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続・続・偽装問題 [社会の問題について]

昨日の話の続き。私なりの結論から言う。

作曲家・新垣 隆氏には罪は無いと思う。

だが氏は記者会見を開いて,頭を下げた。確かに関係することで「世間は騒いだ」。だがそれだけだ。

原因を作ったのは新垣氏ではない。本人は一生懸命まじめに音楽をしただけだ。少なくともその作品を聴いて良いと思った人がいるのだし。

とにかくこんなことで新垣氏を責めるべきではない。むしろそんなに売れる曲を書いた人だという評価をしたい。

追記: 新垣隆氏の信念を伝え聞いた。
「音楽はどんなに素晴らしい物であっても、 音である以上人の迷惑になるかもしれないものだ・・・」

https://www.facebook.com/fumi.igarashi.12/posts/447905968669518?stream_ref=10

私はこの話に痛く感動した。

続・偽装問題 [社会の問題について]

「続」って本編がなくての話なのだけれど。

全聾の作曲家の作品について,少々スキャンダラスな話題が出ている。

ちょうど先日当地でもその演奏会があった。このところ多忙で,聴きに行くことは出来なかったのだが,テレビでその一部分を聴いたことがある。

まあ特に曲に惹かれたわけではないけれど,現代の作曲家を何らかの形で応援しなくてはいけないという気持ちはあるので,気にはなっていた人である。

で,話は「作者偽装」問題である。いくつかはゴーストライターが作曲していたということのようだ。
「ショックを受けた」 「がっかりした」

などなど,ネット上でも色々な意見が出ているが,私は全くそれに与する気はない。なぜなら,誰が作ろうが曲が良ければいいわけで。

だがこのことが明るみに出て,またその作曲家のバッシングが始まるのだろう。もういい加減にして欲しい。

例の「食品偽装」の話と全く同じ構造である。

友人であるマーケティング/人材育成プランナーの山本直人はあのときこのようにブログに書いた。
「固有名詞」を食べてきた日本人。
http://www.naotoyamamoto.jp/blog/archives/2013/11/post-146.html

「全聾なのに大きな交響曲を作曲をした」 「現代のベートーヴェンだ」

売らんかなのこういう宣伝文句は,確かにキャッチーだが,それは単なるとっかかり。曲を聴いて良ければそれで良いのではないか。「食品偽装」を食べてみて見破るのは容易くないが,こちらはいずれにせよガチンコ勝負。良い曲なら良い。好きでなければ好きでない。

それだけだ。

「人々は音楽ではなくてその周囲の物語を聴いている」


誰かがそう表していた。それはどうぞご自由に。だがこの問題があってもなくても,あの曲が良ければ良いのではないだろうか。

実際,ゴーストライターが書いているものというのは,世の中にはたくさんある。いわゆるタレント本のようなものの多くはそうだという。かつては何冊か読んだ,ある教育者の本も,最近は1つもおもしろくないので,多分そういうことになっているのではないかと思っているし。

この話が早く忘れ去られ,誰の作でもいいから良い音楽がたくさんの人に聴かれることを願いたい。



デザインするということ [社会の問題について]

こんな記事を読んでうれしくなった。

THE100-2014日本の主役
日産・中村史郎氏が語る成熟したカーデザイン
日経ビジネスオンライン 2014.1.6
清水 崇史
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20131227/257678/?P=1

この記事に出てくる和田智氏のコラムを読んでいたのはちょうど4年前。
未来の日本をデザインしよう 
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090901/203949/?n_cid=nbpnbo_leaf_bnld

これを読んで,
「デザイナーに憧れる http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2010-01-12
という記事を書いたり,和田氏の書籍

未来のつくりかた アウディで学んだこと

未来のつくりかた アウディで学んだこと

  • 作者: 和田 智
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2010/07/21
  • メディア: 単行本

を読んだりもした。そのときのことを思い出すと同時に,年末に読んでその後行き詰まっていた本を思い出した。
「先輩の小言を聞く(β版) http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2013-12-28

そして、メディアは日本を戦争に導いた

そして、メディアは日本を戦争に導いた

  • 作者: 半藤 一利
  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2013/10/11
  • メディア: 単行本

結局,すべてが同じであると言えよう。すなわち
全体を知り,大きくデザインできるか
である。

車のことで言えば,車のもつ社会的な,個人的な,経済的な,いろいろな意味を考えてデザインをしなくてはいけないというのがこの中村史郎氏にしても和田智にしても言っている。

この本で言えば,マスコミの持つ歴史的な,社会的な,もちろん経済的な意義を考えて新聞社なり放送局なりが存在しなくてはいけないと言うこと。そしてそれが経済的な部分に重きを置きすぎたばかりに,結局は戦争を煽ることになってしまったということ。

世間では霞ヶ関の高級官僚をやっかみ半分でたたくけれど,彼らは本当に一生懸命まじめに仕事をしているし,そもそもは我が国をよくしたいという崇高な気持ちで職に就いたのだ。しかしシステムが省ごとの縦割りになっていて,その縄張り争いに入らないと生きていけないことになる。彼らとて省益が一番だとは思っていないし,国家の全体像についてもきちんとわかっている人が多いのだ。しかしその全体をデザインする権力を持っていない。本来その権力を持っているのは政治家だが,それが無能だとこうなってしまうのだ。

昔,我が同僚たる,岡山大学大学院教育学研究科 橋ヶ谷佳正教授 (現在は附属特別支援学校長を兼任)に教えてもらった,「そもそもデザインとは」がまさにこれである。絵を描けばいいわけじゃない。ものを作ればいいわけじゃない。そのコンテクストは?そして主張は?

このことがいつまでも心に残っている。

困った無邪気さ [社会の問題について]

このところ,困った法律が国会で審議されている。

それに対してずいぶん激しい抗議活動がなされているようだ。その昔,当時幼児だった晋三ちゃんが信介おじいちゃんのまえで「アンポ,ハンタイ」と練り歩いて苦笑された話からすると大人しいかもしれないが,まあ近年では割と強烈な動きだ。

そこで,自民党・石破茂氏(現・幹事長)のブログ発言が取りざたされていた。
その激しい抗議活動について「テロと考えの根っこが同じだ」というようなことを書いたらしい。

この発言を見ていても,またこの法案を主管する担当大臣の答弁を聴いていても,私にはこの人たちは自分たちが歴史的に重要なポジションにいるということがわかっていないように見える。たとえば
機密指定するのは○○と○○と○○のジャンルに限ると明記してある。だから役人はそれ以外のことを機密指定するはずがない
などという担当大臣の答弁を聴いたが,こういうのを

  お花畑

というのだ。もし世間を欺くためにこう強弁しているならまだ良し。反対派にも存在意義がある。しかし見ているとどうも本気でそう考えているように見えるのだ。

百歩譲って,今は内閣も役人もすべてそう思っているとしよう。だがそれが将来一人歩きをする可能性がないと言えるのか。

石破氏の発言にしても,実は認識としては正しいと私は思う。だがこの無邪気な発言がそのうちすべてのデモ活動を禁止するような暗黒社会へつながらないと言えるのだろうか。

彼らは自分たちが歴史の1ページを作っていることをもっと認識すべきだと思う。彼らの無邪気すぎる発言には大いなる不安を感じてしまう。

石破氏については,その正論をぶつところは支持できるのだが,この無邪気な発言にはがっかりした。

それでも石破茂を応援するのか 
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2013-07-20

やはり石破茂を応援する
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2009-09-07

付記: 今現在(2013.12.9)にしては遅いかもしれないが,以下の記事を見つけた。さすがは冷泉彰彦氏。この冷静な分析。

Newsweek 日本版 プリンストン発 日本/アメリカ新時代 2013.12.3
特定秘密保護法案、絶叫ではなく議論が必要なら、その中身は?
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2013/12/post-608.php


コンピュータの使えない年寄り [社会の問題について]

昨日に続いて読んだ冷泉彰彦氏のコラム。

「国際成人力調査」日本トップは喜べるのか?
Newsweek 日本版オンライン 2013年10月15日(火)
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2013/10/post-594.php

「天才は少ないが、スキルの高い中間層」が「日本のものづくりの原動力」などと言いながら、その「ものづくり」の現場では作業レベルのプロセスはどんどん国外に出しています。つまり「分厚く優秀な中間層」が活躍できる仕事は減っている


「コンピュータが使えない管理職が優遇され、使える人間は作業レベルだとして低賃金に据え置かれる」というカルチャーを克服することが重要


全くその通り。私も年寄り組ではあるが,それほどコンピュータが使えないとは思っていない。

さらに言おう。教育の現場ではすでに一生懸命やっている。十分だ。しかし私が電子教科書の導入に反対すると,このコラムでも指摘されているような「ITを使えないと世界とは太刀打ちできない」と言って突っかかってくる人がいる。私は小中高での電子教科書の導入には反対しているけれど,別にITが使えなくて良いと言っているわけではない。むしろ大学生はちゃんと使えるように教育すべきだと言っているし,実際にやっている。

それを使えるようにするには人間の側にそもそも思考力が必要だ。深く考える力がなければ単に情報集めをするだけ,検索オンリーの愚か者を量産するだけだ。だが子どもの頃からITばかり使っていると,その力をつけるチャンスがなくなる


と言っているのだ。だからこのコラムにあることには大いに賛同する。

ウィーンと倉敷 [社会の問題について]

結局8月は1ヶ月間何も書かなかった。この夏は全くミュージシャンをしていた。もちろんこなすべき仕事はたくさんあって,それは大過なく(一応滞貨も無いつもりだが)こなしたつもりなのだが,それでも,教育やら社会のことやらについて書く時間は取れなかったわけだ。

8/27にウィーン楽友協会大ホールでコンサートに出演。

約30年ぶりのステージだったが,こちらの感性が上がっている分,「あのニューイヤーコンサートをやっている,世界最高峰のホールに来た」などという舞い上がった感動ではなく,じんわりとその素晴らしさを心に刻むことができた。

そのための準備に忙しくてこちらはお休みだったわけだが,その間の諸々はFacebookに。私の名前で検索してくれれば当たるわけで,そちらに興味があるかたはどうぞ。

ウィーンに行ったのは10年ぶりである。Ringを1周するトラムは普通のトラムではなく観光用の別料金になっていたり,あちこちで工事が行われていたりと,変化はあったが,山のような日本人観光客はいるし,メインシーズンは過ぎたとは言え,街中にたくさんの「モーツァルト」がいる光景も相変わらずであった。

しかし28年前に行ったときとはいろいろな意味で大きく変わっている。当時はアマチュアのオーケストラが楽友協会で演奏させてもらえることなど夢のまた夢であった。しかしどういうわけか,音楽シーズン(秋~冬~春)の真っ只中の2月末に,私が所属していた慶應のオーケストラが,楽友協会から招待を受けたのだった。

近年は,夏のオフシーズンに日本のオーケストラが演奏させてもらっている話をよく聞く。確かに昔は夏の間は全く閉館だったわけだが,観光客が外からしか眺められないのは寂しい。もちろんウィーン・フィルは夏休みだし,ちょうどこの時期はザルツブルグ音楽祭に行ってるから彼らの演奏は聴けないのは仕方が無い。しかし観光客は中で何か音楽を聴きたいのだ。だから我々のようなものでも演奏するのは街にとってもいいことなのだと思う。実際今回の我々の演奏会も,現地エージェンシーががんばってくれたおかげで,観光客と思しき方々なれど,ほとんど満席であった。専門家から見れば大いに穴のある演奏だったかもしれないが,指揮者の中村暢宏先生の巧みなリードもあり,お客様には喜んでもらえたように思う。

しかし考えてみれば,観光都市・ウィーンとしては当然の方向かもしれない。演奏したい人がいる。ホールに入ってみたい人もいる。それを結びつけてビジネスにするのは当たり前のことだ。

つまり,持っている文化的な資産を上手に使ってみんなが幸せになる方向を目指しているわけだ。


さて、帰国してすぐのこと。

年に数回,大原謙一郎氏を囲む座談会に出席させていただいている。大原氏はあの大原美術館の理事長であり,クラボウ(倉敷紡績),クラレ(倉敷レーヨン)の創業家の当主でもある。その幅広くしかも深い教養にあこがれて,また出席者の活発な議論から刺激を受けながら毎回出席している私である。先日の会では,大原氏の後を受けて倉敷商工会議所会頭としてこれまで9年間,倉敷の街の活性化に取り組んできた,岡荘一郎氏にお越しいただいて,これまでの事業を振り返ってお話をしていただいた。岡氏は,岡山ローカルの山陽放送のラジオコマーシャル「く~らし~きせ~いぼ」で有名な「倉敷制帽」の社長であり,この倉敷まちづくり株式会社の社長も務められている。

我が岡山県が誇る街・倉敷。 
私が住むのは備前岡山。天皇陛下の姉君・池田厚子さんの嫁がれた池田家の領地。
対して備中倉敷は幕府直轄の天領。
色々と状況が違い,市民同士もライバル視しているところもあるようだが,個人的には誇らしく思っている街である。自分が所属するオーケストラも倉敷のオーケストラだ。

そんな倉敷の街もこの30年ほどいろいろなことがあった。

街の中心部には,江戸時代からの町並みがそのまま保存された「美観地区」がある。その中心には,世界に誇る美術館・大原美術館もあり,観光スポットには事欠かないすばらしい街だ。

そして1988年,瀬戸大橋が開通。橋を見よう,瀬戸内の多島美を見ようという観光客が大勢詰めかけ,最大で年間600万人を超える人が来たという。さらに1993年,美観地区からは倉敷駅の反対側に「倉敷チボリ公園」がオープン。当初はそことの相乗効果が期待されたが結局チボリ公園にお客が流れ,美観地区への観光客はほぼ半減するに至る。

大きな商店街や美観地区をかかえた倉敷市中心部の活性化を目指して,大原氏そして岡氏が事業を始めたのは今世紀に入った頃だという。

◯ 中心部にある阿智神社の祭礼に際し,近隣の大きな家々が格子戸を開放し,それぞれに伝わる屏風を飾り、見物客をもてなした「倉敷屏風祭り」の100年ぶりの復活
◯ 江戸時代から伝わる朝市 「三斎市」の復活
◯ 商店街に数メートル四方の大きな展示がなされる写真展・倉敷フォトミュラルの開催
◯ 昔からの薬問屋であった林薬品(株)の使われていなかった社屋を,昔の雰囲気を残したまま改装して作った中核商業施設「林源十郎商店」の開業
◯ 中心街にあった旅館「奈良萬」を改装したオシャレな飲食商業施設「奈良萬の小路」の開業

この話の中で2つ大切なポイントがあったと思う。

その1つは
古くから土地にある文化を大切にしていること。

各家々に屏風があることだけでなく,人々にはそれを使って来客をもてなそうという風土がある。
江戸期からのそうした古い文化だけでなく,明治期以降は「本物を作る」ことがそれに輪を掛けた。大原美術館は世界のトップの一つである。そこには本物がある。本物は必ず大事にされる。町並みにしても,昔からのものを大切にしているのはそのおかげだ。

そしてもう一つは
無私の気持ち。

「そんな祭りをして人を呼んでも,土産物屋に儲けさせるだけだ」という反対論を,「金儲けのためじゃない,このすばらしい街を多くの人に知ってもらいたい,見てもらいたいんだ」という純粋な気持ちで説得したことがその成功の大きな原因である。


こうしてみると,ウィーンで感じてきたことそのままなのだと思った。倉敷は春の音楽祭、秋のフォトミュラル,屏風祭り,そのほかいろいろなイベントをずっと繰り広げ,多くの人たちに来てもらいたいと願っている。

チボリ公園は閉園してしまい,その後に三井アウトレットモールとイトーヨーカドーを中核とした商業施設「アリオ倉敷」ができた。このときには地権者であるクラレが,その場だけで完結してしまう施設の設置を認めず,近隣に対してオープンな施設を作らせたことで,倉敷駅北側のアリオ倉敷と南側の美観地区&えびす通り&林源十郎商店などが共栄の路を走っている。

地元関係の一人として,長く応援していきたいし,我が街岡山でも同じようなことを考えて動いている人がいるのでそちらにもなにか協力できればとおもっている。


今年の倉敷屏風祭りはこちら http://www.kurashiki-tabi.jp/event/969/ 
林源十郎商店 http://www.genjuro.jp/ 
奈良萬の小路 オープン http://www.kurashiki-tabi.jp/blog/?p=13729 
          

それでも石破茂を応援するのか [社会の問題について]

前から気になっていた政治家・石破茂氏(現・自民党幹事長)。

こんな記事を書いたのはもう4年も前のことになる。

やはり石破茂を応援する
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2009-09-07

当時書いた気持ちについては今でも変わっていない。日本語がよく読めない人、記事をちゃんと読もうとしない人は私の思想について誤解する人がいるかもしれないが、あの記事を書いたときの氏に対する評価はいまだにひとつも変わっていない。

一方で最近の氏の「国防軍」「軍法会議」発言については少々気になる。その詳細についてはここで述べることをしないが、私の思いとしては今朝ちょうど茂木健一郎氏がTwitter で発言していたことがそれを言い当てている。


茂木健一郎さん 連続ツイート第984回「普通の国って、何だっけ?」
http://matome.naver.jp/odai/2137427202415722601

私は「日本の伝統的なものを大事にしたい」という意味で,自分は「保守」だと思っている。しかし世間では明治以降作られた制度を「日本の伝統だ」と思い違いしている人を「保守」という言葉で表しているように思う。

「国旗」は幕末から明治にかけて、黒船に代表されるような外国の脅威に対抗するために「日本国」という体制を大急ぎで作ろうとする中で決められたものだし、「君が代」についても然り。本当は天皇制だってそうなわけで、まあ「万世一系の」は認めるとしても、天皇が実質的に我が国の統治をつかさどっていたのは、その長い歴史の中でほんの一部の期間に過ぎない。大事にしたいとは思っているが、担ぎ上げるのはむしろ失礼な感じすらする。

国防軍・軍法会議のようなものについても然り。明治以降、欧米諸国の制度を輸入する中でできた制度であり、それは私の思うところの「保守」とは違う。

改憲・再軍備を主張する政党である自民党の幹事長の立場もあるかもしれないし本意は分からないが、その内容についてはあまり賛成できるものではない。

しかし一方で、こういうことをコソコソ進めようとせず、明確に発言して批判も正面から受ける、というその態度は大いに支持できるものである。

このことは、少し趣は違うが、一水会最高顧問・鈴木邦男氏に対する私の評とも通ずるところがある。すなわち、鈴木氏のかつての行動を賛美することは決してないが、現在の氏の立場・態度などは、本当に大切なことは何か?を深く考えたうえでのことだと思うからである。

そういった意味で石破茂氏に対しては肯定的に見ていきたいし、同時に昨今聞こえる発言のように賛成できないものについてははっきり反対したいと思う。




続・ボクがPower Pointを嫌いなわけ [社会の問題について]

パワポ嫌いって声高に言うのをやめようって書いた直後にいきなりこれか?とも思うのだが,やっぱり自分の気持ちはそう簡単に変わるものではない。





を読んだ。少し前に出た本で,各方面で感想などを目にしていたのだが,Kindle版が出たら読もうと思っていたので今頃になった。

そもそもkindleも不安なものである。手元に本がないわけだし。そういえばGmailが好きになれない,もしGoogleがつぶれたらどうなるの?と言う友だちもいた。先日はGoogle Group で共有設定がきちんと出来ていなかったため,中央官庁の内部文書が自由に見られる状態であったことが問題になった

そもそも私企業たるGoogleのサーバにその情報は置かれたわけだし,ちゃんと設定が出来ていたとしてもサーバ管理者には見られてしまうわけで,そこは逃れられない。

そんな気持ちの悪さがつきまとうところで本書を読んで,やはりPower Point が嫌いな気持ちが増してしまった。

前に書いたのは,自分自身の内部の問題。すなわちこういう道具に自分の内面が規定されてしまう気分の悪さだったが,本書に上がっているのは,外側からみた自分が丸裸にされていることである。

ちょうどメインで使うコンピュータを変えて,クッキーが全部なくなったところなので最近は起きないが,ひところはポータルサイトを開けると,毎回家電製品のコマーシャルが出てくることがあった。それは電気湯沸かし器をネット購入したからであろう。Amazonで本を買おうとしても,常に似たような分野の本がおすすめリストに挙がるのも同じ理由だ。すなわち自分の行動が監視されているわけである。

いちいち気にしていては仕方がないし,今は特に目に見える悪いことは起きていないのでのでそれは無視しているが,どういうことになるかわからない。

本書はこうしたIT関連だけでなく,ファストフード業界なども例に挙がっているのだが,そうした大きな企業=世界征服をする「帝国」になぞらえている=は自らの利潤追求にのみ進むのであって,その推進力の前では国家権力などひとたまりもないというのがその主張である。そしてそのシステムを作る側の人,投資をしている人には大きな恩恵がもたらされるが,その大多数の従業員や消費者は「企業=帝国」の言うがままであり,決して報われることがないというのがその分析である。

そしてこのことは,こういう世界的に目立つ企業だけでなく,我々の身近なものもほとんどそうなっているのである。雇用の問題を考えてみても,実際周囲にも,それほど能力がないわけでもないのに安定した収入を得られない人がたくさんいる。運が悪いということだけで片付けることは出来ないほどそういう人がたくさんいる。選挙などを見ると「若者の雇用促進」「高齢者の生活安定」などという公約をよく見るが,結局その方法はない,政治など無力である,資本の威力に抗うことはできない,というのが著者の主張であるが,実際そうなっているんだろうと思う。

「ゲーム脳」などという言い方は「陰謀論」の一種だと切って捨てる人もいるけれど,やはり実感としてあの手のものは麻薬のような強い刺激による習慣性を持っていると思うし,それがなくては生きていけないというふうに手なづけられてしまっているとおもう。

Power Point にある程度なれた頃から漠然と思っていたことは,こんなことも含んでいたのだと改めておもう。その点で考えてもやはりPower Point は嫌いである。

同時に,便利なものではあるが,Kindleも危険なものだと思っている。


企業が「帝国化」する アップル、マクドナルド、エクソン~新しい統治者たちの素顔 (アスキー新書)

企業が「帝国化」する アップル、マクドナルド、エクソン~新しい統治者たちの素顔 (アスキー新書)

  • 作者: 松井博
  • 出版社/メーカー: アスキー・メディアワークス
  • 発売日: 2013/02/12
  • メディア: 新書






ボクがPower Point を嫌いなわけ [社会の問題について]

話題の近著

レイヤー化する世界

レイヤー化する世界

  • 出版社/メーカー: 佐々木俊尚
  • 発売日: 2013/06/26
  • メディア: Kindle版


を読んだ。著者自身が相当力を入れたと語るだけのことはある力作であるが,内容としても示唆に富んだものだと思う。

その中で言われていることは,世界の枠組み(秩序)が大きく変わってきているということ。そこにはもはや国家という枠組みすら意味をなさなくなっていて,むしろITの発達により,社会がいろいろな意味の階層(レイヤー)の分かれており,個人はそれぞれ複数のいろいろなところに所属してその人格?を形作るようになっているということ。

さて,この表題がこの本と何の関係があるのか。

一応使うし,それの授業なんかもするのだが,昔からPower Pointが嫌いである。

食わず嫌いではない。
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2009-04-14

しかし好きにはなれなかった。そしてむしろこういう物を作る側の人たちのことを聞いて,溜飲を下げたりもした。
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2010-08-23

あのソフトが持つ豊かな表現を見ていると,その形式に合わせて物事を考えるようになってしまいそうで,気分が悪いのだ。

しかしこの佐々木氏の記述を見て合点がいった。すでに私自身がそうしているように,PowerPoint という表現形態でコミュニケーションするのは一つのレイヤーだと思えば良いのだ。大事なのはそれ以外のレイヤー,たとえばラジオを聞く,仲間と直接議論をする,書籍を読む,ブログを書くなど,他の分野の活動を充実させればいいのだ。そうすることでトータルではPowerPoint による影響は薄くなる。

だからあまり声高に「パワポ嫌い」と叫ぶのは控えようと思う。

その一方で,だからといって電子教科書のようなものに賛成は出来ない。というのは,たとえば私の場合のように,他のレイヤーにいろいろ加わり,影響を小さく出来るならば問題は少ないし利点が表に出るが,他のレイヤーを豊富に持たない子供たちがこの刺激の強い世界に入ってしまったら,その影響を色濃く受けるからだ。

是非本書を読むことをおすすめする。


レイヤー化する世界―テクノロジーとの共犯関係が始まる (NHK出版新書 410)

レイヤー化する世界―テクノロジーとの共犯関係が始まる (NHK出版新書 410)

  • 作者: 佐々木 俊尚
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2013/06/05
  • メディア: 新書






オレも辛気くさい [社会の問題について]

どうすべきか困っている。

石田 雅彦
今こそ「辛気くさい議論」が必要だ
アゴラ 言論プラットフォーム 2013年03月02日17:21
http://agora-web.jp/archives/1522137.html

「アベノミクス」の周辺における経済関連の記事なのだが、これを読んで、話は経済ではないと思ってしまった。

冒頭部分をもじって,自分の言い分に替えてみようと思う。

世間一般からどうも「辛気くさい野暮天」という目で見られ始めているのが、今の教育改革ムードの中で危機意識を煽るような発言をしたり、教員養成6年制やICTの導入に批判的議論を始めたりする人たちです。どういう意味かと言えば「教育実習を数週間行うだけじゃ足りないんだ/コンピュータは必要なんだ、水を差すな、余計なことを言うな」というムードが日本の教育界を完全に包みこんでいる、ということ。最近の教師は給料も高いくせにけしからん、もっと給料を下げろなんていう主張をする人があって、教育行政がこうした不見識な大衆心理から多大な影響を受けるわけで、ICT機器を売って儲けたがっている人々のみならず、一般国民にとっても「辛気くさいことを言う人間は敵」というわけです。


是非原文と見比べてもらいたい。実はこの後に続く文章も全くそのままの枠組みで上書きできる。なんだ、これは我が国を取り巻く基本的な状況なんだと思うのです。また「B層」の話しを持ち出してしまうのは,ある種陰謀論的なムードもして、自分自身が「B層」であることを再確認するようなことになってしまうのだが,それにしても困った状況だと思う。

「続く文章」についても,その枠組みで上書きしたいのだが,それをするとこの後自分の人生に傷が付きそうなので,やめにしておく。

まさに辛気くさい話しである。

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