤンがクラシックを殺した (光文社新書)

カラヤンがクラシックを殺した (光文社新書)

  • 作者: 宮下誠
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2008/11/14
  • メディア: 新書



一人でいること [自分の生き方]

また他人の文章の尻馬に乗ろうと思う。

日経ビジネスオンライン 2014年1月17日(金)
「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」
 友達が減っていくのが、大人の証です。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20140116/258348/

確かに,誰かとべったりくっついて,連んでいたいというのは,女子中学生の発想だ。
それこそトイレにも一人じゃ行かれないw

しかし大人になれば自然と友だちは減る。いや,減らない人もいるだろうけれど,べったりした友だちがいつまでもいるというのは自然ではない。それぞれの仕事があり,その世界が大切だから,勢い友だちとの時間を作りづらくなる。さらに,自分が大事にしたい「ホーム」が出来て,それに掛ける部分が大きくなって,総体的に友だちの占める割合が小さくなってくるのだ。

たまに昔の友だちに会うと,それこそ思い出話に花が咲くのは楽しいが,同時に,会わずにいた間に別の意味で遠い存在になっていることもわかる。

この記事を読んでいて思い出したのが「シマジ」こと島地勝彦氏のコラム。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100520/92079/

彼がいつも語っていることだが,
一人の時間をいかに楽しめるかがその人の程度を示す
のだそうだ。なるほど。誰かと連んでいないと楽しくないというのでは確かに幼い話だ。私自身がどうか?という問題はあるのだが,私は確かに仲間と酒を飲んで語るのは大好きだが,一人で本を読んだり考え事をしたりするのも嫌いではない。音楽もゆったり聴く時間は取れないが,自分の演奏技術に関する研鑽は,いくら積んでも楽しい。
長い人生,まだまだこれからももっと充実させていく。


部下サマ,かぁ [読書感想文?]

全く異論が無く,コメントを重ねる必要を感じないので,紹介だけする。

日経ビジネスオンライン 2014.1.14
 “鬼上司”を絶滅させた「部下サマ至上主義」の功罪
    ~部下の「認められたい」という思いには応える努力を
河合 薫
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20140110/258052/?P=5&mds

特にこの部分。

 社会的な存在である人間は、常に「自分の存在意義と居場所(=自己アイデンティティ)」を探索し続けるものだが、他者とのめんどくさくて、ややこしい関係性を乗り越えて、初めて自己は確立される。  青年期に、空気を読むことに必死で、仲間とぶつかったり、傷つく経験を避けてきた若い世代は、確固たる自己アイデンティティを確立できないままでオトナになった可能性が高い。すると何が起こるか? オトナになってからも、やたらと「自分の存在価値」を確認したがる願望が強くなる傾向が強まると考えられているのだ。  社会貢献をしたいと語る若者が多いのも、自分の存在を過剰に求めていることも関係しているんじゃないかと思ったりもする。  多分、「意見を聞いてもらえない」彼らはほんのちょっとだけ、「自分の存在意義」を認めて欲しいんだと思う。たったそれだけなんじゃないだろうか。


結局はこういうこと。


ダイヤモンドオンライン
認められたい私、認めてくれない社会~「承認不安時代」の生き方~
http://diamond.jp/category/s-mitomete

それで,改めて若者に言わなくてはいけないことがわかった。

心配するな,ダメに決まってる。

デザインするということ [社会の問題について]

こんな記事を読んでうれしくなった。

THE100-2014日本の主役
日産・中村史郎氏が語る成熟したカーデザイン
日経ビジネスオンライン 2014.1.6
清水 崇史
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20131227/257678/?P=1

この記事に出てくる和田智氏のコラムを読んでいたのはちょうど4年前。
未来の日本をデザインしよう 
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090901/203949/?n_cid=nbpnbo_leaf_bnld

これを読んで,
「デザイナーに憧れる http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2010-01-12
という記事を書いたり,和田氏の書籍

未来のつくりかた アウディで学んだこと

未来のつくりかた アウディで学んだこと

  • 作者: 和田 智
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2010/07/21
  • メディア: 単行本

を読んだりもした。そのときのことを思い出すと同時に,年末に読んでその後行き詰まっていた本を思い出した。
「先輩の小言を聞く(β版) http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2013-12-28

そして、メディアは日本を戦争に導いた

そして、メディアは日本を戦争に導いた

  • 作者: 半藤 一利
  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2013/10/11
  • メディア: 単行本

結局,すべてが同じであると言えよう。すなわち
全体を知り,大きくデザインできるか
である。

車のことで言えば,車のもつ社会的な,個人的な,経済的な,いろいろな意味を考えてデザインをしなくてはいけないというのがこの中村史郎氏にしても和田智にしても言っている。

この本で言えば,マスコミの持つ歴史的な,社会的な,もちろん経済的な意義を考えて新聞社なり放送局なりが存在しなくてはいけないと言うこと。そしてそれが経済的な部分に重きを置きすぎたばかりに,結局は戦争を煽ることになってしまったということ。

世間では霞ヶ関の高級官僚をやっかみ半分でたたくけれど,彼らは本当に一生懸命まじめに仕事をしているし,そもそもは我が国をよくしたいという崇高な気持ちで職に就いたのだ。しかしシステムが省ごとの縦割りになっていて,その縄張り争いに入らないと生きていけないことになる。彼らとて省益が一番だとは思っていないし,国家の全体像についてもきちんとわかっている人が多いのだ。しかしその全体をデザインする権力を持っていない。本来その権力を持っているのは政治家だが,それが無能だとこうなってしまうのだ。

昔,我が同僚たる,岡山大学大学院教育学研究科 橋ヶ谷佳正教授 (現在は附属特別支援学校長を兼任)に教えてもらった,「そもそもデザインとは」がまさにこれである。絵を描けばいいわけじゃない。ものを作ればいいわけじゃない。そのコンテクストは?そして主張は?

このことがいつまでも心に残っている。

講義を出すモチベーション [教育について]

明けましておめでとうございます。

年末に読んだ本について書こうと思いながら,関連のいろいろな話を見るうちに,壮大な議論になってまとまりがつかなくなり,なかなか書けないままに仕事が始まってしまいました。

と,そこで読んだこのコラム。

日経ビジネスオンライン 
山中浩之 ニュースを斬る 2014.1.6 
就活、「コミュ力偏重」から「成績も」へ?
「やりたくないこと」にどう立ち向かうかを企業は知りたい
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20131227/257650/?P=1

年頭から気合いの入る内容です。

今の私のポジションは教員養成系なので,教員として学校現場で活躍できる人材を送り出すことが使命です。ここ数年はどこでも教員の数が足りず,採用試験の合格率はずいぶん高いので合格するのは割合容易。ですから試験そのものは目的になりません。しかし都道府県等の教員採用は,公務員として定年まで雇用するのが原則なので,いい加減なヤツを教員として現場に送るわけにはいかない。だから私の講義は厳しいです。1年前期の必修科目の合格率が5割を越えたことはありません。ε-δ 論法もあきらめません。なぜって,その議論が出来るぐらいでないと,小学校でちゃんと国語が教えられないからです。増して今度英語が入ってくるそうだし。

これは国立大学の教員養成系だからこそできることなのはわかっています。しかも本学にはそれなりのレベルの学生が入ってくる(らしい)。

まあよそ様のことは知らないのですが,とにかく

 「教員採用試験に受かるだけを目的としていない」
 「現場で30年教師を続けられるだけの基本的な能力・取り組む姿勢を身につけさせる」

ということでやっています。年末に卒業生諸君が集まってくれました。その大半が教員として活躍しており,間違いなくそれぞれの現場において中心的な立場になっている。単に年齢のことではなくて,実際にそういう評価を受けている。もちろん彼ら・彼女らの努力の賜物なわけですが,それにちょっとでも関わることが出来たのかと思うと,こちらもやりがいを感じるわけです。

一方で,そこまでやっているので,安易な「教員養成6年制への移行」に強く反対しているのです。

かつて,大学に講義に来てもらったある岡山県下の教員が平気で「大学で学ぶことなんて,学校現場では役に立たない」と豪語したことがあったようですが,「学生時代に勉強しなかった自分でもなんとか現場をこなしてきた」に過ぎないわけです。しかも昔は学校現場でのOJTが機能していた。それに何となくついて行けば管理職になれたかもしれない。しかし現在はそうは行かないので,大学でより高度なレベルまで経験させて現場へ送り出しています。,昔のことはともかく今の我が方ではそこまで考えて学生を指導しています。

さて。

こういう「職業学校」的な立場でない,しかも「理工系」学部でないところではどうか。文系学部のマスプロ教育に意味があるのか。

同じ大学教員として,決して他人事ではありません。

その中で,こういう動きが出てきたことはむしろ歓迎したいと思います。大学の評価が入試の偏差値でなされることはそれこそ「ガラパゴス」。これから世界と戦っていかなくてはならない我々としては,教育の質を上げることが必要なのです。

私の出身大学では
賢く入ってバカで出る  人事を尽くさずして温情を待つ
といって笑っていましたが,本当にそれは冗談で終わらせなくてはならない。

教育は
バカで入っても,立派な人間として卒業させる
ためにあるのです。もちろん前提となる力がない者はそんなに簡単には力はつかないわけで,だから長い時間を掛けて教育をする必要がある。それでも卒業したら同じなのです。

今年もガンガンやります。いや,これまで以上にガンガンやります。

以上,鬼の曽布川,年頭の所感。

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