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噛む余裕 [自分の生き方]

勤務する建物の目の前に大学生協の食堂がある。

食堂に行くのは多くて週に1度。学生で混んでいる昼休みは食堂に行きたくないので、弁当を買ってきて、研究室で食べることがおおい。勢い、仕事をしながらになる。

だが,時々午後の講義が始まって少ししてから食事をしようと思うことがある。そんなとき、食堂に入る。時間割りの関係もあって、週に1度程度になってしまうのだ。

カフェテリアで「何とか丼」「何とか麺」てのと、サラダバーから山盛りにお浸しや胡麻和えなどを取るのが基本。普通の定食系は揚げ物が多いので回避することが多い。

先日、久しぶりに食堂に行き、「豚の角煮丼」なんてのとほうれん草を山に盛って席に座った。
なんかため息が出た。

あれ、この角煮、結構美味いのに味もわかんないうちに飲み込んだらもったいないや。

てなわけで、少しゆっくり噛んでみた。そのうちに気付いた。そもそも早食いなのだが、結局ろくに噛まずに飲み込んでいるわけだ。それを止めてみたらなんと間が持たないのだ。ゆっくり噛んでいるうちに、早く研究室に帰って何かをしなきゃというプレシャーが湧いてくるのだ。

待て待て。飯ぐらいゆっくり食ったって罰は当たらないぜ。


結局このブログも1ヶ月全く更新が出来なかった。そうか。この余裕のなさが問題なのだ。せめて昼食を噛んで味わわなくては。

こんなことでは精神が持たない。

・・・・・・と反省してからこの記事を書くまでに2週間が経っている。病は重い。

選択と集中 [自分の生き方]

最近改めて思うのだが,人間の能力には限界があるのだということだ。

確かに,たいていの人は自分の限界を,本当の限界よりも下に見てしまう傾向があるのは確かだ(例えば茂木健一郎氏の2011.9.8の連続ツイートなど)。

また,1つのことだけに没頭するのでなく,色々なことをやることによって全体として伸びていくというのもわかる(例えばこれ)。

向上心がなくなったらおしまいだというのは確かにその通りだし,一生その気持ちを持ち続けたいと私自身は思う。

だが困ったことに,周囲を見渡してみると,優秀な奴ほど自分の限界はまだまだだ,自分は努力が足りない,もっと視野を広げなくては,などと思ってしまう傾向があるような気がする。自分自身へのプレッシャーで自分が潰れそうになっているようなケースも見る。

企業でも,大きなところほど「選択と集中」という言葉が飛び交う。
経営とは「何をするか」ではなく「何をしないか」だ
という話をずいぶん聞く。

私自身の恥ずかしい話を書こう。子どもの頃から自分は能力が高いと自惚れていた。何でも出来るんだと思っていた。運動は得意ではなかったが普通の人より努力してやっと普通ぐらいのことが出来るようになった。絵や字を書くのはあんまり努力しなかったから酷いが,それ以外のことは色々なことがどんどん出来ると思っていた。

だから何にでも興味を持って取り組んでみようとした。そしてそれらはすべて,同時並行で出来ると信じていた。

しかしそれが過信であり幻想であるということを,ここ15年ほど掛けてやっと理解できるようになってきた。もう50に届きそうな年齢でこんなことを言うのは全く恥ずかしいのだがやっとここまでたどり着いた。

様々な活動を縮小しているのもそのためである。停止はしないが縮小する。時期が来たらまたそこを拡大する。それが大切だ。それはやはり自分にとって絶対に優先順位が1位になるもの,すなわち家族の存在が大きいのだ。私には妻と義務教育中の子どもが2人いる。この存在は全てに優先する。私にとって家族を維持し,子どもを社会に送り出すことがもっとも大切なのだ。家族は私個人の活動に対してとても寛容で理解があるけれど,だからと言って何をしていいわけでもない。あくまでもこちらが家族を第1に考えるという前提の下でのことだ。将来子どもが独り立ちしたら,縮小していた色々な活動を拡大するかも知れない。今はそこを楽しみにしている。

同時にもう一つ,人間関係のことも思い返している。学生時代の友人などは長く離れていても会えばまた昔と同じペースになれるケースが多い。もちろんお互いに住む世界が変わっているのだから全く同じとは行かないが,それでもある程度のところまではすぐに復活する。しかしこれまで関係が悪くなって絶交になってしまった人もいる。それはとても残念に思う。だがそれも仕方がないのだ。自分の時間は有限。何かの事情で絶交になってしまっても,そのことをいつまでも悔いてはいけないのだ。それは必然だったと思って,未来に向かっていく。時には,苦しい判断を迫られることもある。その結果人間関係を壊してしまうこともあるだろう。どちらを選択するかに正解はないのだ。いずれにせよその責任は自分が負うのだから,見方を変えればどちらも正解であるといっても良いだろう。

いい歳をして甘い話でお恥ずかしい。

やっぱりクラシック音楽が好き [自分の生き方]

伊東 乾氏@itokenstein: の近著「人生が深まるクラシック音楽入門」(幻冬舎新書)を読む。

人生が深まるクラシック音楽入門 (幻冬舎新書 い 16-1)

人生が深まるクラシック音楽入門 (幻冬舎新書 い 16-1)

  • 作者: 伊東 乾
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2011/07/28
  • メディア: 新書



氏の目指すところとして,クラシック音楽に対して人々が感じる敷居の高さを何とかしたいということがある。黛敏郎亡き後の「新・題名のない音楽会」の制作に関わっていた氏は私にとってはもちろん憧れの存在。本書の中でも山本直純「オーケストラがやって来た」,芥川也寸志-黒柳徹子「音楽の広場」(後続番組もあり)など,特に1970年代後半からクラシック音楽に親しんでもらおうという流れがあったことが述べられている。

この本の1つおもしろいところは,氏自身の演奏がYouTube に上がっていて,それを聴きながら読み進めることが出来ることかも知れない。

氏の指揮するベートーヴェン交響曲第5番ハ短調作品67「運命」第1楽章
http://www.youtube.com/user/capitoberlintokyo#p/u/8/2v9ST350kKw
(ちなみにこの運命の演奏は私にとっては相当好きな部類に入る。)

このほか,たとえばグレン・グールドの演奏するピアノなど,無料で聴くことが出来るものをたくさん紹介していて,従来の書籍の範疇には収まらないものだと思う。

本書第6章にあるおもしろい実験
http://www.youtube.com/watch?v=0ADCE3R0Lzs
も,見ることをお薦めする。

結局音楽というのはいくら議論しても始まらないのだから,実際に聴いてもらおうという話である。しかもクラシック音楽は「長い」というイメージがある。氏は序章で「つまみ食いでもいい」と述べている。YouTubeからちょこっと聴いてみて,おもしろかったら全編のCDなどを入手し,BGMで掛けておく。また好きなところがみつかったら・・・などというふうに進んで行くことを想定しているようで,まさに良い方法だと思う。テレビ広告などで「続きはWebで」みたいなのが出ていたが,この分野の方が適している。

終章の「歌うクラシックのススメ」はさらに良かった。変なお勉強をせず,まずは好きなメロディを口ずさんでみようという呼びかけ。そしてそれは一流の演奏家たちが自分の音楽を作り上げる段階でやっていることと同じだという指摘。

たまたま私自身現在トロンボーン協奏曲の譜読みを始めているが,いきなり吹けない譜面でも歌ってみると吹けるようになったり,また吹けているつもりでも歌ってみると全く間違っていたというようなことがたくさんある。それは数ヶ月前,自分の(おそらく最後になるであろう)リサイタルの準備のときに手にしたこの本にも述べられていて,私にとって大切なことである。

金管奏法のカリスマ アーノルドジェイコブスはかく語りき

金管奏法のカリスマ アーノルドジェイコブスはかく語りき

  • 作者: ブルース ネルソン
  • 出版社/メーカー: 杉原書店
  • 発売日: 2010/07/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


さて。

人の本の紹介をするのに,序章と終章だけを紹介するってのはいかがなものかと思う。
実はメインの7つの章にある話はどれもとてもおもしろかった。大学のとき,時間割りの関係で仕方なく履修してしまった講義がきっかけで興味を持ち,また欧州と当地ヨーロッパを股に掛けて活動しているリュート/ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者の下山恭正氏との出会いによってさらに好きになったバッハまでの音楽。中学生のときに出会った,現在は関西フィル首席指揮者の藤岡幸夫氏に教えてもらったトスカニーニの数々の録音。オーケストラの楽器のこと。コンサートを作る側のこと。元々相当知っていたことだけれど,それでもさらに新たな発見や楽しい話が満載だ。

だが。

結局この本を読むこと自体が,クラシック音楽を近しく思っていなかった人には大変なのではないかと思った。もちろんそれも氏の色々な活動の1つとすれば文句はないのだけれど。。。

私はそれでもクラシック音楽が好き。JAZZとか他の音楽も好きだけど。
単に聴くだけでないパートタイム音楽家の端くれとして,こんな世界に少しでも貢献していきたいなと改めて思った。

書評にはなっていない。感想文にもなっていない。自分の言いたいことだけ。

芸術闘争論 [自分の生き方]

入手してからずいぶん経ったのだが,なかなかここに感想文を書けないまま放っておいた強烈な本。


芸術闘争論

芸術闘争論

  • 作者: 村上 隆
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2010/11
  • メディア: 単行本


村上隆氏は名前ぐらいは知っていたし,欧米で評判が高いのも知っていた。結構奇天烈なものを世に出しているのも知っていた。twitter で何となく見かけて,おもしろ半分にフォローしていたのだが,その絡みで読む気になった本である。

  しかし。

そもそも最初が良く読めなかった。  第1章 「今日のアート 情況と歴史」

素人には難しい。わからないことはないのだが,正直に言って興味がなかなか湧いてこず,ここを読み通すまでに何回も挫折した。結局読み終わるまでに3ヶ月の歳月を要した。

なんとか読み通して第2章へ。 「鑑賞編」 最初は退屈だったのだが,いきなり“マニュアル” に出会って目が覚めた。

現代美術の鑑賞には次の4要素が必要だという。

  構図  圧力  コンテクスト  個性

さらに次の第3章 「実作編」 では,これに基づいて制作の過程について語られている。
ここで詳しい話しを書いても意味がない。むしろ自分自身と引き比べて語ってみたい。

自分が子どもの頃の話。私は絵を描くのが苦手だった。小学校教員をしていた父親が,絵を描いたり文字を書いたりするのがあまりにも下手なのを見て,それまでの自分の教育実践の経験から私に「絵日記」を描かせようとした。しかし息子にとってそれは苦痛以外の何者でもなく,結局それによって絵を描いた入り字を書いた入りするのが好きになったり上手くなったりすることは一切なかった。

父にとって自分の長男は,自分の教育実践の経験を否定するような困った子どもだったのかも知れない。まあ算数に興味を持たせてくれたのも父であり,息子を理解していなかったわけではないとは思うのだが,すでに鬼籍に入って35年以上。聞いてみたかったところである。

その私が,小5だか小6だかのとき図工の時間に絵を描いて一度だけ褒められたことがあった。4人で向かい合う作業机で,目の前にいる人の姿を描きましょうという題。夏子ちゃんという,小柄でとても可愛い女の子が向かいにいた。好きな子だったことは確か。お目目の大きな女の子だったのだが,ずいぶん一生懸命描いた。目が大きいことと髪が肩まで掛かっていたこと以外は似ているとは思えなかったのだが,その子の着ていた服が細かい模様で,それを一生懸命細々と描いたのだった。

それを「みんなで展覧会」したとき,図工の先生が名指しで褒めてくれたのだった。

当時から今に至るまで,動機が不純なことは認める。その子に気に入られようと思ったわけではなかったのだろうがが,なんか珍しくやる気が出たのだと思う。

このことについて上の4要素を考えてみた。

○ 構図は,画面一杯にその子の胸像を描くわけだからそれほどのことはなかったのだろうと思う。それでも顔だけでなく,洋服なども一生懸命描いたのだろう。

○ 圧力は,あったと思う。その細かい模様を不器用な手で細かく描いた。そういうひたむきさのようなことが評価されたのだろう。

○ コンテクストは特に無い。強いて言えば,私は夏子ちゃんが好きだったということぐらいか。

○ 個性なんてのはないだろうが,下手くそなのも個性のうちか。

こんな風に思ってみると,意外にこの4観点はおもしろい。調子に乗って自分の他のことも考えてみた。先日開いた5回目のリサイタル

構図:前半はこちらの演奏したい曲を。長い or 難しい曲,聞くのが大変なものは最初に。中間に朗読とのコラボ。後半は短い,よく知られた名曲小品集で,「知ってる曲をやってた」と気分良く帰ってもらう。ドリンクをつけ,雰囲気の良いホールで,気楽に聞いてもらう。

圧力:そりゃあ,本職に穴こそ開けないけれど,めちゃくちゃに練習しましたよ。本も読み,練習方法も考え,音楽のテキストを考え,もちろん全部暗譜して。 そして。

コンテクスト:心に思うことを表現したい前半。マーラーの交響曲第3番1楽章は結果的に鎮魂歌。ブラゼヴィッチの協奏曲第1番はトロンボーンという楽器に対する愛情。
 その後は,音楽は楽しいものだ,みんなで楽しもう!と自分が強く思っている気持ち。

個性: リサイタルをやるような人で,テナー,バスの2種類のトロンボーン,ピストンとロータリーの2種類のバストランペット,そしてユーフォニウムまで1つのコンサートに並べるような馬鹿者はいない。しかもその楽器のオリジナルの曲なんかほとんどやらない。最後は中田喜直「夏の思い出」。

なるほど。こういう観点で見ると,自分の音楽に対する考え方がちょうどこのラインに乗っていたわけだ。だからこの2,3章は本当におもしろかったのだと思う。

そしてもう一つ本書に共感したのは,「シーンを作る」ということ。前書きにあるように,そして後書きにあるように,村上氏はシーンを作ってそこに若い作家を立たせようとしている。

命がけでやっている氏の行動と同列に並べて比較するのは全く失礼なのだけれど,自分がやって来たコンサートシリーズも,基本的な気持ちは同じだった。

 ○ 若い,地元の音楽家に出演してもらう。
 ○ 子ども,特に小学校に上がる前の子どもでも聞きに来られるように。
 ○ これまでクラシックを敬遠していた人が,敷居の高さを感じないように
 ○ ホールを単なる箱物にせず,芸術発信基地になるように。

こんな共感をする人間もいるということを記録しておきたかった。





懐かしい名前 [自分の生き方]

ちょっとどうでもいい話。

佐久協センセの御尊顔をNHK教育テレビで見てしまった。

5/4(水)22時から4週連続で論語の話をやるらしい。

生活が変わるということ [自分の生き方]

最初にまず程度の低い愚痴とつまらない体制批判を。

今月になって実は私自身の生活が大きく変わっている。

勤務する岡山大学津島キャンパスは,国立大学の単独のキャンパスとしては,北大にははるかに及ばないが,東大本郷キャンパスに勝つ?というぐらい広いキャンパスである。少なくともビッグ3には入るといわれている。

キャンパスは平らで,まだまだ十分に余裕があるのだが,この春から自動車での入構規制が非常に厳しくなった。入り口ゲートを設け,お金を取る。教職員は年間定期券の扱いだが,大学から5キロ以内に居住するものはこれが受けられなくなった。これまでは2キロ以内だったのだが,大きな変更である。

まだまだスペースには十分余裕があるのだが,大学側の言い分では駐車場からあふれた車が構内に止まっているという。実際,年に何日か,しかもほんの一部のスペースでそういうことが起きているのは事実だ。しかしそのために相当多くの車を締め出すという暴挙にでた。これは東京電力管内の電気供給の不足と同じで,ピークを見れば確かに足りなくなるということだ。しかも金を取るということになると,その車には必ずスペースを供給しなくてはならないという義務が生じるわけで,だから近い順に制限をかけるということのようだ。

しかし交通機関の発達した都会ならともかく,岡山は車社会である。そこで行うこととしてはあまりにも無謀なことだと思う。大学の教員は8時半-5時のような勤務のところはほとんど無い。専門職裁量労働制となっていて,勤務したならば8時間勤務したものと見なす,というのが我々の労働協約だ。実際には8時間で済む日などほとんど無いし,夕食を取りに帰ってまた大学に来てコンピュータで仕事をしたり,学生の指導をしたりということが日常である。その代わりにたとえば昼休みを70分に延長して食事に出かけることも認められているわけだ。だからそもそもピーク回避=「言われなくても計画停電」のようなことになっているわけで,実態を見ず,貧困な発想に基づいて行われた愚行である。

普通の勤め人の方からすれば甘いといわれるだろうが,毎日学生食堂や学生用の揚げ物大盛りご飯定食を食べるようなことではゆっくりものも考えられない。こういう締め付けは良いものを生まないというのが我々の発想である。

構内で交通事故は確かに起きている。だがそれが公道と比べて決して多いわけではない。すでにあれだけ広く駐車場スペースを取っているのだから,そこを簡易2階式にすれば,2倍近くの車が止められる。ゲートを増やして上手く誘導し,車の流れを変えてやればよい。同じお金を使うならその方がよほど良いと思う。公共交通機関が便利でないところに住む学生が車で通学してくるのは当然のことだと思うのだが,これも規制だ。

岡山大学は新幹線の駅から最も近い国立大学ではないかと思っている。アクセスの良さが売りなのだが,それを悪くするような方策が大学の戦略として良いものであるとは思えない。

つまらない愚痴と体制批判はここまで。



こんなことで,車通勤が出来なくなった。一応バス停まで5分ほど歩いてバスに10分揺られると大学の門の前まで来るのだが,ちょうど良いバスがない。1時限目の講義に間に合うように来るには,始まる50分前に到着しなくてはならないことになる。そんな状況もあるので,試しに歩いて通勤してみた。

なんと景色の見え方が違うことよ。

ちょうど桜の季節。キャンパスではちょうど見頃を迎えている。周囲でもあちこちで満開だ。それを見ながら考え事をしながら歩いてくるのも悪くはない。

うららかに晴れた日。そういえば福島の三春町は震災の被害を受けていたな。原発の影響はどうかな。今年は震災の影響もあって,桃や桜が咲いた話をあまり聞かないが,梅と桃と桜,三つの「春」が同時に咲くから三春って言うんじゃなかったかな。

こんなことを考えるのも悪くない。少しは運動不足を解消するのも。

大学側の施策は最低だが,言っても始まらないので,新しい環境を自分に有利なように使うことにした。

どうも年を取って,生活が変わることに億劫になっているが,老け込んではいかん。

何が嫌なのか [自分の生き方]

前にも書いたように,震災以降どうも調子が出ない。

Twitter も以前にも増してろくなことを書かず,人のRT ばかり。

このことについて,決定的な説明を見たので,ここにずらり引用する。

4/5 未明の 烏賀陽弘道 @hirougaya 氏のTweet
>>被災地でツイッターを使っていた人に集団でインタビューしたあと、一人が「もうツイッターは真剣な議論をする場所じゃないです」と言ったのが心に残っている。3.11クライシスのような深刻な状況にいる人に取っては、評論家きどりの平和ぼけ野次馬など気分が悪くなるだけだろう。
>>私は記者なので、取材によって鍛えられ、成長していく。被災地を見て、被災者の人たちと話して、私は悟った。安全地帯にいながら、ツイッターで評論家気取りになり、凡庸な、たいしておもしろくもない、陳腐な人まねを開陳している連中は、だたの平和ボケだ。
>>3.11以降は、そんなただの平和ボケたちに聞かせる話をぼくがする必要は無い。ツイッターにいる質の高い読者とは、すでにつながりは切れないことがわかったから、後はどうでもいい。

ジャーナリストの烏賀陽弘道氏は,この状況を見てTwitter をやめて Facebook に移籍すると宣言しているが,全く残念なことだ。なぜなら,Facebook に鞍替えしても結局使う人々が同じなら同じことになるから。

それはともかく,これが私の思っていたことズバリだ。平和ボケしている自分を嫌悪していたのだ。
このことが明らかになったので,ずいぶん気が晴れた。

被災地の人たちのことは片時も忘れない。だが,そこにとどまっていてはいけない。

いわゆる『自粛をしない』も含め,できるだけ昔のように好き勝手にやろうと思う。

自粛しない [自分の生き方]

前にも書いたように,震災後どうもブログ記事を書く気になれない。

被災した方々のことを思うと,暖かいオフィスに座ってのうのうと「天下がどうした」「教育がなんだ」みたいなことを書く気になれないのである。

この気持ちのモヤモヤはまだなかなか晴れない。

先日,被災地に救援に行ってきた友人から聞く現地の状況は,やはり想像を絶するものだったようだ。

テレビで津波にさらわれた跡を見て 「焼夷弾に焼き尽くされたのと同じだ」 と思う気持ち
原子力発電所の事故を思えば  「核兵器による破壊とその後のことと同じだ」  と思う気持ち

これは深く心に刻み込まれていて,決して忘れないだろう。

今,我が国は戦時と同じだ。だから自衛隊がこれだけ体を張ってやってくれている。消防,警察,電気,ガス,水道。東京電力だって,一線で本当に過酷な条件下で本当の意味で「必死に」やってくれている。これらのことにも深く感謝する。

しかし。

 「だから○○を自粛しろ」と言われると,ひどく腹が立つ。

「自粛しろ」って,そもそも矛盾してるよ。

自ら粛然としていることだろ。 人に言われてすることじゃない。

しかし日本はそれを言うヤツがいる。

「プロ野球の開幕を延期するのは当然だ」などとマスコミが言う。

当然じゃないよ。当然ってなんだよ。誰が決めたんだよ。   そこにあるのは単なる思考停止。

結果的には,開幕を延期し,東京電力・東北電力管内でのナイトゲームはやめて,西日本でゲームをやるようにすべきだと最初から思ってたけれど,当然だろって何?

酒飲んで騒いでどんちゃんしてると,「あそこは何だ」って言われるから自粛。
音楽を聴いて踊ってると「このご時世に何を浮かれているんだ」って言われるから自粛。

おいおい。

それは「あいつは非国民だ」ってのと一緒じゃねぇか。

確かに起きていることは戦争だ。

だけど日本人がやることは太平洋戦争の時と一緒なのかい?成長せず?学習せず?

ちょっと前まで「今は戦前だ」という言い方をしている人がたくさんいた。
現れ方は違ったけれど,確かにそうだった。

そして 「自粛しない=非国民 ?」   あんたらの発想はは 大東亜戦争 だな。

いやだなぁ。だから自分は自粛しない。3000円の飲み会は野菜サラダをもう一皿取って500円余計に使う。東北産の野菜ならなお良し。むしろもう一軒行っちゃうかも。

義援金はもちろん良いけれど,一時の義援金より,継続的に 「Buy 東北」 の方が良いはず。

  「自粛&今だけ義援金&すぐに忘れてしまう」 

             よりも 

  「自粛しない&永続的に使える形の支援&心に刻んでおく」

という生き方をしたい。

初の削除 [自分の生き方]

初めてこのブログの記事を1つ削除した。

自分の生き方に関係する記事であり,反社会的な行動を取った団体に関連する内容だったのだが,検索サイト経由で毎日のように少しずつアクセスがある。

自分としては同レベルの記事がたくさんあるのに,そこだけアクセスが多いというのは不自然に思う。

このままでは,その反社会的な団体に関連する人間ではないかという誤解を受ける。

「罪を憎んで人を憎まず」の原則は変えない。

だが,その罪を罪と認めない人間を私は忌避する。

憧れと諦め [自分の生き方]

ちょっと前のことになるが,この本を読んだ。


指揮者の仕事術 (光文社新書)

指揮者の仕事術 (光文社新書)

  • 作者: 伊東 乾
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2011/01/18
  • メディア: 新書



著者の伊東氏についてはこのブログでは何度もお名前を出させてもらっている。尊敬する方である。

このブログではほとんど書いていないが,私も音楽家という範疇に入ると思っている。ただし「パートタイムミュージシャン」「日曜音楽家」とでも言うべきだ。

それにもかかわらず,6年前からプロデューサーの真似事をさせてもらってきた。

音楽家集団・岡山チェンバープレーヤーズ 
http://www.geocities.jp/okayama_chamber_players/

と称し,岡山市内中心部のルネスホールを本拠に,毎月コンサート活動を続けてきた。先日それが59回を数えた。そのうち自分自身が演奏したのが4分の1ぐらいか。音楽の演奏そのものについては,全く「パートタイム」も良いところなのだが,コンサートの枠組み,企画という点ではそこそこのことをやって来たと自負している。

岡山市中心部にある文化的な価値もある旧日本銀行岡山支店=ルネスホールを内外の人に広く知ってもらいたい。

声楽やピアノの人は地元に立派な奏者がたくさんおられるのだけれど,それ以外の器楽の奏者は埋もれているようにおもう。

若い奏者に活動の場を作りたい。

クラシック音楽にあまりなじみのない人たちにも気楽に親しんでもらえるようにしたい。

色々と欲張った気持ちの中で,プロデュース仕事を続けてきた。プロデュースはその大半がいわゆる雑用。しかし音楽のことがわかっていないとその雑用も出来ない。大都会ならまだしも,岡山ぐらいではなかなか飯が食える話にはならない。だからパートタイムでも活動の可能性があった。

伊東氏の著を読んでいて,グサリと来た。述べられているのは指揮者の仕事。まさに憧れていた仕事だ。そしてタイプとしては自分に合った仕事のようにも思える。だが音楽そのものへの研鑽が足りないので,残念ながらその道を本業に出来るわけではない。自分の奏者としてのレベルはよくわかっているつもりだ。

だからというわけではないが,実際に演奏するのはもっとレベルの高い音楽家に任せ,自分はその周囲の仕事をしてきた。これが自分のプロデュース仕事である。しかしそれとても,あくまでも「パートタイム」に過ぎない。この本を読んで,そのことを改めて認識した。

そうこうしているうちに,ちょうど一月ほど前,また「悪い」ものを聞いてしまった。憧れのトロンボーン奏者・中川英二郎さん率いるブラスアンサンブル「侍ブラス」(2011.2.11 玉島文化センター@岡山県倉敷市)。英二郎さんとは何度もお会いし,一緒にステージで吹いてもらったこともあるので近しく感じている方である。今回は自作および編曲を中心としたオリジナルな音楽だが,十二分に楽しい。その中には英二郎さんのソロはもちろん,あのトランペッター・エリック宮城さんの圧巻のソロ(ハイトーンだけではない。普通の音域の普通の感じの演奏が異常にすごい!)も燦然と輝く。だがうっかりしてはいけない。そのアンサンブルの完璧さ,10人ほどとは思えない音色の豊かさ。ホルン,ユーフォニウム,テナートロンボーン,バストロンボーン,チューバの5本でどうしてあんなに豊かなハーモニーが出るわけ?アレンジも演奏も,自分などが思いつくレベルをはるかに凌駕している。あれよあれよと思う間に終わったプログラムのあとのアンコールステージ。本当に上手い人がやるからおもしろい「コミックバンド風」。そして最後はステージ裏だけで演奏して,コンサートを閉じるおしゃれさ。演奏的にもプロデュース的にも全くもってノックアウトされた経験でした。

足かけ6年やって来たプロデュース仕事。とてもおもしろい仕事だったし,もっとやりたいことはたくさんあるのだけれど,昨年4月から職場での立場が上がり,こういう活動に時間を割くことが難しくなってきた。少なくともこの1年間で仕事にずいぶん穴をあけてきた。

そんなわけで,憧れてきたこの仕事から手を引こうと思う。次の60回を最後とし,そこは自分のソロをプロデュースして,締めにする。

その最後にちょうどとどめを刺されたような2つの経験がすっぱり諦めさせてくれたように思う。夢の世界,憧れてきた世界もとりあえずこれで店じまい。

年を重ねるということは,諦めを重ねることなのかもしれない。ちょうど今日は私の47歳の誕生日である。
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