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顧客の意見? [社会の問題について]

久々にいい記事を見た。

日経ビジネス2013.2.19
「エバーノートCEO シリコンバレー流を大いに語る!」
顧客の声を素直に聞いてはいけません 【第6回】ユーザーとの向き合い方

そうだろうなと思っていたのだが,やはりという感じだ。
Sobu研流に雑にまとめてしまうならこういうことだ。

顧客の意見,特にネガティブコメントの中には,こちらが向上するための方策がある。だから上手に使え。


しかし間違えてはいけないのは,「客の言うことを全部聴く必要があるわけではない」ということだ。

ネガティブコメントにたくさん晒されていると、その担当者にとっては負担が大きい。担当部署が小さいならなおさらだ。しかも「感情労働」に対する評価は必ずしも高くない。

企業でもこうなのだから,教育などもっとだ。

教育の「顧客」というのは,子どもだろうか。保護者だろうか。

そもそもその段階がよくわからないのだが,昨今のモンスターペアレンツは自分が「顧客だ」と思っている。しかも自分の言い分は全て聞き入れられなくてはならないと思っている。

困ったことに,教育は誰もが経験してきた道であるから,各自が意見を持つことが容易である。それは必ずしも正当なものとは限らず、周囲に迷惑を掛けるようなこともたくさんある。

さらに困るのは,その対応に教員がほぼ1人で当たらなくてはならない(と思っている)ケースが大半だということだ。本当は学校として,教員集団として当たるべきことなのだが,(特に小学校などは)学級王国などと呼ばれ,縄張り意識が強かったりするケースもあるようで、それが逆に教員の負担になっていることも多いと聞く。

B層の言うことに迎合してはならない。

しまった、この話しにかぶれてしまっている(汗)しかしこのエバーノートCEOはどう見てもA層だしな。


日本をダメにしたB層の研究

日本をダメにしたB層の研究

  • 作者: 適菜 収
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2012/10/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒 (講談社プラスアルファ新書)

ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒 (講談社プラスアルファ新書)

  • 作者: 適菜 収
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2012/04/20
  • メディア: 新書



実はこの記事はこんなジャンルのつもりだったりしている。笑ったらこちらをポチッと。

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B層かぁ [社会の問題について]

相変わらず「かけ算の順序がどうのこうの」という議論をやっているようである。

そんなときに,あまり品がいいとは言えないこんな本を読んでしまった。


日本をダメにしたB層の研究

日本をダメにしたB層の研究

  • 作者: 適菜 収
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2012/10/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



かけ算の順序については,すでに「もはや宗教戦争だな 2011-6-22」で書いた通りである。ネット上で名指しでバカ呼ばわりされているのを見たが、それはそれでなかなか痛快だった。そしてこの本を読んでその「痛快さ」の意味がわかった。

同書p.35 「知らないことは言わない方がいい」
同書 4章 「素人は口を出すな」

かけ算の順序問題は,全くこの構図。小学校教育というものを理解していない「親」たちが,中学校で習った感覚を持ち出して来て「こんなのはおかしい」とやる。

帯にもある「なぜ日本人は参加したがるのか」

検察審査会の横暴。 裁判員裁判の導入。

前者は著名な政治家をターゲットにしての醜態が問題になった。後者はそれでもまだ任務の重さが重石になってそれほど酷いことにはなっていないが,時間の問題だ。

しかし困るのは教育問題。これは参加へのハードルが非常に低い。ワイドショーネタにも出来る。だから専門家を軽視する風潮が蔓延する。

オレはね,はっきり言って小学校教育についても詳しいよ。学校に乗り込んで文句を言う親のほぼ全員より詳しい。だけど子どもの学校に乗り込んでいったりしない。だってこんな人間が出て来てピンポイントで文句なんか言ったら、長いスパンで考えてやってる先生方の邪魔になる。増して素人が出しゃばったっていいことなんか無いんだ。素人がグダグダ言っても教師は無視するわけには行かない。結果その対応に追われて時間が無くなる。すると彼らに余裕が無くなる。子どもにしわ寄せが行くか,教師自身が潰れてしまうか。いずれにせよB層が教育に口出しをしていいことなんか無い。

なお、こういうのを読んで溜飲を下げている私自身が「B層である」と自覚するべきだというのは常に心に念じている。





安倍政権はサヨクである [社会の問題について]

我々数学屋は、まず物事を「定義」するところから議論を始める。

最近はネトウヨだのサヨだの色々と言われているが、自分には全くわからない。

ことの発端はともかく、日本では長らく「共産主義、社会主義」というのを「左翼」と呼び、「天皇陛下万歳みたいなのを「右翼」と呼んできたように思うのだが、最近色々なことがわからなくなっている。

そこでSobu研流にこれを再定義してみたいと思う。

[定義] 「左翼」とは、全て理詰めで物事が進むと考える立場である。「右翼」とは世の中には理詰めでは結論が出せない問題もあるという立場である。

私よりも上の世代は、学園紛争などに直接記憶がある人も多いだろう。私自身も安田講堂の攻防だとか浅間山荘の事件だとか,一応リアルタイムで知っている世代である。その頃世間では「左翼学生」というのが幅をきかせていたように思うし、その関係の勢力も力を持っていたようだ。

ここでその「共産主義」「社会主義」について勝手な解釈をしたいと思う。その道の人たちの話を聞く限り(耳学問で得た知識をを曲解しているだけである)、これらの考え方は「民主主義」を「科学的に」進めたものであると思う。ここで言う「科学的」とは、だいたい「論理的に」である。まあ細かいところでは思うこともあるのだが、人間は全て平等「である」ということを推し進めて行った結果がこれらの考え方だというのだ。

その考え方を取る人たちはたとえば「天皇制」についても否定的な見方をしている。天照大神だの神武天皇だのは存在が証明できない、だからそんなものは認めないという立場。また「宗教」などというものも認めない。「死後の世界」も認めない。その一方でこの考え方を「進めた」国では、「偉い指導者(?)」は永遠に偉いのだからといって、ずいぶんなお金をかけてその遺体を保存したりする。すなわち目に見えないものは無いものだとし、目に見える(確かな?)ものを大事にすると言うのだ。

しかし我々の社会をこのやり方で作り上げようとするには無理があったというのが近現代史の結論である。

日本人の多くは「自分は無宗教です」などという。だがこれはまず間違いだ。自分では意識していないだけで、亡くなった方の「冥福を祈ります」だって充分宗教上の考え方だ。赤ん坊が生まれればお宮参りをし、クリスマスを祝い、結婚式を教会で挙げ、初詣は神社に行き、葬式は寺でする。これが多くの日本人の宗教観である。ここに挙げたようなもののどれかに決めてしまう人もいるけれど、そうでない人だってやはり「宗教観」はあるのだ。

こうしたことを踏まえ、私は目に見えないものでも尊ぶべきものがあると思っている。天皇家でも、こうした「日本的な」宗教観でも何でもそうだ。そしてこういうものは「論理的」には支配しきれないものだと思っている。いやむしろ、数学などという学問に携わっているからこそ、論理的に支配される世界の大きさも小ささも感じているつもりだ。そして「社会」「人々の生き方」というところには、こうした論理的には支配されないようなことがたくさんある、むしろ大半だと思っている。

さてここからが本題。

タイトルは現在の政権を指している。アベノミクスだのアソウノミクスだの、経済政策の話が色々と聞こえてくるが、素人たる私はそれについて論評するのはやめておこうと思う。だが教育については少し気になることがある。どうも「教育再生会議」とかいうところでの議論で、「親を敬え」「家族を大事にしろ」など、最近は直接的に言われてこなかったことを「学校で教えろ」という話にしたいようだ。内容的になかなか反論しにくいことであるし、結果的にはそうなるべきだと私も思う。だがそれを「学校で」教えるのだろうか。日本では飯の食い方まで学校で教えることになっている(だから小学校の教員には昼休みは全くない)のだが、さらに親の敬い方まで教えることになるのだろうか。

「親を敬え」については異論を挟もうとは思わないが、それを学校で教えれば出来るようになるとでも言うのだろうか。全くの見込み違いである。それは最初に定義した「なんでも論理的に解決できる」という立場であり、人間の心もそれによって変えられるという立場だ。

私は人間の気持ちというのはそういう風に教育で一律に変えることは出来ないと思っているしすべきでないししようとしてもいけないと思う。それを可能にするのは恐怖体制だ。それをやっている国が非常に近くにあるようだが、その国と同じやり方をしようとしているように見える。

このことにはどうしても賛成できない。

だがそれを強行しようとする安倍政権。これは私の定義からすると、サヨクと呼ばざるを得ない。

昔読んだ本を一応紹介しておく。本稿と直接は関係ないが、広い意味では影響を受けた本である。

右翼と左翼 (幻冬舎新書)

右翼と左翼 (幻冬舎新書)

  • 作者: 浅羽 通明
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2006/11
  • メディア: 新書



ああやだ、田舎のおっさん、おばさん [社会の問題について]

昨日はボジョレー・ヌーボーの解禁日だった。

ここ数年、そんなことに気を回す余裕がなかったし、今年もこの1ヶ月ぐらい気が狂いそうに忙しい。

だがたまたま昨日は時間が取れたので、ある「ボジョレー・ヌーボーを飲む会」に行ってきた。まあそれはともかく。

ネットでも「解禁前に飲んだぜ」と自慢する輩のの多いこと。飲んだけど、ジュースみたいなもんだから、オレの口には合わないとか言ったりして。まあ別に業界の自主規制なのだから、目くじらを立てることはないのだけれど、そんなことを得意げに語るとは何事か。

自分は特別なんだぜという優越感か。

日本人の多くが、規則破りをいいことだと思っている節がある。それについてはまたどこかで述べようと思う。だがこのヌーボー解禁なんて、はっきり言ってくだらないお遊びだ。特に日本では盛り上がっているが、キリスト教徒でもないのにクリスマスを祝うのと大差ないレベルだ。だったらお遊びらしく、きちんと決まりを守ればいいのに。

うちの小学生の息子だって、「○○君がルールを守らないからラケットベースがつまらない」などと言っているぐらいで、お遊びは真面目にやらなきゃ面白くない。

こんなところで「オレは特別だから規則破りしたぜ」なんていう奴は、軽蔑するね。

ここはスマートに遊ばなきゃ。田舎のおっさん・おばさんののノリは相応しくない。

ふざけるな、大阪府教委 [社会の問題について]

新年度の大阪府の教員採用試験の結果が出た。他の都道府県はとっくの昔に結果が発表になっているのに、大阪府教委は今頃である。

今春、我が岡山大学には、大阪府教委から受験者を推薦するように依頼が来た。うちの学生がそれを希望し、大学としてトップの公印を押した推薦状をつけて受けさせた。

大量の退職者があるため、大都市を中心として依然教員の数が不足している。そのため、いくつjかの都道府県等では優秀な教員の確保のためこうした制度を取っている。

大学が推薦する以上、その受験者は他の教員採用試験に受かってもこちらに必ず就職する。辞退はしない。だから試験では必ず合格させる。その代わりに、本当に自信を持って送り出せる人物にしか推薦状を書かない。それがお互いのgive&take, win-win の関係だ。もし不適切な者を推薦したら、次年度以降推薦枠が来ないばかりか、採用もしてもらえない可能性があるからこちらもいい加減なことはしない。互いにそれをフェアに守る。これが普通なのではないだろうか。

今回は私のところの学生がこの推薦を希望した。もちろん優秀な学生であり、現場の即戦力となるのは間違いない。だが大阪府については、前知事が妙な騒ぎを起こして以降、色々と大変である。最近も

教職員7人、勤務中に喫煙で給与返納 大阪府立高 2012.10.23 14:11 産経ニュース  大阪府立高校の教職員7人が勤務中にもかかわらず、校外で喫煙していたとして、府教育委員会が喫煙時間分の給与を返納させることが23日、府教委への取材で分かった。府教委は9月26日付で、7人を職務専念義務違反で訓告処分とした。  府立学校の敷地内については2008年4月、当時の橋下徹府知事が全面禁煙としたため、7人は外へ出てたばこを吸っていたとみられる。  府教委によると、12年7月に住民から「勤務時間中は喫煙して良いのか。報道機関へ映像で情報提供します」との通報があり、聞き取り調査の結果、教員5人と事務職員2人が認めた。  給与の返納額は、7人がそれぞれ自己申告した喫煙時間に基づいて算出。中には50万円を超える教職員もいるという。

という話題が出たばかりである。一方で残業しても手当を出しているわけではないのに。確かにある種の正論だろうとは思うが、どうにも息苦しい話だ。そんな雁字搦めの職場に教え子を送りたくないと思い、実はその学生から相談を受けたときに私は反対した。彼なら他のどこでも教員として採用されるという自信があってのことである。しかし本人には色々と思いがあったので、最終的には推薦することにした。

ここ数年、何人かの学生の推薦状を書いた。当然のごとく全員合格している。「必ず合格、採用辞退はしない」ものであったから、これまでは他の都道府県の受験は控えるように言ってきた。だが今年の学生は「それでも心配だから」と地元の県を受けた。

ところが。

驚くべきことに、しかも今頃の発表にもかかわらず、なんと不合格であった。

大学の自己推薦入試・AO入試のように、普通に受けたら合格しないようなヤツを送り出しているわけではない。今回もその受験者は別の県の採用試験にきちんと合格している。私が身びいきで言っているわけではない。もしその学生が私の言うことを聞いて地元の県を受けなかったら、と思うと背筋が寒くなる。

このような信義則違反を平気でする大阪府教委とは何者ぞ。

前知事が騒いで、反対側に振れすぎたのか、それとも元々そういうひどいヤツらの集団だったのかはわからない。いずれにせよあり得ない事態である。

数年後にはまた教員採用・冬の時代が来る。そのときまで知らん顔していれば、またこちらはヘーコラせざるを得ないからと,高をくくっているのだろうか。大阪府教委とはそんな組織なのだろうか。

それにしても岡山大学もバカにされたものである。


追記:内田樹氏のブログ記事  人々が「立ち去る」職場について

天皇制について [社会の問題について]

このところ、隣国の首脳の暴言が話題になっている。それに対する激しい反発が、ネトウヨの人たちを中心に喧しい。

長い間自分は左よりの感覚の人間だと思ってきたが、どうやら実は結構右であるということにここ数年気付いているのだが、だからこの場で不快感を表明するほど閑人ではない。

ここで確認したいのは
私は無宗教です
と宣言してしまう日本人についてだ。

専門家は当然わかっていることなのだが、きちんと宗教的な立場をはっきり自覚している人は別にして、日本人の大半は「神仏習合・日本教」の発想のもとに生きている。たとえばテレビで誰かの訃報を伝えるとき、最後に必ず「故人のご冥福を」とやるが、冥福ってのは「冥土があってそこでの幸福を」「来世で幸せでありますように」という、全く宗教的な発言である。他の国では何というのかよく知らないが、この発言を「偏っている」と言う人はいないようだ。

古来よりある八百万の神を敬い、そこに外来の宗教を取り込んで広く同化していくこと。

赤ん坊が生まれればお宮参りをし、結婚式は教会に行き、葬式はお寺。

そんなのが一般的な日本人の宗教観だ。それを悪いなどと言うつもりは全くない。自分もそうだし。

そして我々が忘れてはいけないのが、天皇家の持つ意味だ。戦後「天皇人間宣言」なども出た。私も「今上陛下は現人神だ」などと言うつもりはないが、天皇というのは我々の宗教的な拠り所なのだ。今上陛下は即位の際に「日本国憲法に従い」と述べられた。それは素晴らしいことだが、一方ではやはり宗教的なリーダーなのだ。

それでよい。そうあって欲しい。世界中ほとんどの国はそういう宗教的な裏付けがある。イギリスなどはあからさまだが、アメリカだってキリスト教国だ。イスラム教国もたくさんある。

欧米の各国の(上層の)人たちは、そのことを良く理解しているので、天皇家に対する尊敬の念を持っている。今回、私も含め多くの日本人が、隣国の首脳の発言に不快感を感じているのは、そうした我々の心の拠り所に対する侮蔑だからだ。多くの日本人は日常このことをあまり認識していない。だがこういうときに出てくる者なのだ。

他国のことに対して敬意を持って接することが出来ないような国家元首のいうことなど、捨てておけ。

確かに脳死だ [社会の問題について]

こんな本を読んでいる。


報道の脳死 (新潮新書)

報道の脳死 (新潮新書)

  • 作者: 烏賀陽 弘道
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/04/17
  • メディア: 新書



著者は朝日新聞を退社してフリーで活躍するジャーナリストである。Twitter 上でも @hirougaya は大活躍である。

氏がtwitter上で数々述べてきた、大手マスコミの体たらくぶりを大きくまとめ、現状に対して警鐘を鳴らしている本だ。なかなか面白い。(全部読み終わったら、この辺を少し書きたそうと思う)

そんなことを思っているうちに、同書が指摘するようなひどい新聞記事を見てしまい、思わず書きたくなった。

2012.4.23 朝日新聞(大阪本社版)社説 「大学改革」~授業と入試を一体で

話は文部科学大臣の諮問機関である中央教育審議会の審議内容とそれに関連して文部科学省サイドが言っていることを指すようだ。2012年03月26日 「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」(審議まとめ)

この社説はまだ穏当である。大学改革の中に、授業改革は当然主要な位置を示す。実際、ずいぶんやっているところも多い。だが入試に問題があるために、本来大学入学前に身につけておくべき能力が備わっていない大学生が多いようだ、だから授業改革もなかなか実を結ばない、だから入試改革を、というような文章だ。

一応、我慢できるが、これは誰に向けて投げている文章なのかよくわからない。問題は大学にあるのではない。大学入試の制度に関する、文部科学省の硬直化した体制が問題なのだ。前から言っていることだが、入試制度の改革なんて簡単だ。国立大学に大学入試センター試験の使用を義務づけることを止めればいいのだ。そうなれば東大や京大を始め、旧帝大クラスは利用を止めてしまうだろう。若しくはある基準点をクリアしているかどうかだけを見るように使うだろう。同記事には

・・・いまさら詰め込み式、暗記方の勉強に戻せと言うのではない。大学の授業に対応できる程度の学力の有無を知識の量よりも思考力を測ることで見極める。そんな入試制度に改善することが求められている。・・・細部にわたる知識の量よりも、考える力、論理を組み立てる構想力などが要る。


とある。その方法論として最適だ。

まあ、共通テストとしての意味もあるだろうから、存続させたい人の意見はわかる、とだけ書いておこう。

だがひどかったのはこれを受けて書いたであろう、同じ朝日新聞大阪本社版・記事有論 2012.4.27「大学教育の質 外圧受ける前に自ら動け」 である。上記審議まとめについて述べた上で次のように書いている。
教員が真面目に学生に向き合うほど、自分の研究に割ける時間と労力は減るかもしれない。研究を深めなければ、教育も浅くなる。しかし、知識や学問の蓄積を授業に注ぎ、学生主体の教育に切り替える教員がもっと出てきてもいい。人材を育てて社会に送り出すことが、大学の大事な役割だ。その原点を疎かにしてきた結果、大学は「学生に主体的な勉強を」などと言う初歩的な注文を受けてしまっているのだ。

がっかりである。古くから言われているステレオタイプな大学教員像に乗って、現状を見ずに書いた妄想だ。しかもまとめがひどい。
大学は外部からの干渉を受けず、自由に教育内容を決め運営する「大学の自治」の原則がある。しかしこのままではその自由もおぼつかない。事細かに外圧で縛られる前に動かなければ、大学は大学でなくなってしまう。 後はない。

大学入試は高校以下の教育に大きな影響力を持つ。大学入試を受けない生徒に対してもである。ところがそのあり方を文部科学省が悪い方向に縛っている。「事細かに外圧で縛られる前に動」く話ではなく、「ひどい縛りがあるので身動きが取れないのをどうするか」が現状なのだ。

入ってくる段階で全くアサッテを向いている学生を、大学の間だけで、しかも3年弱でそんな立派な人間に育てるなど、ほとんど不可能だ。しかし留年率が高いと文部科学省から文句が来る。留年率が高いことが教育力の低さを物語っているという理由だと思うが、そうやって圧力を掛ければ、「アウトプットの品質保証」をせずに取りあえず卒業させてしまうことになり、結果的に社会全体にいい影響はない。もし、教育力が低いからなかなか卒業出来ないということになれば、勝手にその大学のブランド力が下がっていく。だからそこは自由競争でよいのだ。だが文部科学省はそういう風にはしない。あくまで統制一辺倒だ。

こんなことは、熱意を持って学生の前に立っている一線の大学教員なら誰でも言えることなのに、これを書いた社会部の山上浩二郎記者は全くそんなところに取材に行かず、先入観だけ記事を書いたように思われる。

だとすれば、確かに脳死だ。





朝日新聞よ、これはまずいぜ [社会の問題について]

先に断っておく。

私は朝日新聞の長年の購読者である。

だがこれを見過ごさない力はあるつもりだ。

那覇地裁が、検察審査会による2度の議決によって強制起訴された件について無罪の判決を出した(2012.3.14)。これについて我が朝日新聞を見て目を疑った。記事を書き抜く。

今回の判決について、検察官役の指定弁護士は「市民感覚に基づく起訴だった点に踏み込んで判断してほしかった」と残念がったが、裁判所は有罪の証拠が足りないと判断し、無罪の結論を導いた。
(大阪本社版に基づく)

この指定弁護士は本当に「判決に対して」こんなことを言ったのだろうか。まさかそんなことはあり得ないと思って、他紙を順に見た。産経、読売、日経にはこのことについての言及は見つからなかった。毎日には次のように書かれてあった。

強制起訴制度を巡って指定弁護士は公判で「国民感情や処罰感情からかけ離れない判断が求められている」と強調したが、判決で強制起訴制度への言及はなかった。


これが正しいのだろうと思う。そもそも検察が有罪に出来そうもないから起訴しなかったわけで、指定弁護士は最初から敗戦覚悟でこの仕事を始めたのだ。その状況において、公判内でこのような主張をすることは当然であり、刑事裁判においては当然の戦術だろう。しかし指定弁護士はあくまでもその「役目」で仕事をしているわけで、役目のために忠実に、可能なことを一生懸命やったと思われるのだ。それに対して裁判所側は当然、普通に裁判をする。

およそ弁護士とはそういう商売なのではないだろうか。依頼人の利益を一番に考える。それは刑事裁判の国選弁護人であったとしても使命は同じだ。山口県光市の母子殺人事件の被告弁護人に対して、ある弁護士(そののち知事になって今は市長だ)がテレビで被告弁護人への懲戒請求を呼びかけた件(2007年)など、そもそも自分の仕事のあるべき姿を忘れた最悪の事例である。

だからこの毎日の記事は妥当だし信じられるものだ。しかし朝日の記事は何だろう。指定弁護士が
これは市民感情からしてクロなのだから、有罪にしてほしかった

とでも言っているかのごとく取れる。

まさか。それじゃ魔女狩りじゃないか。みんなが言っているから有罪にしろ?法治国家としてそんなことが許されるわけもない。もし本当にそんなことを言ったのなら、それこそが懲戒請求すべきことではないか?

検察が裏でごそごそして決着を図ることへの批判はわからなくはない。だからこの強制起訴制度ができた。それに則って一生懸命仕事をした指定弁護士に対してこういうことをいうのか?

小沢一郎氏に対する政治資金規正法関連の裁判でも同じように強制起訴制度の下で検察役を務めている指定弁護士に対して、それを個人的に攻撃するような言説をよく見るのだけれど、それもまずい。彼らは役目に忠実に仕事をしている。個人的な感情・判断はさておきだ。

改めて言う。私は朝日新聞の長年の購読者だ。だがこんな記事を書いているとは情けない。

子どものしつけ [社会の問題について]

ここ数年、芸能界では可愛い子役が次々と話題になっている。

もちろん映像編集も入っているのだろうけれど、大人たちの問いかけに対して当意即妙に返すその受け答えを見ると、驚くと言うよりも、恐ろしくなるというか、薄ら寒さを感じてしまう。

いわゆる「子どもらしさ」を十分備えている。

芸能人らしい「無難さ」も備えている。

しかし嫌みではない。

もちろん、こうやって芸能界に子どもを送り出したいと思っている親がたくさんいて、それぞれが子どもをそれなりに育てていて、その中でのほんの一握りがああやって出て来ているのだから、それは奇跡ではなくて起きうることなのかも知れない。

私が恐ろしさを感じてしまうのは子どもタレントたちに対してではない。彼らをもてはやす大人たちに対してだ。

若い人たちのいう「あの子可愛いね」には、言っている側の無邪気さを感じる。ちなみに「大人の無邪気」は悪いことである。一卵性親子などといって大人としての立場を放棄している人を見て感じる不快さにつながっていく気がする。

子育て世代が彼らを愛でるのは、自分が親として子どもを上手く仕付けられないからか。

子育て終了世代が彼らを愛でるのは、もちろんある種の幻想。

最近はテレビCMが子どもで占められている。もちろん売れるから使うのだろうが、この世の中の流れに背筋が寒くなる。

自分がちゃんと子どもを仕付けられないから、その代替として子どもタレントを愛でるように思えてならない。

続・それこそリテラシー教育を! [社会の問題について]

前に書いた記事に大きなトピックを書き込むのを忘れてたので、別立てに書くことにしました。

このところ聞こえている「食べログ」のステマ問題について。

実を言うと、どうしてそんなに問題になっているのか、全くわからない。

そもそも、飲食店なんて、入って食べて見なきゃわからないもの。それを事前に完璧に評価まで知っていなきゃいけないってのが、なじめない考え方。

  どこぞの彼女と初デートに漕ぎ着けた、予算内で美味しい店を予約してご飯を食べて・・・

うん、わかるわかる。そりゃあそうだろうよ。ある程度安心して行きたいよね。

 でもね。
 
食べるものなんてみんな好みがあるよ。だから行って食べてみないとわからないんだ。店構えがきれいでもいまいちの店もあれば、古ぼけているけど飛び切り美味い店もある。それは数をこなしてなんぼの世界。100%予習して行ったって外れることはあるさ。おお、もしかしてこれかな


予習という病 (講談社現代新書)

予習という病 (講談社現代新書)

  • 作者: 高木 幹夫
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/11/19
  • メディア: 新書



もちろん口コミってある種一番信用できる情報源だとは思うけれど、こういうWebサイトって口コミじゃないじゃん。どこの誰か知らない人が書いてるんだよね。それと新聞広告とどこが違うんだろう。

私もこの手の飲食店情報を使うことはある。しかしよく見ればいい加減な情報ばかりだ。こんな店なのに客単価が安すぎるとか、ネガティブ情報が全くないとか。

だからそういうのをよく見て、半分信じて半分疑って行くべきなんだ。

ステマが卑怯? はいはい、それが社会正義だっていうわけね。残念な子どもの発想。行ってみて、あれはどう見てもステマだった、あの情報はウソだったと思うなら、その店をぼろくそに言えばいいわけじゃん。別にそういう専用サイトじゃなくても、Facebookでもblogでも2chでも、発信のしようはある。

そもそもタダで確実な情報が得られると思っているところが間違い。自分で行ってみて、食べてみて得られる情報が本当に一番確かなもの。それこそ自己責任だよ。

だから自分は、たとえば偉い人をご案内するときには、なかなか新しい店に行ってみようとはしない。
でも、多少はずれてもいい、一緒にそれ自体も楽しんじゃおうという相手であればどんどん行ってみる。そうやって自分の情報を増やすことが大切。

まず疑ってかかる。そして自分の目で確かめる。他にどんな方法があるわけ?
もちろん巧妙なだましのステマもあるのかもしれないけれど、一回食べに行って外れだったって命まで取られないよ。逆に仕事上の接待でいざというお店はビジネスマンならいくつか知っておかなくてはならないし。

残念ながら、なんで人々が騒いでいるのかわからない。

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