とても腹が立つこと2題・その1 [教育について]
ずいぶん前に読んで,ここに書こうかどうしようか迷っていた本について紹介。
題の付け方はキャッチーではあるものの,あまり品の良いものではない。誤解を受けることを承知でのインパクトどっかーんの表題である。だが訴えたいことやその中身については大いに賛同できる。
予習をすることは病である,だからしてはいけない,という風の書き方である。だがそうではなくて
予めゴールがわかっていることに向かって進んでいき,そこまで出来たらOKという価値観を持ってしまうということがとても危険なことなのだ。同書による「予習病」の定義をここに述べてみよう。
予習病:
① すでに定められたカリキュラム,学んできたことに固執し,未知の事柄を「まだ教わっていない」「やったことがない」ゆえに無視,否定する精神の傾向
② 現状に疑問を持たず、当たり前と思うことだけを信じ、自己中心的な世界の中で満足する精神の傾向。様々な合併症に注意が必要。
予習すれば十分だと思っているとこういう価値観になってしまう。予習は十分条件ではない。必要条件だ。予習しなくて良いということをいっているのではない。予習しただけではダメだ,もっと大切なのは「振り返ること」である。
私自身もこれまで述べてきた。たとえば
「日本史取ってません」 「高校で数ⅢCを取ってないんですけど大丈夫ですか?」
なんてのも同じ。「日本史取ってません」については述べた。「数ⅢCを取ってないんですけど」については,この言葉を贈ろう。
高木氏は日本の初等・中等教育は次の3つの性格を併せ持つという(同書 p.49)。
・ 完結教育
・ 受験準備教育
・ 進学準備教育
彼の旧著で挙げられてというのだが,それを聞いて読んだことを思い出した。本自体がどこかに行ってしまったが。
完璧な指摘である。まず社会に出るために必要な能力を建前上は中学まで,実質的には高校までの間でつけようというのが完結教育。このことは,昔務めていた,受験がないが優秀な生徒を集めていた高校では折に触れて口にしてきた。すなわち,同年ですでに社会に出ている人もいるんだから,そのつもりで生きろと。
その学校にいたことは私にとっては掛買の無い財産である。実は中学校からそこに在学していた私は,高校受験も大学受験もしていない。だから「おまえはバカだ」と言われれば,大きな声で「その通り」と言ってしまう。
受験準備教育が重視されている。「一部の人に」「異常に」というべきなのかもしれないが,これが「そんなことはもういいや」という相当多くの若者を生み出していることも忘れてはならない。
そして困ることは,これは大学側の責任なのだが,大学は入ってきた学生を最短時間で卒業させようとする。無責任に追い出してしまうと言ってもいいぐらいだ。長年にわたって,出身大学名は「入学試験を通った証」であり,その選抜試験が社会に出るためのパスポートだと思われてきた。一番激しいのは音楽業界か。昔から「芸大卒なんてろくな奴がいない,芸大は入学して入学式に出るかでないかで後は行かないものだ」なんていう強者がいたっけ。それは作家にとっての東大文学部もそうだったか?さらに昔は,その肩書きすら要らないと言って芸大附属高校から芸大に行かずに(もちろん音楽の)仕事をしちゃった人もいたけど。
それはともかく。
一方で進学準備教育というのは意外に忘れられていることなのだろう。私自身は「バカ」であるが,大学に進学してとてもうれしかったことを思い出す。一生懸命勉強したかどうかは別として,タコ先生の英語,必修の「基本体育」で教わった「正しいラジオ体操の仕方」,途中で担当者が変わったため後半放棄してしまったけれど,動物実験を中心とした心理学等々,本当におもしろかった。これを楽しめたのも,中学・高校のあいだにそれにつながる教育を受けてきたからだろうと思う。
そう思うと,ずいぶん日本の教育は歪なものになっているように思う。上記3つの分類のうちはっきりしているのは
○ 受験準備教育
○ 受験しないから勉強なんかいいや という若者のたまり場
の2つの要素だけだ。いや,高校を完結教育にしようと苦闘している人がいるのは知っている。そこを充実させるべきだ。同時に進学準備教育もしてもらいたい。そこがあまりにも薄いため,学生たちは大学に入ってとまどう。さらに「こんな内容,要りませんから」と平気で言ってしまう。私が嫌いな言葉の1つに
理系 ・ 文系
という言葉がある。そうやって自分を型にはめ込むことによって,世界を狭めているのだ。それも受験準備教育だけしか考えていないからだ。
この本はこうした私のイライラ感に上手くフィットしてしまった。興味深い事案やいい提案が挙げられていて,なかなかおもしろかった。
そこで本題。なぜ腹が立ったか。それはこの著者の高木氏が中学受験で有名な日能研の人だからだ。
日能研が悪いということではない。本来,こういう分析は大学のセンセがすべきことだ。だが大学のセンセはこれを読む側。書いたのはある意味一段下に見ていたはずの塾のセンセ。
我々の存在意義が問われているのだ。こういう立派な人の言い分はちゃんと世に浸透させなくてはならない。
同氏の前著もついでに紹介。
よかったらこちらもポチッと。
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題の付け方はキャッチーではあるものの,あまり品の良いものではない。誤解を受けることを承知でのインパクトどっかーんの表題である。だが訴えたいことやその中身については大いに賛同できる。
予習をすることは病である,だからしてはいけない,という風の書き方である。だがそうではなくて
予習をすることがいけないのではなくて,予習をすれば十分だと思ってしまうことがいけないという言い方が良いのではないかと思う。
予めゴールがわかっていることに向かって進んでいき,そこまで出来たらOKという価値観を持ってしまうということがとても危険なことなのだ。同書による「予習病」の定義をここに述べてみよう。
予習病:
① すでに定められたカリキュラム,学んできたことに固執し,未知の事柄を「まだ教わっていない」「やったことがない」ゆえに無視,否定する精神の傾向
② 現状に疑問を持たず、当たり前と思うことだけを信じ、自己中心的な世界の中で満足する精神の傾向。様々な合併症に注意が必要。
予習すれば十分だと思っているとこういう価値観になってしまう。予習は十分条件ではない。必要条件だ。予習しなくて良いということをいっているのではない。予習しただけではダメだ,もっと大切なのは「振り返ること」である。
私自身もこれまで述べてきた。たとえば
「日本史取ってません」 「高校で数ⅢCを取ってないんですけど大丈夫ですか?」
なんてのも同じ。「日本史取ってません」については述べた。「数ⅢCを取ってないんですけど」については,この言葉を贈ろう。
高木氏は日本の初等・中等教育は次の3つの性格を併せ持つという(同書 p.49)。
・ 完結教育
・ 受験準備教育
・ 進学準備教育
彼の旧著で挙げられてというのだが,それを聞いて読んだことを思い出した。本自体がどこかに行ってしまったが。
完璧な指摘である。まず社会に出るために必要な能力を建前上は中学まで,実質的には高校までの間でつけようというのが完結教育。このことは,昔務めていた,受験がないが優秀な生徒を集めていた高校では折に触れて口にしてきた。すなわち,同年ですでに社会に出ている人もいるんだから,そのつもりで生きろと。
その学校にいたことは私にとっては掛買の無い財産である。実は中学校からそこに在学していた私は,高校受験も大学受験もしていない。だから「おまえはバカだ」と言われれば,大きな声で「その通り」と言ってしまう。
受験準備教育が重視されている。「一部の人に」「異常に」というべきなのかもしれないが,これが「そんなことはもういいや」という相当多くの若者を生み出していることも忘れてはならない。
そして困ることは,これは大学側の責任なのだが,大学は入ってきた学生を最短時間で卒業させようとする。無責任に追い出してしまうと言ってもいいぐらいだ。長年にわたって,出身大学名は「入学試験を通った証」であり,その選抜試験が社会に出るためのパスポートだと思われてきた。一番激しいのは音楽業界か。昔から「芸大卒なんてろくな奴がいない,芸大は入学して入学式に出るかでないかで後は行かないものだ」なんていう強者がいたっけ。それは作家にとっての東大文学部もそうだったか?さらに昔は,その肩書きすら要らないと言って芸大附属高校から芸大に行かずに(もちろん音楽の)仕事をしちゃった人もいたけど。
それはともかく。
一方で進学準備教育というのは意外に忘れられていることなのだろう。私自身は「バカ」であるが,大学に進学してとてもうれしかったことを思い出す。一生懸命勉強したかどうかは別として,タコ先生の英語,必修の「基本体育」で教わった「正しいラジオ体操の仕方」,途中で担当者が変わったため後半放棄してしまったけれど,動物実験を中心とした心理学等々,本当におもしろかった。これを楽しめたのも,中学・高校のあいだにそれにつながる教育を受けてきたからだろうと思う。
そう思うと,ずいぶん日本の教育は歪なものになっているように思う。上記3つの分類のうちはっきりしているのは
○ 受験準備教育
○ 受験しないから勉強なんかいいや という若者のたまり場
の2つの要素だけだ。いや,高校を完結教育にしようと苦闘している人がいるのは知っている。そこを充実させるべきだ。同時に進学準備教育もしてもらいたい。そこがあまりにも薄いため,学生たちは大学に入ってとまどう。さらに「こんな内容,要りませんから」と平気で言ってしまう。私が嫌いな言葉の1つに
理系 ・ 文系
という言葉がある。そうやって自分を型にはめ込むことによって,世界を狭めているのだ。それも受験準備教育だけしか考えていないからだ。
この本はこうした私のイライラ感に上手くフィットしてしまった。興味深い事案やいい提案が挙げられていて,なかなかおもしろかった。
そこで本題。なぜ腹が立ったか。それはこの著者の高木氏が中学受験で有名な日能研の人だからだ。
日能研が悪いということではない。本来,こういう分析は大学のセンセがすべきことだ。だが大学のセンセはこれを読む側。書いたのはある意味一段下に見ていたはずの塾のセンセ。
我々の存在意義が問われているのだ。こういう立派な人の言い分はちゃんと世に浸透させなくてはならない。
同氏の前著もついでに紹介。
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タグ:教育改革
2010-03-03 05:00
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