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五十にして天命を知る [自分の生き方]

先日50歳になりました。

世間では「雇用機会均等法元年世代」とも言われますが,一方で「バブル期入社組」とも言われます。

岡山大学教育学部・教育学研究科にこれまで21年間お世話になりました。
楽しいこと,おもしろいこと,本当にたくさんありました。赴任したのが29歳の時ですから,20代の終わりから30代,40代と人生の最も活動的であるべき時代をここで過ごさせていただいたわけです。

自分にとっては大変充実した時間であったのですが,最近限界を感じるようになって来ました。

学生のレベルは決して落ちていないのに,ゼミ生の教員採用試験の合格率が明らかに下がっている。研究もパッとしない。

これからどうしようかと思っていたところです。

大学教員の仕事には
教育,研究,管理・運営,社会貢献

の4つがあると思います。最初の2つは当然続けるとしても、むしろ「管理・運営」などの方向へ進んでいくべきではないのか?などと思うようになりました。

しかし実際にはなかなかそういう話にはならない。特に私自身が考えている「教員養成」のあり方は,今の「お上」の意向と相容れないものなのです。そんな私がこのポジションのリーダーになるわけにはいかない。

そんな中,縁があって転職することにしました。といってもまた大学教員になるわけで,我々の業界では「異動」という言葉で一括りにするのですけれど、正確には「同業他社への転職」です。

ここ数年,自分のあり方,出来る仕事,求められていることなどを色々考えていました。
そしてその中で,応募していたポジションに採用してもらえることになって改めて考えたのですが,結局自分のすべき仕事は若い人たちの教育なんだろうなと思うに至りました。

若い,未来を担う彼ら彼女らのために何が出来るかをしっかり考えよう。

そんなことを思ううちに,先日こんな記事を見つけました。

日経ビジネスオンライン 2014年2月27日(木)
バブル入社組を社内失業から救えるか
「知命塾」を立ち上げた野田稔氏、伊藤真氏に聞く
田中 太郎
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140226/260294/

状況はすこし違うのですけれど,すべきことは同じなんだなと思いました。私がまさにちょうど50歳。

まあ私には誰もこういうトレーニングをしてくれるわけではなくて、自分で自分を見つめ直さなくてはならないのですが、とにかくそういう時ちょうど合わせたかのように異動することになりました。

教師の世界ではよく言います。
転勤こそが最高の研修だ


自分自身に研修を施すべく,私は岡山を去り,新しい地へ赴きます。

皆さん,長い間お世話になり,ありがとうございました。


仲間ということ [自分の生き方]

書きたいことは常にたくさんあるのだけれど、このところ異常に忙しくてそのネタをすべて忘却。

しかし今思っているこのことだけは、心に深くとどめておくために書いておきたい。

20年近くにわたって一緒の団体で活動してきた仲間がいた。その年月は必ずしも順風だったわけではなくて、ひどいことをされた思い出もあるし、助けてやった記憶もたくさんある。もちろんよくしてもらったこともあるわけだしそういう損得勘定を言っているようでは仲間も何もない。

しかし少し前、そいつは非常に大きく信用を失墜させるような行動をとった。そして「自分は悪くない」とばかりに私を筆頭とする多くの仲間を攻撃した。私から見ればそれまでそいつのためにしてやったことは何だったのかと言いたくなるようなひどいものであったし、団体の中に非常に不快なムードを巻き起こした。

そしてそいつはその団体での活動を制限されるような状況になった。

今般、ある事情により私はその団体から退くことになった。結局椅子が一つ空いたことになる。するとすかさずそいつは自分をそこに入れてくれとアピールしてきたそうだ。

そういえば,そいつはその時に言っていた。
自分はこの団体に20年あまり在籍し、それなりの貢献もしてきた。だから自分はこの団体で活動できるのが当然であり、それにたいしてゴタゴタ言う方がおかしい。

あまりに子供染みていて呆れた。20年間積み上げてきた信用であっても、崩れるのは一瞬なのだ。崩れるのは簡単なこと。作り上げるのは大変。それがわかっていないヤツとの関係が遠くなってしまったことは、いろいろな意味で寂しいことであったけど、大人としての常識がわかっていないのだから仕方がない。

椅子が空いたのだから、自分が入れてもらえるのは当然だろう、といって入ってきても、周りの人たちの信用を失ってしまっている状況で、活動にすんなり入れると思っているのだろうか。

そういえば、昨日はその団体の仲間の2人が結婚式を挙げた。たくさんの親類縁者が列席して、素晴らしい披露宴だった。私はその2人が会う場を強引に作って、それがきっかけになって結婚に至ったということなのだが、何だか知らないが披露宴でずいぶん祭り上げられてしまった。若い2人の幸せを心から祈る。

先日も、別の会で私を励ます会を開いてくれた。その席上で驚いたことは、若いメンバーが口々に「曽布川に褒めてもらった」といったこと。こちらは全くそんな気持ちはなくて、ただ単に「すげえな」「ありがとう」といっただけだと思うのだが。そんな風に見てもらっていたのだと思うと、恥ずかしいぐらいだ。で、その会も20歳も下の若いメンバーから20近く上の大先輩まで40人も集まってくださった。

このところこんな幸せな時間が続いている。身に余る話だ。昔、10代のころ、自分は本当にダメな人間だった。自己中心的で僻みっぽく、力がないにもかかわらず自惚れていた。しかしそんな自分を受容してくれる友人が多数いた。諭してくれる彼女もいた。そんな人たちに支えられて、やっと最近、少しはまともな人間に近づいてきたのではないかと思っている。いや、それは自惚れかも知れぬ。だが恩を受けたことは間違いない。

そして今日は、その団体所属に限らない関連する仲間がたくさん集まって私を(取り)囲む会を開いてくれるのだという。本当にうれしい限りだ。自分はただやりたいことを一生懸命やっていただけなのだが。

私の周りの多くの方々、もちろん家族も含めて、すべての人たちに深く感謝する日々である。


Horizontal Maestro [自分の生き方]

去る1月20日,イタリアの指揮者 Claudio Abbado (クラウディオ・アバド) 氏が亡くなった。80歳だった。

中学生のとき-もう40年近くも前になる-にクラシック音楽を聴き始めた頃,気鋭の指揮者として大きく取り上げられていたのがアバドだ。カラヤンが帝王の座を手中にする頃,彼は楽壇に出てきた。

精緻なアンサンブルと,「カラヤン節」と言われる強力な個性を前面に出し,オーディオ&ヴィジュアルの技術が向上してくるのと呼応してどんどん出てきたカラヤンに比べて,その後にベルリン・フィルの首席指揮者になったアバドは,むしろ逆の控えめなタイプだった。

就任に際しアバドは,
自分は作曲家の後ろにいる
と述べ,自分の個性を前面に出すことよりも,作曲者に敬意を払い,本来目指すべきものは何なのかについて慎重に考える姿勢を示した。

ときにそれはつまらないとか個性がないという評価を受けることもあったのだが,それでもベルリン・フィルをサイモン・ラトルに渡すまで,音楽界全体を動かすような大きな仕事をした。たとえば、少なくとも日本では際物扱いされていた「ピリオド奏法」をベルリン・フィルという世界最高峰のオーケストラを介して定着させたことを挙げたい。

そんな彼の評伝が挙がっていた。

池田卓夫 Claudio Abbado――類ない「Horizontal Maestro」 intoxicate vol.105(2013年8月20日発行号)

これはすごい話である。曰く,上意下達型の指揮者たち・・・トスカニーニ,カラヤン,クライバーと違って,水平方向の人間関係の指揮者だというのである。ちょうどそれは,20世紀が指揮者の時代だと言われていたのに対し,21世紀が演奏者の時代だと言われるようになったのと呼応するようである。

閑話休題。

自分個人はとても悲しい気持ちで一杯なのだが,この文を読んで逆に勇気が出た。自分自身、50年近くなる人生の中で,垂直方向でリーダーをしようとして挫折してきたたくさんの経験と,それを水平方向に切り替えたときの円滑で幸せな思いが,この評伝を通じて思い出されたのだ。

ホリゾンタル・マエストロ,クラウディオ・アバド。

私はあの若い頃のはつらつとした姿を忘れない。そして自分もあんな風にまだまだ成長していきたい。


カラヤンがクラシックを殺した (光文社新書)

カラヤンがクラシックを殺した (光文社新書)

  • 作者: 宮下誠
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2008/11/14
  • メディア: 新書



一人でいること [自分の生き方]

また他人の文章の尻馬に乗ろうと思う。

日経ビジネスオンライン 2014年1月17日(金)
「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」
 友達が減っていくのが、大人の証です。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20140116/258348/

確かに,誰かとべったりくっついて,連んでいたいというのは,女子中学生の発想だ。
それこそトイレにも一人じゃ行かれないw

しかし大人になれば自然と友だちは減る。いや,減らない人もいるだろうけれど,べったりした友だちがいつまでもいるというのは自然ではない。それぞれの仕事があり,その世界が大切だから,勢い友だちとの時間を作りづらくなる。さらに,自分が大事にしたい「ホーム」が出来て,それに掛ける部分が大きくなって,総体的に友だちの占める割合が小さくなってくるのだ。

たまに昔の友だちに会うと,それこそ思い出話に花が咲くのは楽しいが,同時に,会わずにいた間に別の意味で遠い存在になっていることもわかる。

この記事を読んでいて思い出したのが「シマジ」こと島地勝彦氏のコラム。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100520/92079/

彼がいつも語っていることだが,
一人の時間をいかに楽しめるかがその人の程度を示す
のだそうだ。なるほど。誰かと連んでいないと楽しくないというのでは確かに幼い話だ。私自身がどうか?という問題はあるのだが,私は確かに仲間と酒を飲んで語るのは大好きだが,一人で本を読んだり考え事をしたりするのも嫌いではない。音楽もゆったり聴く時間は取れないが,自分の演奏技術に関する研鑽は,いくら積んでも楽しい。
長い人生,まだまだこれからももっと充実させていく。


スペシャリストとジェネラリスト [自分の生き方]

昔からこの2つは,反対のことだと言われてきた(たとえばこんな調子)。

本当に,言葉面しかみない最低の説明である。それに対して訳知りの人が,

これからの時代は、両方の能力を兼ね備えた人材が求められると思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1070128080

てな回答がされている。

ここで自慢話。

縦横無尽
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2008-09-28

私は大学教員。ある程度スペシャリストだし,そうでなくてはこの職に就くことはできなかっただろう。しかし自分では相当にジェネラリストだと思っている。この自慢話を久々に読み返してそう思うのだが,このようないろいろなジャンルにはどれにも,少なからずの知識を持っている。専門家がいれば,それをきっかけにして質問して彼らの力を引き出すことができるのだと思っている。

自分の専門領域についてちゃんと深いところまで行っていないと,他人の深さが理解できない。
いろいろな領域に知識がないと,専門家たちの力を使うことはできない。

今,回ってきている仕事をしていて,ふとそんなことを思い出した。

大学の教員には専門バカがいてもいいと思う。でもそうじゃない人間も必要とされているのだということを感じている今日である。

聞く力 [自分の生き方]

最近気を付けていること。自分も「学校のセンセ」なので,しゃべりたがりである。

「センセ」と呼ばれて,いい気になってベラベラしゃべる傾向があるのは否めない。

だがそれはいい結果を生み出すわけではない。むしろ害になることも多い。ここには少し書きにくいのだが、教育についてこのところ、「構成主義」との関連で学習活動をモデル化して考えている。それは、学習者の側からシナプスが出て新しい情報にアクセスし、それを起点にして太い幹に、また大きな流れになるというものである。

そのことからしても、教師としてしゃべりすぎは問題なのだ。常に自らを戒めなくてはならない。

最近こんな記事を見た。

日経ビジネスオンライン
TOEIC500点でも国際人になれる 林則行 2013.11.22
  「自慢話をしない」がコミュニケーションの切り札~英語力よりも大切な聞く力
http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20131120/256088/

これは大いに参考になる。何って、生き方の参考である。
誰しも自分を認めてもらいたい。だから自分は他人を認める人になった方が幸せなのだ。なぜって他人を認めることによって自分が信頼を得て、メタレベルで認めてもらえるからだ。

結局,どこでも同じなんだなという話。

そういえばあの(× 許せない ◯ 素晴らしい)本にもそう書いてあったっけ。

数学のすすめ 
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2011-08-12 


大学生のためのリサーチリテラシー入門: 研究のための8つの力

大学生のためのリサーチリテラシー入門: 研究のための8つの力

  • 作者: 山田 剛史
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2011/05/30
  • メディア: 単行本






議論の目的 [自分の生き方]

ひさびさに骨太の主張を見た。

Rootport 日本人が苦手な議論。あるいは、いかにして民主主義は死に至るかhttp://d.hatena.ne.jp/Rootport/20131207/1386387788

この中で言うところの,
日本人はプラクティカルな議論に終始しがちで、フィロソフィカルな議論をあまりしない
には非常に頷ける。

最近遭遇した例。来年度、新規に講義を開講せよとの指示。そこで無い知恵を絞って3つほど提案した。15回の講義内容まで全部書いて出せとの話である。一応市販のテキストを使う形式にしたので、その15回の内容はそれを取り上げる順に書かざるを得ない。

だがそれは仕方なくそうしただけのこと。そもそもその講義の目標はそのテキストの内容を教えることではなく、このテキストを使って原理的なことを伝え、これから学んでいくための1歩としてもらおうというものだ。
教科書を教えるのではない、教科書で教えるのだ
ということを実践しようと思っている。

少なくともこれまで大学における講義はすべてそのように行ってきたつもりだ。だから公式を暗記してそれに当てはめて解くようなことを忌み嫌っている。もちろん小中高ではそういうトレーニングも必要だし、大学でも必要になることはある。

ところがこのような本質的なことを見ようとしない「お偉いさん」からクレームが来た。

○ 振りかぶったような講義題目ではなく、テキストの内容を講義題目にすべきだ
○ そんな講義題目では学生が履修しようとしない

開いた口が塞がらないとはこのことだ。大学はカルチャースクールではない。いやいや、そうならざるを得ない大学も多いとは思うが、日本のトップ○○、世界のトップ○○を目指す大学じゃねぇのか。そしてそこでの教養科目を強化しようというのが元々の狙いじゃねぇのか。

結局、プラクティカルなことにしか目が向かないのだ。

大事なのはフィロソフィカルなことだろう。それが違っているというのなら指摘されてもいい。レベルが低すぎる/高すぎるというならそれも話を聴く。

しかし言うことはそれかよ。それが大学教員か。情けない話だ。

続・ダンディズム [自分の生き方]

今年はこんな記事で始まった。

ダンディズム
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2013-01-01

そして最近、こんな本を入手した。

ダンディズムの系譜―男が憧れた男たち (新潮選書)

ダンディズムの系譜―男が憧れた男たち (新潮選書)

  • 作者: 中野 香織
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/02
  • メディア: 単行本



この本で年末を迎えるとは、なんだか笑ってしまう。

そう思うと、オレ的今年の一文字は  D  ということになるかな。








うれしい報道を受けて [自分の生き方]

岡山大・医学部の佐野俊二教授を執刀医とするチームが,昨日10代の女性に心臓移植手術を行い,成功させたとの報。このことは手放しで喜びたい。

RSKニュース 2013年12月7日(土) 17:41 岡山大学病院で初の心臓移植手術 中四国で初めてとなる心臓移植手術が岡山大学病院で行われ、無事終了しました。 手術を受けた10代の女の子の経過は良好だということです。  7日午前9時ごろ、移殖される心臓が岡大病院に到着しました。 心臓は長崎県の病院で脳死と判定された15歳未満の男の子から摘出されたもので、中国地方に住む10代の女の子に対して移殖が行われました。 女の子は心臓の壁が薄く伸びて血液をうまく送り出せなくなる拡張型心筋症と診断され、ドナーが現れるのを3年近く待っていたということです。 岡大病院で初めての心臓移植手術は、開始からおよそ3時間半後の午前11時57分に終了しました。 女の子の経過は良好で、順調にいけば2ヶ月~3ヶ月で退院できる見通しです。
http://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20131207_3

佐野俊二教授
https://www.facebook.com/shunji.sano?ref=ts&fref=ts

佐野先生は先だっての岡山大・学長選挙(構成員意向聴取)に立候補された。
https://www.facebook.com/Prof.Sano?ref=ts&fref=ts

「選挙運動」として私の研究室までもお越しになり、結構な時間を割いて話をしてくれた。内容については色々と思うこともあったが,少なくともいえるのはそういう「立候補」するような人には何が必要かということを教えてもらったということ。その詳細はちょっと言葉では説明しきれないが、あの数分はなかなか勉強になった。

「学長選挙」の結果は思惑通りにはいかなかったのだが、今回の報を見ると,やはり先生にはこんなすごいことが出来る心臓・血管外科医をどんどん育ててほしいなと思う。今回もドナーが出た時に東京出張中だったとか。学長になったらその仕事に振り回されて、こっちが出来なくなるのではないか。そんなことを思うと、大学の経営なんて誰かに任せて、こっちの大仕事をしてほしいなと思う。

顔帖ページを見ても、その時に伺った話を思い出しても、中央の政官界とのパイプが太いようである。もちろん医学部の教授というのはそういうものもとても大切で、たとえば心臓移植なんていうのをやろうと思ったらものすごい施設と費用が掛かるわけで、それを調達するためにはそういう力も必要だ。「白い巨塔」はそれを悪い方から描いていたようにも見えたが、医学部の教授にとってそれもとても大切な力だし、ほかの実験系の自然科学の「教授」にもその役割が求められている。

佐野先生には失礼な物言いになるが、個人的には今回の選挙結果はよかったのではないかと思う。一線の執刀医を退くべきかどうかは分からないが、もっともっと次世代をたくさん育て、ご自身が一線を退くべきだとお考えになったときに、今度はその人脈や見識を活かして大学経営に携わっていただければと思う。次回を期待したい。

この一連の話を見ていて,自分の身の振り方について色々と考えている。これまで教員養成を一生懸命やってきたつもりだ。つきあってくれた学生は力をつけてそれぞれの現場で活躍している。だが残念ながら決して数が多いとは言えない。これまでの卒業生は50名少々。今の3年次生までいれても60名を少し超えるだけ。もちろん彼らがその次の世代を育てるのだからそれは素晴らしいことだが,それでも少なすぎるのではないか?

自分は何をすべきなのかを考えるこの週末である。

コロッセオ [自分の生き方]

ローマのコロッセオに行ったことは何回かある。

そこで何が行われていたかについては,よく知られているのでもう述べない。

昔からネットの炎上系には加わらないようにしている。自分の記事が炎上するほどキョーレツ(笑)なことは書いていないようで,残念ながら(?)炎上したこともない。

この生き方について確認すべき記事を読んだ。

まつたけのブログ
自分は観客だと思っている人たち2013-12-02

そうそう。特にネット上はみんながプレーヤーなんだ。そこを認識しなくてはならないが,人間の認識はそこまで行くのが難しい。自分の部屋でモニターを前にしているだけでは,単なる観客になってしまうのは,身体感覚からして当然のこと。自分の肉体では実現できないようなスピードで移動することができる車の運転と同じで,人間にとって不自然なことをするのだから,それなりの教育が必要である。もちろん麻薬としての性質もある。

こうなってしまうのは,もしかしたら人間の本能的なものかもしれない。

○ 車の運転が怖いという人はむしろ感覚として正常。
○ 麻薬は一度経験してしまったら極度の「快感」にまた戻りたいとする本能が表に出てしまうから,1回たりとも使ってはならない。
○ ネット上でみられるこのようなひどい発言も,動物としての闘争本能をむき出しにして快感を得ている。

このブログでは,同じシリーズのこちらで,次のように述べられている。

人間としての弱さなのも甘えなのもわかっているけど、自分がつきあう人間は慎重に吟味したい。


萎んでいく話なので少々悲しいが,こういう気持ちになるのはわかる。弱さだの甘えだのと卑下することはないと思う。文明社会に生きる人間としては当然のことだ。

だが一方で自分は,希望的観測を胸に抱きながら,こういうことが減っていくように社会に訴えかけていく。教育の仕事はそれが可能な仕事だ。


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