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元気はもらわない [日本語について思うこと]

前から気になっていたんだけど,今朝目が覚めて突然書きたくなったこと。

よく,「元気をもらった」っていう表現があるんだけど,めちゃくちゃ不愉快。

元気って「もらえる物」なんだろうか。

近い話でいえば,勇気とかやる気とかも「もらえる物」に分類されちゃってる。

ググってみると,「元気をもらう」「勇気をもらう」っていう表現はたくさんヒットする。あちこちで濫用されているようだ。その風潮に対してネガティブな意見もある。リンクを張り込んであるので,たどってみて下さい。

例えば この方の言い分 は,安易だから嫌いということかな。

この方は勇気をもらうっていうけど,勇気ってなに?という指摘。

やっぱり気付いた人はいるんだなというのがこの方の指摘。割合最近の表現であることをデータ検索で指摘。

「勇気をもらう」が嫌いな人はこうやって見つけたのだけれど,「元気をもらう」はずいぶん市民権を得ているみたいで,ネガティブな見方は少なかったのだが,完全にとどめを刺している記事があったので引用させていただく。

「元気をもらう」の妙ちきりん by「心に青雲」氏 2011.9.3

 「元気をもらえる(あげた)」「勇気をもらった(あげた)」というのは一種の流行語になった感がある。マスゴミが流行させたのだと思う。  しかし、例えば30年前なら、そんなことを言ったら、周囲の人は「?」となったはずだ。なに言ってるの、と。10年前でもなかったのではないか。  元気とか勇気とかは、もらったり、あげたり、できるものなのかいな?  もちろん「あの人は元気だな」とか「勇気があるな」と思って、だから自分も元気にならなくては、とか、自分も勇気をださなくては、と思うのはわかる。本来は見習うとか、あやかるという意味だったはずである。それならいい。  だが、それを簡単に「もらう」「あげる」という変な言葉で済ませるようになった。言葉の堕落、認識の堕落であろう。  ささいなことかもしれないが、これは大切な日本の文化である。  例えば誰もが知っている偉人や、尊敬する人、それが学者でも芸術家でも先生でもいいが、昔の人ならそんな「元気をもらった」「勇気をあげた」などと珍妙なことは言わなかった。日本文学全集を全部ひっくり返しても、どの作家もそんな下品な言葉遣いはしていないだろう。  本来なら社会の木鐸たるべき新聞記者が、こういう下品な言葉はチェックして遣わないようにしなければいけないのに、大衆受けするとばかりに流行させて、そして日本文化をぶち壊すのである。  元気とか勇気とかは自分の主体性の問題である。冒頭の会社を畳んだ女性のように、自分でがんばるしかない。他人からもらったり、あげることができると思うのはマザコンだからだ。


もう付け加えることはないようだ。

ズバリ言わせていただく。勇気や元気は「もらう」ものではない。自分の中で「湧いてくる」ものだ。自分の中の話であるのに,それから逃げて,簡単にもらえる物になっている。

あくまでも「勇気をもらった」「元気をもらった」は比喩表現であって,やりとりできる物ではない。他者の行動が自分の中で勇気が「湧いたり」元気が「出たり」するための「触媒のような」(比喩である!)役目をすることがあることはわかる。だが,あくまでも主体は自己だ。

暗喩は往々にして強い表現になる。人々を驚かせ,インパクトを与えることがある。しかしそれが普通になってしまってはダメなのだ。

そこで突然思い出した本がある。


日本語は論理的である (講談社選書メチエ)

日本語は論理的である (講談社選書メチエ)

  • 作者: 月本 洋
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/07/10
  • メディア: 単行本



実は最初のところを読み始めて放ってあったのだが,どうやら話はこの本の主張に関係するようだ。

第2章「論理とは比喩の形式である」

これに尽きる。久々にこの本を読み返してみよう。


つねに疑問を持ち、納得できる回答を探す [日本語について思うこと]

学生指導には毎年苦労する。

3年生から卒業研究に向けてゼミをやっている。まずはテキストを読むことだが,残念ながら上辺だけで議論をしようとするため,
「それはなぜですか?」という質問をすると,「なぜそんなことを聞くのか?」といぶかしがられる。
結局その点から起こして指導しなくてはならない。年々そのスタートのレベルが下がっているのが現状だが,それを嘆いても意味がないので地道にやるしかない。こういうレベルを放置しておくと,最近言われている「イノベーション」なんてのには絶対につながらないだろうし,私の立場で言えば,それが連鎖となってはいけないので,教師などになってもらっては困るわけだ。

こういう現状についてはあちこちで言われているが,最近目にしたのがこの記事。

猪瀬直樹の「眼からウロコ」 つねに疑問を持ち、納得できる回答を探す ~猪瀬流の「言語技術と課題解決力」の身につけ方~
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100830/243649/

なるほどそうそう。日本語の場合,特に意識して論理的に表現しないと,グズグズの表現になってしまう。言語技術という見方はよくわかるのだが,それが課題解決力だなんていうのはちょっと思いつかなかったが,この標題「常に疑問を持ち」の重要性からしてなるほどつながっているんだなと知った。

日本で最初に「うざい」と言われた教師 [日本語について思うこと]

学生の現状と就職のことを考えたとき,こういう物言いを続けているのでは採用してもらえないだろうと思って
Sobuの嫌いな言葉
というのを書いて公開していたのだが,年々学生の状況が変わってくるので,更新が追いつかないままになってしまって削除してしまった。

もちろん日々学生に指導はしているわけで,例えば先日も挨拶として私に
お疲れさんです
と声をかける学生がいたので,目上の者に向かってお疲れさんはないだろう,学生に労ってもらう必要性はない,という話をしたところである。

そんなこんな思っているうちに,
デキる上司は褒め方が凄い (角川oneテーマ21)

デキる上司は褒め方が凄い (角川oneテーマ21)

  • 作者: 日本語力向上会議
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2008/07/10
  • メディア: 新書


こんな本が出ているので思わず買ってしまった。そして笑いながら40分で読破した。
最初に出ているのが,「『うざい』というのをやめよう」だった。

日本で最初に「うざい」と言われた教師は私だろうと思っている。別に威張ることではないのだが。
そもそも「うざい」「うざったい」は,東京都多摩西部~川崎市北西部のあたりの方言で,雨上がりで濡れている深い草むらに素足で入った時の感じという意味だったそうだ。

そこから今のような形に発展させたのは,私が岡山大学に来る前に勤めていたこの学校である。さまざまな流行の発信地であるこの学校で,20年ほど前に生徒たちが使いだした表現。色々と口うるさくものをいう数学教師に生徒が「うざ」と一言で切って捨てたのがそのころである。

まあ高校生なんてのはそんなもの。それ自体をとがめるべきとは思わなかった。しかし問題は表現そのものよりも,何でもかんでも「うざい」で片づけてしまう,画一的なものの見方が問題なのだと思う。

他にもいろいろある。私もどちらかというと「言葉狩り」の形でこの話を書いてきたが,その言葉を使っている背景にあるものの見方や考え方の方が重要なのだ。

しかしこんな本は意外に重要だ。確かに古臭い話なのだが,就職試験はその古臭い相手にアピールして採ってもらう話なのだし,まあ多くの人が読んでくれることを願うところである。


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漢字を勉強しろ [日本語について思うこと]

週刊誌だのネットだので盛り上がってる話。

最近の子どもの名前を見たとき,その漢字でそう読めるわけ?みたいな名前がウジャウジャいる。

確かに今の大学生ぐらいでも時々見る。

相当に怪しい意訳を介したと思われる,洋物系の名前への当て字。
全く万葉仮名よろしく,テキトーに好きな字(字画占いぐらいは見てるのかな?)を並べた名前。

名前は本人には責任はない。すべて親の責任だ。ひどい当て字の名前をみると,親の教養を疑ってしまう。すなわち漢字は表意文字であるということを知らないのだ。それを敢えてむちゃくちゃにしている,暴走族の落書きと同レベルで「いいじゃん,個性だし」とか言っちゃう親。

私は曽布川なんていう変な姓で生まれた。ネットでこの名前で検索すれば,上位はほぼ私が独占するぐらい珍しい。だから目立つ。

読みは「そぶかわ」である。連濁については,「あきばはら」と同様,間違えられやすい。それも含めてちゃんと読んでもらえないことは多々ある。だから逆にちゃんと憶えてもらえる。

名前は「拓也=タクヤ」。今でこそ結構メジャーな名前だが,生まれた頃は珍しかったらしい。だがこの程度で良かった。姓が変で,名前まで難読だったら大変だっただろう。だから二人の息子には,誰でも読める読みやすい名前を付けている。結婚などで姓が変わる可能性が高くない男の子には,余計な苦労をさせたくないからだ。もちろん漢字の意味も考えている。

静岡県浜松市辺りに発する「曽布川」という姓には色々な説話があるようだ。これを 「そぶ」 と読むのは 中国の「蘇武」という人と関係があるとか,どこそこの磁鉄鉱の意味だとか,沼地に生えている草だとか,色々な説を教えてくれる人がある。何が「正しい」のかはわからないのだが,そのいずれの説も「曽」「布」という字を用いている理由にはなっていない。「祖父江」というのと同じ姓だったが字だけ換えたのだという見方もあって,そういう文字の変更はあちこちにあるのでまあわからないでもないのだが,面白くはない。

曽=かつて
布 布で
川 川に橋を架けて,相手の軍勢をだまして溺れさせた

という説話の方が楽しいと思うので,これを話すネタにしている。英語でも簡単に説明できるので、外国人にもうける。

確かにそもそも漢字の読みというのは適切な和語に勝手に当てたのであって,何でも良いという考え方はわからないではないが,それも程度の問題である。

ちなみに,無とか不という字を使うケースは少ないのに,なぜ未はたくさん使われているのだろう。

 未   いまだ○○せず。

こんなネガティブな文字を使っちゃうのは,私には出来ない。

もっと漢字の意味を考えたいと思う。漢検なんか出来たって意味がない。

贔屓ってこんな字を書くんだ [日本語について思うこと]

贔屓(ひいき)なんていう字を日常手で書ける人がいるなら,すごいと思う。でも日常使う言葉だから,くだらないなとは思わない。昨今はこうやってコンピュータに変換させてしまうから,すごく難しい漢字・熟語がバンバン使われているのは面白い。

オレはそんな話には与しない(くみしない)
立場を弁えてものを言わないと(わきまえて)

なんていうのは,口頭で使うことばなので,その漢字を知らない自分は恥ずかしいとは思うが。

最近話題の「漢検」について論じた高島俊男「あぁ、漢字検定のアホらしさ」(文藝春秋2009年4月号)は面白かった。

最近,テレビのクイズ・バラエティ番組で「めざせ漢検合格」なんてのをやっている。もちろん受かる人はそれはそれですごいとは思うのだが,そもそもその出題に疑問符がつくというのが氏の主張である。

そもそも漢字の読みというのは,最初から決まっていたものではない。中国から輸入された文字である漢字にはもともと日本語の音があったわけではないのであって,漢字の音を借用して日本語を表す仮名文字と,意味の同じである(という言い方には大いに問題があるが)和語を当てはめて使う訓読みがあったわけである。

明治以降,言文一致運動が広まった後の文章を読むと,このことが味わえてとても楽しい。出先なので例をあげることが出来ないが,和語の意味を深めようとして巧く漢字を当てているのが面白い。昨今は「何でもあり」の当て字名前なども流行っているが,それには独善的な漢字がして賛成できないが,当時の文筆家たちのする様はなかなか味わえる。そこには振り仮名がある場合もあり,読めるのが当たり前だろと突き放されている場合もあり,検定試験で丸をもらうよりもずっと楽しいと思う。何しろそこには

これが正解だ などということはない

のである。我々の生きている世界はそれがほとんどであるのに,何らかの「権威」が「お墨付き」を与えたものにのみ価値を置こうとする発想は本当に貧しいものだと思う。そうやって点数をつけてもらわないと不安で仕方が無い世の中というのはまさに危険だと思う。

改めて言いたい。  心配するな,ダメに決まってる。 

ネオ仮名遣い [日本語について思うこと]

前から面白いと思っていたこの人の本をまた読んでしまった。

 秋月高太郎「日本語ヴィジュアル系」(角川oneテーマ)

私自身も含め,IT関連の器材は急速に我々の生活に入り込んでいる。そしてそれは我々の日本語にも大きな影響を与えている。

特に若い人たちにはそれが顕著だ。例えば漢字は「ちゃんと書けなくても読めれば良い」ということになっている。

明治時代に活字・活版印刷が輸入されたときに日本語が急速に変わったと言われた。同時期に他にも色々な文化を輸入したことから,漢語による造語が増え,日本語が硬くなったとか,「○○的」のような言葉が増えたとか。

それに比べてもむしろ昨今のITの普及による変化の方がもっと大きいのではないかと言われている。

その中で著者は書き言葉に大きな変化が起きていること,さらにそれが主導する形で日本語が変化していることを指摘している。

著者は私と同じ歳である。私自身は,上の人たちのどちらかというと古くさい考えに立脚しながら,若い人たちの言うことにもある程度肯ける世代なのではないかと思っている。その点で著者の言い分は良く理解できる。

そこで私は2つのことを思った。

まずここで紹介されている「ネオ仮名遣い」についての色々な提案を見る限り,著者自身はあまりそう言う文体・書き方をしていないのではないか?という感じがする。

たとえば,

 ムカつくっっっ!!!

などいう書き方をよく見る。なぜ 「 っっっ 」 か? と考えるとき,同書で指摘されているように確かに結果としては「っ」を重ねることで強い感情を表しているのだが,なぜそうなっているかという理由が述べられていないように思う。なぜこういう書き方になるかについては,私は理由がはっきりあると思う。上の表記を強引にその通りに発音してみようとするとわかる。同書に述べられているように,促音の 「 っ 」は,音楽用語で言えば休符みたいなものということになるのだろうが、実際にはそこでは我々は息を止めている。したがって

 ムカつくぅっっっっっっっっっっっ!!!!!!!

を発音してみようとすると,ずいぶん長い間息を詰めなくてはならない。そんなことをすれば頭に血が上ってくる。それが例えば怒りの気持ちなどを強く表しているものとして共感されるのではないかというのが私の感覚である。

他にも

 また失敗してしまった。。。。。

という表現において,なぜ句点「。」が連発しているのか。

 また失敗してしまった・・・・・・

とどういう違いがあるのかなどについて,同書はそれほど詳しくない。もちろん現在増殖中の表現なので決定打を出しにくいということもあるのかもしれない。私の感覚では前者は心が残っている感じ,後者は忘れて行っている(行こうとしている)感じであると思う。それに比べて

 また失敗してしまった、、、、、

となると「ダメだ」という感じを自分に対して向けているように思える。

全く私見であるが,この辺についてもう少し深く踏み込んで欲しかったように思う。


それからもう一つ。著者はこういうことを研究する立場の人なのでそれで良いのだろうが,私は自分の所の学生がこういう表記で何かを書いて出してきたら、即刻直させるだろう。なぜなら彼らは卒業して社会に出て行く,言い換えれば(私のような)古くさい人間たちの間に入っていくのである。そこでどのような評価を受けるかを思うと,決して看過できない。数日前にも似たようなことを述べたのだが,今の若者にとっての年長者である我々は,結果がそうなって行くであろうことに是非を述べることは意義がないにしても,それに全く迎合するのでない自分たちの立場を明らかにしていく必要があると思う。

一応私も教師だ。若者のことは出来るだけ理解する。状況によっては彼らの流儀を使うこともある。しかし迎合しない部分も持ち続ける。





漢字を大切にしたい [日本語について思うこと]

ヨーロッパ人からよく受ける質問。

漢字を勉強するって大変だろう。何でそんなことするんだ?小学校のときに1000字も勉強する?時間の無駄じゃないのか?

私は彼らに言う。ヨーロッパの知識階級にとってのラテン語やギリシャ語のように東アジアでは中国語は大切なものであり、古くはこの辺りのどの国もその影響を受けてきた。ベトナム語のように言葉そのものはどっぷり国語でも文字はだいぶ前に決別したケース、朝鮮語のようにいま文字の上でも遠ざかろうとしているケースと色々あるが、日本語は言葉そのものは中国語とはずいぶん違うが、表記や造語の面で不可欠な関係にあると言えよう。

そんな漠然とした知識を上手くまとめてくれたのが


訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語 (光文社新書 352)

訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語 (光文社新書 352)

  • 作者: 笹原宏之
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2008/05/16
  • メディア: 新書



子どもの頃から親しんできた漢字について,こうやって改めて分析してもらうととても面白い。

よく,「日本人は物まねばかりしてオリジナリティがない」などと言われるが,漢字(中国語)をうまく取り入れて自国の言語を豊かにした先人たちの功績は誇るべきことなのではないかとも思う。

また,別のどこかで読んだのだが,1つの漢字を状況に応じて読み分けること,しかも初見の文章をいきなり音読するような状況でそれを行うのは,考えてみれば高い能力を要する。こんなことをほぼすべての国民が出来る状況にあるというのはすばらしいことである。日本はとても識字率が高いが,さらにその程度を考えても我々は自信を持っていい。

昔から思っていたことだが,我々は「漢文」をもっとたくさん学ぶべきではないかと思う。言葉の成り立ちを知る上で重要な役割を持つことは当然。漢詩を味わうことや漢籍を通じて物事を考えることが,日本人(東アジア人)としてのアイデンティティにとって必要なことではないだろうか。英語を学ぶのも結構だがそれだけではダメで,物事を考えるための基本的な立場を形成することが,国際化社会で生きていくために必要なことだと思っている。もちろんそれは英語(圏)的なものであってもいいのだが,私は「オリジナリティ」と言う意味で,世界の多数派になろうとしている英語圏的な(アングロサクソン的な)考え方でなく,こうした東アジア的な考え方を持つ方が良いのではないかと思っている。だから,明治時代「脱亜入欧」なんて言ってた福澤諭吉先生には申し訳ないが、私は漢字廃止論には大反対である。漢字は大切にすべきであり,国家を挙げて漢字教育を続け,考えることの基礎としたい。

縦に書け! [日本語について思うこと]

昨日に続き,斎藤孝氏と武田双雲氏の対談記事を読んでいて。

斎藤氏は書道における「構え」の重要性を指摘する。書道では腰を立てて「きちんとした」姿勢で書くわけだが,そういった身体的なことが態勢を作り出すのだという。

そこで思い出したのが,

 石川九揚 「縦に書け!―横書きが日本人を壊している」 (祥伝社)

この著者は私でも名前を知っているぐらいの著名な書家である。

この本に書かれていることは

「横書きに日本語を書くことによって,様々な身体的な問題(リズムなども含むようである)が起き,人々,特にこどもたちに 悪影響を及ぼしている」

という話である。例えば平仮名は縦書きの漢字(万葉仮名)を書きやすいように崩して行って出来たものであるから,横書きは不自然な動きになるはずであるというのは(トンデモ科学呼ばわりされるかも知れないが)私は感覚的に納得できる。

書道における腰を立てた構えは縦書き向きに思える。昨今は欧米の影響から,またコンピュータの影響から横書きで書くことが多いが,それが様々なところに悪い影響を及ぼしていると石川氏は言う。最近は横書きでさえも手で書くことが少なくなり,さらに

木公山土成 (松山城)  タロ人 (名人) 

といった遊び(隠語に近いかも知れないが,パズルと見れば面白い)などがネットでは普通になってきた。

ちなみにこれは変な話ではない(「粂」という字は「久」「米」がくっついたものであるから昔からやっていることだ)が,状況が変わって来ている(昔を規準にすれば狂ってきている)ことには間違いない。

私個人も,このことが気になっていて,(数学の内容では難しいのだが)可能な限り黒板に縦書きに書いて自分自身がどうなるか感じてみようとしている。


縦に書け!―横書きが日本人を壊している

縦に書け!―横書きが日本人を壊している

  • 作者: 石川 九楊
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2005/06
  • メディア: 単行本



おまけ: 齋藤氏と武田氏の対談の最後に,私塾の可能性についての言及があり,齋藤氏の

「教育欲のあるおせっかいな人,三百人求ム」

で話が終わっている。 その三百人のうちの一人にナラムとして手を挙げている私である。

文字の役割 [日本語について思うこと]

文藝春秋2008季刊秋号は「すばらしき日本語の世界」と題して,各界の手練れたちが書き下ろした文章によって構成されており,大変興味深く読んでいる。

まず目を引いたのは,斎藤孝×武田双雲 の対談 「身体的日本語論」である。

斎藤孝氏は,本ブログを書くに当たってもっとも影響を受けた人の一人で,特に繰り返すまでもない。

武田双雲氏は,書道家の家に生まれ育ち,厳格な教育を受けた中から,その殻を破って大きく展開している,注目の書家。テレビで何度も見たことがあるが,文字というもの,書ということについて本当に根底から考え直そうとしているその姿は,とてもまぶしく見える。路上パフォーマンスやテレビの話など,上辺だけ見るとちゃらちゃらしているような感じを受ける人もいるかも知れないが,本質を見極めた上でやっていることだと思う。

対談ではいくつも興味深い話があったが,その中で挙げてみたいのは,「書道はコミュニケーション・ツールだ」という武田氏の考えである。

「文字を書く」ということに対して古来より日本人はとても大きな意義を見いだしてきた。「字は人なり」などというが,私など本当に恥ずかしい限りである。
これは西洋人には薄い感覚なのではないだろうか。タイプライターを使うのが当たり前になってしまい,手書き文字にはこだわりがはない人が多い。

さらに彼らは 「日本語は大変だ,あんなにたくさん漢字を勉強しなくてはならない。子供たちは大変だ。」
と来る。さらには「無駄じゃないのか?」とまで言い出す人が多い。

しかし漢字は我々東アジアの人間の文化の根幹をなすものであると思う。昨今はコンピュータの普及によってずいぶん文字に対する感覚が変わってきたのかも知れない。このことについては明日また書くことにする。

武田氏はその書道塾の中で「双雲メソッド」という「ゲーム」をやっているそうだ。それは,「人生で大切なもの」とか「今の悩み」などについて話してもらって,それに対する答えを書で表現するといったものだという。

西洋のアルファベットは残念ながら表音文字でしかない。それに対して漢字は表意文字であり,もちろんそれは絵文字から出発しているものだから,色々な意味で人々の心を表現するにも適している。特にそれが毛筆であればなおさら。

このことについて齋藤氏は指摘する。特に即その場で答えを必要とするものでもないし,出来るものでもない,ゆったりした関わりのもてる「場」であると。

これは先日書いた山田雅夫氏の言う「絵を描くこと」にも共通する話である。
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