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それこそ、リテラシー教育を! [社会の問題について]

メディア・リテラシーも何もあったもんじゃない。

「iPad教育」は普通の教科書より有効:調査結果
http://wired.jp/2012/01/23/ipad-educational-aid-study/

という記事が出てた。全文は本記事の一番下に。

この見出しをまず頭から信じて投稿している人の多いこと

20ポイントアップは結構なんだけど、そのまえにそもそもアメリカの小学生のレベルって知ってるんだろうか。
アメリカの小学校教師ってのは給料が低いために、そんなに優秀な人は集まってこない。
これは各種の調査でも明らかになっている。算数で言えば、たとえば 3分の1と8分の3のどちらが大きいかなんてわかっていない。

そんな教師に教えてもらって算数が出来るようになると思いますか? ○○式よろしく、
 1/3+3/8=(1×8+3×3)/(3×8)
という手順はわかったって、役に立たない。

もちろん「算数教育の研究」には見習うことはある。うちの学生にもアメリカの文献を読ませているし。
しかし現場は違う。酷く低レベル。そこへ一部の「優秀な人」が作ったドリル物を持ってきてやらせれば、もちろん成績が上がるのは当たり前だ。20点しか取れない子どもが40点取れるようになったら、成績倍増。しかしそれでいいわけ?それでも40点でしょ。

それに、ドリル物は確かにコンピュータでやらせるのは簡単だけど、それだけでいいの?

また『基礎がわかってる』とか言うわけ?

にもかかわらず、相当多くの人がこれを鵜呑みにしている。

この記事のなかのコメントは電器会社の人によるもの。自社製品を売るためには、良い物だとアピールするのが当たり前。教育関係者のコメントはない。

しかも最後に出てくるのは、金の問題かよ。

こんな記事に振り回されているのは,本当に困った人たちだ。流れてきた情報を闇雲に信じるのは本当に危険なことだ。




以下がその記事の全文。
『iPad』利用の教科書は、紙の教科書より教育効果が高いという調査結果が発表された。代数Iの理解度が上級または熟達と評価された生徒の割合は、紙の教科書利用者より約20ポイント多かったという。 『iPad』は教育における有効な資源になりうることを示すデータが発表された。教科書を出版する米Houghton Mifflin Harcourt(HMH)社が米Apple社と協力して、iPad教科書を用いた『代数I』教育のパイロット・スタディを実施したのだ。理解度が Advanced(上級)またはProficient(熟達)と評価された生徒の割合は、iPad教科書利用者(78%)が紙の教科書利用者(59%)よ り約20ポイント多かった。 この調査は、カリフォルニア州リバーサイドの中学校で、2010年春から2011年春にかけて、HMH社のアプリ『FUSE: Algebra I』を用いて行われた 『iOS』ゲーム『Motion Math』を用いた調査でも、iOS機器が基礎的な数学のスキル学習に役立つことが証明されている。小学校5年生にこのゲームを1日に20分間、5日間にわたってプレイさせたところ、テストの点数が平均で15%増加したのだ。 「生徒たちは、よりパーソナルな形で機器とのやり取りを行っている。参加度がより高い」と、アメリア・アーハート中学のコールマン・ケルズ校長は語っている。「学習が理解しやすい固まりで行われて行くので、学習範囲が莫大で手強いという感じを持たなくてすむ」と、デジタル・マーケティング・エージェンシーである米Organic社のマリータ・スカーフィ最高経営責任者(CEO)は語る。 同じようなパイロットコースやiPadプログラムは、全寮制の私立学校や一部の大学を中心に米国各地で立ち上がっている。公立学校でも、600学区以上で、ひとりに1台のiPadプログラムが採用されている。 ただし今のところデジタル教科書は、アプリ・ベースの学習ツールほどビジネス的な成功を収めていない。米Forrester Research社のアナリスト、サラ・ロットマン・エプスは2011年11月のレポートで、デジタル教科書は過渡期的な製品だと書いている。売上げは教科書販売の3%にも届いていないという。 Apple社が19日に発表した(日 本語版記事)『iTunes U』『iBooks 2』『iBookstore』『iBooks Author』などは、単調な従来のPDFよりも魅力的な体験を提供したいという教育者にとって、ゼロからアプリを構築するのにかかる多額の投資が必要な いソリューションになるはずだ。 「新しいiBooksを使えば、学習はもっと実験的なものになる」とスカーフィ氏はWired.com宛の電子メールで書いている。さらにiBooks は、学校の経済的負担を軽くする可能性がある。電子書籍化で教科書のコストを軽減できるからだ。「さらに、よりタイムリーで適切なコンテンツを簡単に提供 しやすくなる。教科書はさまざまな方法で、ソーシャルなものになっていくだろう」とスカーフィ氏は指摘する。 しかし、電子教科書の価格は多額ではないとしても、iPadには1台あたり500ドル以上のお金が必要になる。『DonorsChoose.org』や『SA500 Kids』などの資金支援サイトもあるが、特に公立学校にとっては資金が問題だ。 次のiPadが登場するとき、噂されているようにApple社が『iPhone』と同様の価格スキームを採用すれば、学校はiPadを安価に手に入れて、同社の新しい教育関連製品を実際に活用できるようになるだろう。




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キュレーションの仕方 [社会の問題について]

NHK教育(Eテレ)日曜美術館で「青木繁」の再放送をやってた。

昨年京都国立近代美術館で行われた青木 繁展に行った話を聞いた。没後100年ということで盛大な回顧展だったという。友人がずいぶん惚れ込んでいてその話を聞いたのだが、自分は京都には行かれなかった。しかし引き続き東京・ブリヂストン美術館で行われた方には出張の次いでに時間が空いたので寄ってみた。

そもそも、ブリヂストン美術館の創始者である石橋正二郎自身が青木の作品を収集したことがこの画家が後世に名を残せたきっかけになったわけで、縁が深いのだが、たまたま訪れたときには、さらに運が良く、この回顧展を企画した学芸員さんのお話を聞くことができて、とても楽しかった。

だがこの展示をみて、「京都での回顧展を見て落涙した」という友人の言い分にはちょっと納得が行かなかった。あちこちに青木の人生をたどるような展示があり、その人となりも含めて知ることが出来たことはとても興味深かったが、それぞれの作品は「素晴らしかった」程度のイメージしか受けなかったのだ。

そこから帰って数日。今回再放送されたNHK日曜美術館の放送があったので、そちらも見てみた。

なるほど。

作品そのものの問題ではなくて、ブリヂストン美術館における展示が自分の気持ちにはまらなかったわけだ。NHKは相当きつい照明の下で、細部まで見えるような形で撮影しており、テレビでみるとそれがくっきり見える。だが美術館では(当然のことだが)照明はどちらかといえば暗く、近寄っても細部が見えるわけではない。

京都国立美術館では、おそらく天井の高い大きな部屋で展示されていたのだろう。それとブリヂストン美術館での印象は当然違うものになるだろう。

元々の意味でのキュレーションの問題が見えた貴重な体験であった。

そこで。


キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

  • 作者: 佐々木 俊尚
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2011/02/09
  • メディア: 新書



昨年出たこの本はもちろん即読んだ。著者の佐々木俊尚氏のtwitter上で展開されるキュレーションも見ている。

情報があふれるこの時代において、キュレーションの重要性について説いたこの本のことは常に頭にある。この本や著者の主張を誤解しているつまらない意見をよく見るが、このことについては自分ではずっと考えている。

本稿は書きかけて、気に入らなくて放っておいたのだが、Eテレの再放送を見て、内容が拙劣であることはさておいて挙げてみる気になった。





何だか気に入らない [社会の問題について]

ある若い研究者に久々に会った。

ジャンルが違うので何となくの印象だが、とても聡明な、切れ者系のイメージの人である。
すでに学位を取って、就職先を探している状況だという。
 「面接には何回か行ったんですけど」
と言うぐらいだから、就職自体はあと少しだろう。出来ることは少ないが、応援したいと思う。

そんなこんなの話をしているうちに、ちょっと気になることがあった。
 「今、応募した話が進んでいるので、それがダメだったらまた次に出さなくちゃ」
だそうだ。

学部卒で企業に就職しようという「就活」では、みんなめちゃくちゃな数の「有名企業」に手当たり次第エントリーする一方で、堅実な自分にあった就職先というものを見失い、その結果中小企業では人手不足であるのに就職できない若者が増えているというのが現実だ。

しかし研究職の場合、それほど空いた椅子は多くない。だから10倍とか20倍とかそういう競争率にはなるだろうけれど、一般企業で起きているようなバカなことは無い。一つの椅子に30人の応募があったって、良い人材を採りたいのだと思えば採用する側は書類を読む。だから自分に合っていると思われるポジションには応募すればいいのだ。採用する側からすれば、決定の直前で、また内定した後で辞退されるようなことがあっても、それはその人が優秀だからなのであって、そのポジション自体の持つ魅力が、他のところと比べて魅力がないというだけだということを甘んじて受けなくてはならない。採用する側も実は審査される立場。応募者が悪いということではない。

しかしその若い研究者は、「一つが終わってから次に」と言う。さらに聞いてみると、すでにポジションをもっている中堅の研究者から「あんまり色々出していてそれが明るみになると、偉い人が気分を害するから止めろ」と言われたのだという。

ガッカリである。

ガッカリ・その1。
 そもそも、そんなことで「気分を害する」ような偉い人って何者なんだろうと思う。gorotakuさん述べているように、昔はその「偉い人」が人事を上手く回してくれていたかもしれない。そんな時代なら我慢して「偉い人」の機嫌を取っておくことにはそれなりのメリットがある。「白い巨塔」の世界はまあ醜いものではあるかも知れないが、少なくとも頂点に立つ「医学部教授」はそれなりに人事を回し、若手を指導し、ということをしていたわけで意味が無かったとは思わない。むしろその構造を壊したからこそ、医師の偏在といった問題が顕在化してきたのだ。しかしここで出てくる「偉い人」はその若い研究者に何をしてくれるのだろう。「気分を害する」とか言って誰かに影響力を行使するだけで何も恩恵がないのなら、それは老人の権力欲に過ぎない。老害もいいところだ。そんな年寄りはいくら研究業績が素晴らしくても、その中だけで発言すべきであり、権力など与えてはいけない。本当に「偉い人」はそんなことをしない。

ガッカリ・その2。
 そのガッカリな権力構造を若い研究者に知らせる役目をした中堅研究者。おそらく良かれと思ってアドヴァイスしたのだとは思うが、結果的にそれは悪い権力構造に加担したことになってしまう。自分の知っている狭い現状を肯定するだけでは、次世代の邪魔になる。広く世間の流れを見たうえで若手にアドヴァイスをしなくてはならない。

ガッカリ・その3。
 その若手の研究者にアドヴァイスをする立場の教授。なぜ教授というかというと、多くの大学で「教授」は人事権を持っているからだ。その力の大きさはそれぞれだとは思うが、少なくとも人事に関する状況は知っているはずであり、若手研究者の不安を解消させるのもアドヴァイザーの仕事だ。


みんな、何をやってるんだろう。
今日はちょっと狭い世界の話で、怒り爆発。

誰が買うかこんなもん [社会の問題について]

ふざけてるよね、電子書籍。

この前こんな本を欲しいと思って注文しようとした。

Handbook of the Geometry of Banach Spaces, Vol. 2. hardcover 868 p.
出版国: オランダ 洋書: hardcover/Geb./rel. 発行年月: 2003年1月
¥27,552(税込)

まあ高いが、部数は少なくページは多いので、状況はわかるわな。ところが驚いたのがこれの電子版。

Handbook of the Geometry of Banach Spaces 870 p. 03(電子版/PDF)2003年刊
出版国: オランダ 洋書: 発行年月: 2003年1月
¥25,663(税込)

やる気あんのか? この価格、何だよ。

さらに電子版は3回しかダウンロードできないんだそうだ。もちろん違法コピーはわかるけど、5年に一度マシンを更新するとしても15年しか読めないということだよね。

なんだそれ。だれがこんなもん買うわけ?

ああ就活! [社会の問題について]

私が勤務するのは教員養成学部/研究科である。

「目的学部」なんていうよくわからない表現をするのだが,結局のところ昔の師範学校なわけだし,職業訓練校だと言えばその通りだ。

ただし,ちょこちょこっと「教育学」「心理学」「教え方」を勉強するようなことでは済まなくて,学問内容についても深く知り,その知見の上で教育に立ち向かう力を養成するところである。そのため,教員になるには「大学」を出る必要があり,「大学」で教員養成を行っているのである。

自分の専門の研究に関係あることしか興味がないという教員もいないことはないが,ほとんどの教員はその専門領域を「教師として必要な能力をつけさせる」ことを念頭に学生に指導している。

特に私自身,高等学校の現場にいた経験もあることから,一生懸命やっているつもりだし,実際,県下の学校現場でも卒業生が名指しで誉められているようだ。

だがこういう「目的学部」でないところでは,そんなことが顧みられることは少ないかも知れない。
大学は役に立たないことを学ぶところだ
とうそぶいてみたいとは思うが,なかなかそうも行くまい。

現在,生まれて初めて「縦書きで出版される」原稿を書いている(書き上がったら/出版されたら紹介するかも知れない)。その取材のためもあってこんな近刊を読んでみた。

大学キャリアセンターのぶっちゃけ話 知的現場主義の就職活動 (ソフトバンク新書)

大学キャリアセンターのぶっちゃけ話 知的現場主義の就職活動 (ソフトバンク新書)

  • 作者: 沢田 健太
  • 出版社/メーカー: ソフトバンククリエイティブ
  • 発売日: 2011/10/17
  • メディア: 新書



噂には聞いていたが,大学生が3年ぐらいから就職活動に忙しくて勉強するヒマがないなどと言い出す状況について知らなくてはならないと思った。

本書はいくつもの大学のキャリア・センターに勤務した経験のある著者の手によるもので,生々しいものである。それを読んでの感想は
こんな無駄なことに我が子の時間と労力を割かなくてはならないのか? 

という個人的なことと,
こんなことを日本中の大学3,4年生がしているようでは,この国の未来はないな

という全体的なことである。

この致命的な状況を打開するには,企業の側が,また社会が変わらなくてはならないわけで,ここでいくら吠えても意味が無い。

だが出来ることはある。少なくとも
学生の進路の視点から自分の学問の話を展開するといった発想と技術のある教員(p.255)

でいなければならない。先に述べたように教員養成学部/研究科だから出来るといえばその通りだが,とにかくこれを続けていく。




まったく近頃の若者は, [社会の問題について]

「どうなってるんだよ,近頃の若者は」っていう話は,あちこちで手を変え品を変えなされていて,ここでも何度もしているのだけれど,またしっかり大きな声でやってみようと思う。

あまりこのサイトでは書かない,私の音楽活動に関連して。

先日,我がオーケストラの練習に,管楽器の若い女性が来た。初めて会った人だが,連れてきた人とその雰囲気から,どうやら我が岡山大学のオーケストラの団員か卒業してすぐの人だったらしい。

連れてきた人とその人でそのパートは1番奏者と2番奏者が揃った(はずだった)。曲は有名なドヴォルザークの新世界交響曲の終楽章。その楽器の有名な1番奏者の独奏の部分になったのだが,その音が全く聞こえない。見ると二人とも全く楽器を構えていない。

そこで思わず尋ねてしまった。  「二人とも2番を吹いているの?」  すると,正規団員が2番で,初めて来た方が1番なのだという。それ自体は別に驚くことでも悪いことでもないのだが,その後に続く言葉が許せなかった。「私は1番アシスタントなので」 

プロの楽団でそういうことはありうると思う。契約でアシスタントとして契約している場合,ソロ奏者の領域を侵してはいけない,うっかりそんなことをして合奏を壊してしまったら・・・というようなケースもあると思うし,それに見合ったギャラしかないというのなら,わからないこともない。

だが我々はアマチュアだ。演奏すること自体が目的であり,多くの場合には身銭を切って参加している。演奏したくて来ているのに,なぜ楽器を構えないのだろう。楽器を構えなくては絶対に演奏は出来ないのに。やってみなければ絶対に出来るようにならないのだ。もちろんアマチュアとは言え,下手ならば文句を言われる楽団も多い。実際,我々の楽団はそういう点では少々厳しい。だがそれも含めて遊びに来たのではないか。

彼女は,その後練習に来ていない。  (私がいじめたからか???)


続いて先日,近隣のオーケストラの演奏に手伝いに行ったときのこと。私の担当するトロンボーンは,人数が少ないオーケストラで取り上げる曲目には出番が少ないので,入団を認めていないところも多く,そんな関係から声が掛かったのだと思う。3人で構成するセクションは一応全員エキストラ(お手伝い)奏者であった。私は大きな楽器担当なので3番。1番は若い学生さんだった。聞いてみるとやはり我が岡山大学のオーケストラのメンバー。

本番の1ヶ月前の練習に参加したのが初対面。こちらが名刺を出して自己紹介しても,その彼は名乗りもしない。仕方なく「お名前は?」と聞いてやっと名乗る始末。おいおい,それじゃあ就職なんか無理だろ。さらに第一声が「いや,僕は下手なんで」別にどうでもいいやん。そりゃあこっちは年季たっぷりのおじさんですよ。だけど若者が言うのがいきなりそれかよ。

実際にやってみると,確かにそういう自己紹介はわかるのだけれども,別に自分の団じゃないし,上手い下手のことだけで音楽やってもどうかと思うので,ニコニコしてやっていた。

驚いたのはその次に出た練習。それは本番の一週間前。我々は元々出番がある曲が少なく,またあっても吹くところはそれほど多くないので,楽譜通り演奏できるように練習してくるとしてもそれほど大変とは思わない。ところがその彼は,1ヶ月前に会ったときとほとんど同じ程度しか演奏が出来なかった。1ヶ月間何をしてきたんだろう。これで1週間後にコンサートに出演して,しかも楽団からは謝礼をもらうわけだよね。

いくらこっちには責任はないと言っても,これじゃ酷すぎるのでその場でもう1人の方を交えて練習をつける。こうやって練習してきてね、ここは譜面を読み違えているよ,ここはこう吹いてね。

終わった後,「来週まで練習してきてね,よろしくね」と言って別れる。

本番前日はこちらが別のコンサートに出ていたので練習を失礼したのだが,当日朝のリハーサルでは最初出番が無かったので,別室でまた3人で練習をした。

愕然。

これから何時間後にステージでお客さんの前で演奏するのに,この簡単な譜面を読んできていない。
またまたこっちには責任はないが,お客さんから見れば「このオーケストラ酷かった」になってしまうので,仕方なくつききりで練習をする。でも当日なわけで,出来ることは限られている。。。。

同じ,我が岡山大学のオーケストラのメンバーだったことは悲しい事実なのだが,言いたいことは岡大オケが下手ということではない。

誰も彼らに教えていないのだ。


○ オーケストラの練習に参加するためには,事前に自分のパートが演奏できるように準備してくること。
○ 出来る出来ないの結果を言う前に,まずはチャレンジしなくてはいけないこと。
○ もちろんそのための方法論。

結局悪いのは誰? それは年長者だ。 若者がいきなり突然何かを知ることは出来ない。必ず先輩が後輩に教えることなのだ。

岡山大学に限らず,今はどこの学校でも1学年違うと異次元人ででもあるかのように見なすのだそうだ。だから会話もない。こういうことの伝達もない。

だがそれを若者組織の問題としてはいけない。実は社会全体の問題だ。「一卵性親子」などといって喜んでいるバカな親がいる。仲良くしてはいけないとは言わないが,親としての務めを放棄しているような親がおおい。

結局のところ

若い人たちにちゃんとものを教えない年長者が悪い


のだ。我々年寄りは,若い人たちに嫌われることなど恐れずに,どんどん教育すべきだ。
例えば http://twitter.com/#!/HayakawaYukio のツイートなどを見ていると,自分も頑張らねばと思う。

追記(2012.1.23):早川由紀夫氏の発言については、元々は悪意から出ているものではなく、最終的なゴールとしては必ずしも間違ったものを目指しているとは思わないのだが、昨今の氏の発言はエスカレートししすぎていると感じている。すなわち、そのゴールが唯一無二の正しいものであり、それに対して反対するものをことごとく切り捨てるという発想である。私自身も科学者の範疇にいるとは思うが、この発想は「科学万能」のような発想であり、非常に危険である。科学者がこういう倫理観で物事を始めたとき、とても危険なことが起きる。マンハッタン計画然り。ホロコーストも然り。保身のための前言撤回をするのはかっこうわるいので、書き換えることをせずに追記だけ行う。

DVを助長する道具 [社会の問題について]

一昨日の利用開始以来,ネット上では「カレログ」の話題で持ちきりである。 http://karelog.jp/ 

アンドロイド端末にインストールしておくと,その居場所やメールの利用,アプリなどのダウンロード,端末の電池の残量などまでチェックできると言うことである。

ネットで見るのは
これでもう浮気は無理!
という男性たちのぼやきである。ヤキモチ妬きの彼女にこれを設定させられたらたまらない,という話なのだが,そんなことはたいしたことではない。

もっとも大きな問題は,逆に女性の携帯にこれを強制的に設定させるという新たなDV(ドメスティックバイオレンス)のツールが発表されたということである。

すなわち,これを用いて女性の行動を逐一監視しようとする男が出てくることは請け合いである。

折しも,昨日(2011/8/30)の朝日新聞大阪本社版に,ウィメンズネット・こうべの調査結果が載っていた。男女交際の経験のある高校生への調査で,女子の32%が友だちづきあいの制限やメールをチェックされるなどの社会的暴力を受けているのだという。さらに女子の33%は「相手の方が上」と感じたことがあるという。

男子からも同じような訴えはあるのだが,はっきり割合が違う。

残念ながら,男には同情しない。私は男女が完全に平等であるとは思っていない。「子どもを産むことが出来る」という大きな能力が決定的な違いである。この差を補うために,ジェンダーの考えが出て来たのだと思っている。だから,社会制度(たとえば男尊女卑思想など)に頼らずに本当に男女が平等になるためには,男は余計に頑張らなくてはならないのだと思っている。

「カレログ」と言うぐらいで,「彼氏の行動を縛りたい」という女子が使うならそれもよい。いや,肯定するつもりは全くなく私自身はそれも不愉快だが,それがイヤならばそんな女に固執する必要はない。次を探せばよいのだ。だが現在の社会的な状況からして逆は違うと思う。悪い意味での男尊女卑思想に乗ってこんなものが使われるようになることを恐れる。

ネット上では「男どもが『自分が被害者になる』」という発言ばかり目につくのだが,問題は男が加害者になることだ。

DVがらみの意見があまり見えなかったので,慌てて一言。

大学の学費をタダにする [社会の問題について]

こんな本を読んだ。

「習慣病」になったニッポンの大学―18歳主義・卒業主義・親負担主義からの解放― (どう考える?ニッポンの教育問題)

「習慣病」になったニッポンの大学―18歳主義・卒業主義・親負担主義からの解放― (どう考える?ニッポンの教育問題)

  • 作者: 矢野 眞和
  • 出版社/メーカー: 日本図書センター
  • 発売日: 2011/04/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


結構辛い本だったと思う。扱う内容は結構堅い話。だが語り口がこんな感じ。
大学が改革の実践を重ねていますと聞かされたら,皆さんは、驚くというよりも、「キョトン」としてしまうのではないでしょうか。そして、「改革って、なーに?」「何が大学の問題なの?」「どうすれば、改革できるの?」そんな疑問が湧いてくるのではないでしょうか。

(序章冒頭部分)

こういう語り口であるにも変わらず,内容はどうして今の大学が社会のニーズに合っていないものになってしまったかという歴史の解説が大半。一見高校生向けのような感じでありながら,中身はお堅い話。結構詳しくて,読むのに骨が折れる。全293ページ。しかも最悪なのは,この帯の文句。
大学の「常識」をひっくり返せ! 授業料をタダにする。これが本当の改革だ!!

確かに中身はそうなのだが,どうしてキャッチーな文言にするのか。何となく買ってみて途中で飽きて放っておくようなケースが多いのではないだろうか。

著者の責任なのか編集者の責任なのかはわからないが,まず読み始めの段階で正直に言って非常に不愉快な本であった。そんなことから,読み通すのに結構時間が掛かった。

内容はある程度まともである。この帯のキャッチコピーは結構奇天烈な主張かも知れないが,読んでみると理不尽なことではないことがわかった。特に本書第4章にある

1.新入生18歳主義・・・原則として高校卒業後すぐに大学に入学する
2.卒業主義・・・多少出来が悪くても,何となく卒業出来てしまう
3.親負担主義・・・大学が全て授業料によって成り立っており,しかもその授業料は家計(学生の親)によって賄われる

の3点が,この大学の硬直化を生んでいるという指摘はなるほど頷ける。

さらに本書でも,これらが雇用に於ける新卒主義と関連していることを指摘している。これも昨今言われている通りで,文句はない。先頃,東大が入試の時期を動かさずに全員9月入学にするというような構想を発表したが,大いにいいと思っている。

また,学費のことに関して,昔国立大学の学費が相対的に安かった頃,私学の学費を下げさせずに国立の学費を上げさせる愚を犯したことにもきっちり言及している。そしてこれが大学の学費をタダにする方向を閉ざしたものであったと思う。その点では著者の主張は頷ける。

確かに昨今の財政状況が苦しいときには,やりにくいことかも知れない。消費税を1%上げれば出来るという主張はわかるが、それを動かすにはどうしたらいいか。

この本にはそういうお金が直接かかる話ばかり書いてあって,実現までの道筋は長い。しかしお金が掛からないことについてはあまり真剣に述べていないのではないか。著者は民間企業から国立の研究所を経て国立大の教員を務め,現在は私立大学の教員だそうだが,残念ながら現状をよくご存じではないように思う。それはお上の規制についてである。

 入学定員についてお上の言うことはとても厳格である。

 私の近い例で言えば,私が所属する兵庫教育大学大学院連合学校教育学研究科(後期博士課程)は,入学定員が非常に厳格である。実際には小中高の現職教員が多数志願してくる。確かに彼らは本務を続ける傍ら大学院に来るケースも多く,その分学校現場に迷惑を掛けることは起きるわけだが,少なくとも職は持っているわけで,終了後は教員としてパワーアップした上で勤務を続けるわけだから,人数が多くても構わないと思うのだが,非常に厳しい制限がある。他の大学の博士課程では入学定員などあってもないようなものだし,仮に学位が取れてもそれから就職するとなると多くの困難を伴う。実際,高学歴ワーキングプアを大量に生み出しているのだ。それを思えば,わが方にはもっと弾力的に学生定員を使ってもいいだろうと思うのだが,許してはもらえない。その理由がわからない。

 もっと近い例で言えば,やはり岡山大学教育学部でも,学生定員を遵守せよとのお達しが厳しい。近隣他大学との競合を言うのかも知れないが,こういうところで護送船団方式を採って,結局船団が壊滅しても良いのだろうか。
 
 それから問題なのは,入学試験である。大学入試センター試験は,大学によってはありがたいものだと思う。問題を作る手間は大変なものだ。私学などでその経費と手間をいやがり,センターのみで入学者選抜を行うというのは悪くない。だが国公立大学全てにその利用を義務づけるとは何事か。ズバリ言って,東大や京大といった旧帝大などは,自前の問題一本にした方が良いのではないか。あそこはたくさん教員もいて,骨のある問題をたくさん作れるだろう。もちろん標準的な問題を課す大学では現状でやっているように大いにセンター試験を使えばよい。旧帝大がセンター試験から撤退すれば自ずと平均点は下がる。現在は山のような問題数を課すことによって何とか平均点を6割程度に下げているのだが,その結果センター試験の点を取るための異様なトレーニング,例えば数学では考えてはいけない,解法を覚えろという指導が全国でまかり通っており,それが多くの才能をつぶしている。こんなことは予算も大して掛からない,お上の通達1つで解決する問題である。その上で,今のような受験秀才だけではない,多くの人がまともに取り組めるような入試・受験体制にすれば良いのである。

 その一方で,AO入試,前期後期入試についても,細かい規制がある。手間ばかりかかるわりに上手く選抜が出来ない制度を廃止しようとしても,なんだかんだ言って規制の網が掛かる。

 また,これは文部科学省ではないが,卒業主義に関連して工学系の学部で行われている JABEEのようなものの問題点に全く触れていない。筆者は東工大の教授を務められたそうだが,あそこには関係ないだろう。しかし工学系の中堅クラスの大学ではこの影響が大きい。そこにははっきり各授業科目でどのくらいの学生を合格させているかという項目がある。これは卒業主義そのものだと思うのだが,このことには触れられていないようである。

 こうした縛りを外すことで,「学費タダ」のシステムはさらに上手く機能するようになるだろう。今ほど問題量が多くないならば大学入試センター試験を受けることはそれほど高いハードルにはならないだろう。その前に,学生定員について厳格に言わなくなれば,たとえば社会人枠を自由に別設定できるならば,入試自体が必要なくなるかもしれない。

 一見取っつきやすい語り口調で堅苦しい話を展開し,最後に簡単には実現できそうもない大きな提言をする。言った方は気分が良いだろうが,言っただけで終わってしまうように思える。日本の教育界がこのあと萎んでしまったときに「ほら,オレが言ったとおりだろう」なんて言うための布石を打っているわけでもあるまいし。

そうひどい話が書いてあるわけではないということは強調しておく。

だが,取っつきだけでなく読後感も不愉快な本であった。

原爆忌を前に [社会の問題について]

今年もまた原爆忌がやってくる。

私事で恐縮だが,私の妹は長崎原爆忌に、そしてそのとき同じアパートに住んでいた男の子はその3日前に生まれ,2人とも被爆者の生まれ変わりなのかなという話になった。関係ないが,そうだとすれば,私は東京大空襲の生まれ変わりということになる。

さて,この原爆忌を前に,信じられないニュースを見た(2011.8.2朝日新聞大阪本社版)。

広島平和記念資料館が,次の改装を機に,あの被爆した町中の様子を表したジオラマを撤去するのだという。

こんな信じられない愚行を許すとは、広島も「終わった」という感じである。

理由は大きく次の2つだという(これはこの会議録などを参照されたい)。

1.実際に被爆地を見た人からすると、あんなものは作り物で,実際はもっと酷かったという。
2.小学生などがあまりにも悲惨な光景をみてショックを受けるので良くないという。

あのね。

もちろん,実際に被爆した人たち,また被爆地を見た人からすると,あんな作り物はダメだというのだろう。当時の空気,匂い,光の具合,さらに肉親や友人知人,もちろん自分自身も酷い目にあったという状況からすれば,作り物に対して許し難いと思う気持ちは理解しなくてはならない。

しかし,だから撤去する? 全く理解できない。作り物だからダメ,だから撤去してこのことは後世に伝えない?
なんでも,3D画像がどうしたこうしたなどという話もあったようだが(他の回の議事録など参照),よっぽどすごいものにしないと臨場感は出ないし,それよりなにより,通り道の一番最初に誰にでも目に入ることの方が重要なのでは。

小学生が目を背けて通るそうだ。 それでいい。 それがいい。 ちらっとでもみた。 ショックを受けた。それが大事なんだ。

子どもがショックで泣いてる。夜眠れなくなった。 大いに結構じゃないか。

かわいそうだ? バカかお前は。

結局アメリカさんの言い分に則って,「原爆投下は戦争終結のために必要だったんだ」というような方向に行こうとしてるのかね。

小さい記事だったのだけれど,原発の問題も大切だけど,その陰になっていいもんかね。

久しぶりに吠えてしまった。

普通の人 [社会の問題について]

このところあちこちで見かけるので,自分の意見をはっきり述べてみたい。

 「普通が一番」

といつも言う友人がいた。そのときはあまり咎めなかったのだが,今になって思い出している。

ちょっと前,婚活歴20年の44歳女性、30人に断られる 「年収700万以上、有名大卒は譲れない」「普通の家族欲しいだけなのに」というインタビューが2ch 他で袋だたきになっていた。

これ自体は呆れた話なのだけれど,私に言わせると,普通の結婚っていう言葉を使っている時点ですでに終わっているのだ。

結婚に限らずどんなことでも,当事者にとっては特別なこと。期末テストで平均点を取ったとしても,本人にしてみれば何らかの努力の結果なのであって,一生懸命やった結果なのだ。他の人から見たら普通なのかも知れないが,そんなことはどうでも良い。大切なのは自分にとってどうなのかだ。

先日,ある卒業生から連絡が来た。決して出来が悪いわけではない学生だったのだが,どうも自信がなかったのか,教育学部を卒業したのに企業に就職し,色々あってそれをやめ,結局今は教壇に立っているのだという。本人曰く

「回り道ばかりしていてダメ学生の筆頭です」

だそうだ。そうなのだろうか。その学生はたぶん26歳ぐらいだ。でもそれまでの間に自分の立ち位置を色々な形で確認し,今の情況があるのだ。だから4年ぶりに連絡をくれたのだと思う。だが人生という意味で回り道と言えば,私だってフルタイムの職に就いたのは28歳の時だ。

この学生の曰くは

「自分は普通から外れている」

ということなのだろう。だが私はこの「普通でありたい」には嫌悪感を覚える。自分なりに一生懸命やってみた結果,大きな分布の中では中位にいるということは当然ありうる。中ぐらいということだ。だがそれは価値のない物ではない。個人が一生懸命やった結果なのだから,当然尊重され,尊敬されるべきものだ。

普通=多数

の匂いもする。最初から多数の中へ埋もれようとする姿勢を私は軽蔑する。自分のポジションで出来ることを一生懸命やって,その結果が多数の人と同じであってもそれは良い。だが最初からそこを狙うとは???

昔,さる高校の教員をしていたとき,私の数学の試験がほとんど白紙だった生徒がいた。他にも大変な科目がいくつかあって,担任が保護者を呼び出した。そこに臨席した私の耳に飛び込んできたのは,その保護者の信じられない発言だった。

うちの子には,平均ぐらい取れるように頑張りなさい って言ってるんですけど


馬鹿か。確かにその生徒の気持ちは部活動がメインだ。それはいい。だが,その高校は進学できる成績であれば某有名大学に全員推薦される学校だ。保護者はその大学に行ってくれればいいと思っているからそんな馬鹿な発言をするのだが,基本的になっていない。

本人が出来る範囲のことをすべて一生懸命やって,その結果が平均点になるのは恥ずかしいことではない。だが,最初から平均点ぐらいと思ってやっていたら,結局のところ白紙答案なのだ。

最初から「普通の人を目指す」などとんでもない。それは最初から自分の存在意義,自己の尊厳を自ら毀損していることなのだ。
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