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文化的な侵略を許すか [英語を勉強する?]

このところ,今年度前期に担当した「英語」の講義について考えている。

英語が使えるようになる(?)ために必要だと思うこととして,日本語で考えたとしても,その内容を英語的に表現しやすいように論理的に分解する力が必要だという考えは基本的に変わらない。

ずっと扱ってきた「語順訳」はその一つの方法として考えていたのだが,「英語を読む」ということについては意味があると思うものの,「英語で話す/書く」ためにはどうも足りなかったと思う。その点で例えば先日述べた「中間日本語」というような形の取り組みが必要なのだということはわかった。

そこまで行き着いたところで考えてしまった。果たしてそれがいいことなのかどうか。

そもそも英語が使えた方がいいという理由は,はっきり言って「経済的」な理由である。決して言語として英語が優れているわけではない。もちろん日本語が劣っているわけでもない。むしろ漢字(古い中国語)をバックにしている分だけ,英語などよりよほど豊かなのではないかとすら思う。英語が優位だと言われるのは,単に多くの人が使っているというだけの理由である。その点で本質的でない強弱が存在しているわけである。このことを横において考えたとき,「日本語的」な考え方・ものの見方と「英語的」なそれは,簡単に融合しない,むしろ相容れないといったほうが近いのではないだろうか。

例えば自分個人の問題。若いころは,いや今でもそうなのかもしれないが,基本的に「とんがって」,是は是,非は非という感じで生きていた。「アメリカ的」「アメリカに行ったほうがいいのでは?」などとよく言われたものである。まあ数学屋としてはそれでも良かったのだが。ところが最近は「日本語的な」ことのよさが少しは分かってきた気がする。英語的に考える能力は少しさび付いてきている。その両方を得ること,維持することは努力を要するのだが,それでも不可能なことではない。しかし困っているのは,それらはなかなか融合しないということだ。

「日本語的」というよりも「和語」的なものの見方。
「英語的」というよりも「アングロサクソン的」なものの見方。

実はこの2つには少し分析すべきことがあると思う。
「日本語的」の中には,日本人の心情などの問題と,日本語を用いるにしても,論理的にきちんとした表現・コミュニケーションという2つの部分がある。

「英語的」の中にも,私が少しでも食いつけるような「論理的な」「最低限の意思・内容の疎通ができる」ことと,もっと詩的な,または心情的な部分が。

少し前にあった「英語公用語化」の議論,最近聞く「社内公用語の英語化」は,「経済的に良い」ことは分かる。しかし人間の心の問題を置き去りにしてしまうような気がしてならない。

本当の国際人になるためには,自分の文化的な基盤が無くてはならないとよく言われる。それはこの「心情的な部分」である。これが無くては他の文化をもった人たちと対峙することが出来ないのだ。

そのことから考えると,短絡な外国語の導入は危険である。少なくともそれらは一人の人間の中では「融合状態」を生み出さない。並立することは十分出来ると思うが,それは意図的に維持されなくてはならない。ぼんやりしているとどちらかがどちらかを飲み込むような気がする。

外国語を学ぶのは大変なことだが楽しく幸せなことだ。それは以上述べたことを身に着けることだからだ。その結果,違う言語を話す人たちとのコミュニケーションができる。多様なものの見方が出来る可能性もある。だが,国家・社会としての強制的な異言語使用や,無節操にbi/multi lingual を身につけさせようとすることは,結局文化的に他の言語の文化的奴隷になってしまうことのように見える。

今年の英語の講義としては残念ながら失敗だったと思う。教えた内容が悪かったとかそういう問題ではなく,学生がこの「論理的に分析したい」という言い分に背を向けていたからである。それは学生だけの責任ではないが,こちらの現状の力量としては打つ手がないというのが正直なところである。


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中間日本語 [英語を勉強する?]

結構古い本なのだが,最近手にしたもの。

日本語が見えると英語も見える―新英語教育論 (中公新書)

日本語が見えると英語も見える―新英語教育論 (中公新書)

  • 作者: 荒木 博之
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1994/10
  • メディア: 新書

この本は大雑把に言えば,「英語で書けるように/話せるようになるためには」という立場の本であり,ちょうど,前に述べた「語順訳」と反対からのアプローチである。

語順訳は英語のままの語順を変えずに,ブロックごとに切り分けて日本語で意味を表し,それをそのまま読み込んで行くという英文の読み方である。

それに対し本書で推奨されているのは,中津燎子氏考案の「中間日本語」である。その意味は「外国語に移行可能な程度に最小限度整理された日本語」だそうだ。読んでみると,なるほどこれが英語で表現するのに良いステップになることがわかる。

本書では最初にオノマトペの豊かな日本語(和語)が,英語(欧米語)と直接対応しにくいことを指摘している。たとえば

「よぼよぼ」 「ぼろぼろ」 「プリプリ」 「ホッカホカ」 「ぼさぼさ」 「しどろもどろ」 「りりしい」 

などの日本語が英語に直しにくいことなどを挙げている。

日本語人の人間関係のあり方と言語のあり方(モノローグ言語とダイアローグ言語),についても詳しく解説されている。また最近は少し使い古された感もあるが,農耕稲作民と遊牧民の言語感覚の違いについても述べられている。どれもなかなかおもしろいのだが,「英語が使えるようになりたい」と思う人にとっては,難しすぎるのかもしれない。

しかしそのあとにズバリ解説がある。中津氏の言だそうだ。
相手にわかるように表現する。これは言語の基本であるが、言語になってくる以前に、本人の頭の中で相手がわかるように材料を整理する訓練が必要である
(p.111)。

このための中津氏のトレーニングが「お絵かき」を含むことに大いに共感した。日本人は「お手本」がないと描けないことが多いのだという。「月を描いてごらん」と言っても丸を描くだけではダメで,それがちゃんと月に見えるようにしなくてはならない。そのためには周囲の景色なども必要である。つまり絵できちんと表現することは実は相当に論理的なのだという。

ずいぶん前に,指揮者のC.デュトワがNHKの音楽番組で,「フランス絵画・音楽の論理性」という話をしていたことを思い出した。日本ではフランスの音楽,例えばドビュッシーの音楽はふわふわしていて割り切れなく,「論理的」という言葉とは相容れないものだと思われがちなのだが,そうではないのだという彼の説明を理解できずにいた。美術関係の人にも質問してみてもなかなかすっきりしなかったのだが,今回のことで一気に疑問が解けた気がする。

結局のところこれも,荒木氏の言う,多くの日本人が
対象を分析整理して、自己の主体性において創造的に描くという訓練に欠けている
ということの現れであると見ることが出来るのだろう。

このところ英語で話す能力も錆び付いていて,バシバシしゃべれるようになるまでにずいぶん時間がかかりそうなのだが,物事を英語的に表現しやすいように分析して,その結果易しい英語で話すというのが良いというのは,ずっと言ってきたことである。それと同時に,数学の勉強を敢えて英語のテキストで行っていることの意義も再確認されたように思う。



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知性の活動 [英語を勉強する?]

今年度前期は,「英語」の講義を担当している。

そもそも我が方に来る学生で「英語が出来る」ヤツなんて言うのはそんなにいるとは思えないので,たいていは出来ないだろうと思っている。

心配するな,ダメに決まっている。

だからこそ大学で学ばなくてはならないのである。特にこの講義は,私のように英語教育の専門家ではない教員が担当するものである。一応英語を道具として使っている先輩として,学生諸君に受験勉強とは違う,道具としての「英語」について講じたいと思って担当している。

隔年でやっているので,空いている2年間にこちらの感覚が鈍っていることは相当にあるようで,毎回講義の始めに,いわゆる「雑談」を英語で5分以上はすることにしているが,これがなかなかきつい。黒板に少し書いて説明するぐらいは許してもらうにしても,そもそも話題がない。学生がある程度付いてきそうな話題で,しかもこちらの英語力で話せるような内容。もちろん原稿を作るようなことはしないので,毎回苦闘の繰り返しである。

なんでそんなことをするのか。私はいつも,学生の側から見ればきついであろう予習を課し,毎回ランダムに指名して黒板の前で発表させている。せっかく発表してもその場でボロクソに言われるので,辛い話になることはわかっている。だから先にこちらが辛い思いをしてみせるのである。

しかし残念なことに,今年は2年前とは明らかに手ごたえが違う。こちらの側としては2年前の反省記録を元に,学生に「予習の仕方」を毎回丁寧に述べているつもりなのだが,なんとかそれにあわせてやってみようという風もない。前に本ブログに書いた「語順訳」については,2年前はちゃんと説明しなかったので,今年は2回説明をした。

だが問題はそんなことではなかったらしい。驚いたのは初回の講義だ。
いくら1年生とは言え,水曜日に新学期が始まってほぼ1週間経った火曜の5時限目の講義である。
そこに教科書を買ってきた者がなんと4分の1。辞書を持ってきた者は1割。

この時点で教科書の入手方法がわからないはずはない。辞書もなく英語が読めるのなら,代わりに講義をして欲しいぐらいだ。曽布川の講義の口調は厳しいので,私の講義に一度出てイヤになる人がいるのは理解できる。だが一度も講義を受けていない段階でのこの所行は一体何なのか。

初回,最初の講義で言うのは「辞書の引き方」である。岡山大学は事前にシラバスを公開している。そこには初回から辞書を持ってこいと書いてある。だが持ってこない。さらに「語順訳」の説明をするために,テキストを形式を替えて人数分準備して行ったので,しかたなくその点について一応説明はしてごまかした。しかし驚いたのは初回だけではなかった。

人数はいるはずなのに,予習レポート(予習ノートの当該ページを見開き2ページコピーして提出させる)の枚数が足りない。それを捲ってランダムに当てるのだが,当てられるのがイヤで提出しないのだ。もちろん欠席扱いなのだが,講義には来ている。

???

昔,代返というのがあったが,このパターンは?

さらに,ランダムに当てるから,ばらつきが出ることもある。すると「先週当たりました」などと平気で言う。これではこちらがどんなに授業方法や内容を工夫したところで,全く手の打ちようがない。楽しく勉強して英語の力が付く、なんてのが本当にあるならば,こっちが授業料を払って聞きに行くよ。ついでにフランス語とドイツ語とロシア語と中国語と朝鮮語でやってくれ。全部行く。

小テストやプレ期末試験の出来も惨憺たるもの。

期末試験も一応やったのだが,パラパラっと見てどうしたものか考えてしまった。

そうやって悩んでいるときにちょうど見たのが,内田樹氏のブログ「英語ができんが、何がいかんとや」。http://blog.tatsuru.com/2010/07/25_1133.php

「学び」においては、努力と報酬を相関させてはならない。しかし英語については、「英語ができんが、何がいかんとや」と叫ぶことが許されていない・・・

あれれ。そう来たか。確かに英語を毛嫌いする学生が多いとは思っていたのだが,納得できてしまった。しかしそんな風に解説されてしまっては,私には何の術もない。


この記事,書きかけて長らく放っておいたのだが,3週間もおいた後やっとアップする。というのも,悩んでいる場合ではない,もう採点の締め切りがすぐなのだ。

難しい熟語禁止 [英語を勉強する?]

セブン&アイ・ホールディングス会長兼CEO 鈴木敏文氏のインタビュー記事はおもしろかった。

 高邁な難しい用語や普通の人が使わないような英語を使わない。

結局そういうのは借り物なので,話していても伝わらないのだ。裏を返せば,わかっていない人がその隠れ蓑に使おうとしているのではないかと思ってしまう。

私のゼミでは英語で書かれたテキストを使う。専門用語のオンパレードだが,専門語として日本語に訳したものを使って話しても結局のところ議論が出来ていないことがほとんど。日本語にしてしまえば何とかなると誤解している学生諸君はいつも捕まって厳しく指導を受ける。

ちなみに鈴木氏は原稿も用意しないそうだ。これも良い。なぜなら自分の身になっていることが話題になるから。私も基本的に講義では何も見ない。全く手ぶらで行く講義もある(いや,すべてそれでないといけないのかもしれない)。

ビジネスの世界でもどこでも全く同じ。本質をわかっているかどうかが勝負なのである。


鈴木敏文の「話し下手でも成功できる」

鈴木敏文の「話し下手でも成功できる」

  • 作者: 勝見 明
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 2010/05/21
  • メディア: 単行本





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漢字の熟語を禁止する [英語を勉強する?]

久々に,他人の記事に食いついて見たくなった。

日経ビジネスAssocieOnline
梶原しげるの「プロのしゃべりのテクニック」2010年3月11日
【96】「ひらがなのようなひと」になろう
http://www.nikkeibp.co.jp/article/nba/20100222/212030/

いやあ,すばらしい。さすが。その通りだと思う。
Sobu研ではゼミの時に漢字の熟語を用いてしゃべっていると,
突然叱られる,若しくは突っ込まれる。

ゼミのテキストは基本的に英語のものを使うが,英和辞典を引いて,訳語を何とか当てはめてしゃべっているケースを曽布川が見逃すことはまず無い。なぜならほとんどすべての場合に間違っているから。

だから意味(訳ではない)がわかっていないことがばれてしまう。

そこから追求が始まる。数学のテキストの場合にはちゃんと定義が出来るかが勝負。
数学教育のテキストの場合には,易しい日本語で述べることと,概念について細かく説明できることが必要。

数学教育の場合,ちょうど適切な日本語が見つからない場合がある。そのときには原語のまま使うことにするが,次回のゼミでそれが出てくると、また戻ってその意味・内容について精査が始まる。

たとえば, manipulation   intuition  などという単語は,しっくり来る日本語が見つからないので, 研究上は原語のままで議論している。

だがそこもいい加減に原語のままでやっていると追求を受ける。

自分自身も心がけていることだが,易しい言葉で説明する方が大変である。しかも言葉数を少なく。

明治時代に嫌われたように, ○○的×× などという表現は品がないし,結構中身をわかっていないまま使っている人が多い。

だからSobu研では漢字の熟語を禁止している。


なんでこの記事が「英語」なんでしょう。わかって下さったらこちらをぽちっと。

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北村宗彬先生の思い出 [英語を勉強する?]

私が英語を怖くなくなったわけについて語るとき,亡くなった慶應義塾大学名誉教授・北村宗彬(きたむらむねよし)先生のことを述べなくてはならない。

先生には私が大学1年のときに教養において英語を教わった。所属は理工学部で,たまたまその年は私の担任であった。単に必修の英語の先生であって,週1度授業を受ける程度であったのだが,私には色々な意味で鮮烈であった。まず,たまたまその年がそうであったのだが,毎週LL教室が使えるわけではなかったらしい。隔週は普通教室での授業。初回から先生は大いにボヤいておられた。『やりにくい』と。

授業の内容は,

1. アメリカ口語教本のどこかを題材に,まずdictation. 自分でテープレコーダーを巻き戻して聞き直し,また取れないところを文法的に考えて補っていく。
2. それがあらかた完成したところで,発音記号や構文の解説がついている解答を配布。各人でそれをチェックする.
3. 会話形式なので,翌週までに決まっている相棒と練習してきて,先生orコーチの前で披露し,指導・評価を受ける。

構文解説は簡単な記号で分かりやすいものであった。発音記号は何でも「現在日本で使われているものよりもう10年だか後に出来たもので新しくはないが,日本では知られていない,でもその方が発音がよく分かって良いんだ」そうだ。

この授業で発音についてずいぶんよく分かった気がする。 「低い声で」 「どもりながら」 「音節単位ではゆっくりと」 は確かに実際に英語らしい発音に聞こえる。その後これをやることによってそれらしく話せるようになったし,同時に聞き取りも上達したと思う。

さらに良かったのは 英会話のためには,文法なんて中2程度+仮定法(would like to などを含む)で十分だ。これは本当にそうだ。今,大学でこういう話を学生にすると大いに反発するのだが実際これで十分だ。そして だからこれから「話す方法を学ぼう!」

先生の話を聞く限り,当時の「例年」のクラスと比べて出来が悪かったらしいのだがそんなことより私自身にとってはこのときの経験が大いに役立ったと思う。そのおかげで,高校まで英語が得意でなかった私だが,一生懸命英語にチャレンジし直したし,今も特に英語で話すことは得意とは言わないが怖くはない。

北村先生はその風貌から学生は「たこ」と呼んでいた。春の慶早戦第1回戦のあと,先生の自由が丘のお宅に20名ほどでお伺いし,ずいぶん飲んだことを思い出す。確か会費千円で,またやろうと言われたのに第2回がないままその学年は終わってしまった。大学2年になって以降,先生とは全くお付き合いがなかったのが残念であるが,先生の教えをこうして心に留めていることが何よりのご恩返しだと思う。

2005年5月4日,79歳にて。先生のご冥福をお祈りしたい。

(ずいぶん前に書いたことを移設して加筆)

第2外国語の効用 [英語を勉強する?]

チェコの首都・プラハと,スペイン・カタロニアの州都・バルセロナに計1年近くいたのはもうずいぶん昔のことになってしまった。懐かしく思いだされる。この長期滞在中,ヨーロッパ各地へ出張し,色々な言葉と接してきた.その中で,多くの国の人は,「自国語」「英語」「もう一つ」というようにたくさんの言葉を話す。プラハでオフィスを共用していたのはグルジア人だが,グルジア語,ロシア語,英語,そしてこのチェコで職を持っていることからチェコ語も勉強して話せるようになった。ある合宿勉強会で同室になったポーランド人は,歴史的なこともあるのだが,ポーランド語,ロシア語,英語,フランス語はばっちりだと自分でも言っていた.そして「オレのワイフはオレよりもっとロシア語は上手いし,ドイツ語も完璧だ.オレは3年も勉強したのに一生懸命やらなかったからちょっと日常会話程度しかできない.オレはバカだった,もっと勉強すれば良かった」とのたまう.

 翻って,自分自身のことを話そう.私は英語は「気合いのみ」である.ドイツ語は挨拶程度だ.だがこの程度のドイツ語でも大いに役に立つ.もちろんドイツ語圏に行って町中で役に立つのは当然だが,それだけではない.ドイツ語を考えると英語がよく見えてくるのだ.

 もっと面白い話をしよう.私の妻は日本人だが,英語はほとんど使えなかった.第2外国語はロシア語をとったそうだが完全に忘れたと言っていた.しかし来る前に少しだけチェコ語を勉強し,また来てからも途中色々とブランクがあるのだがチェコに滞在実質3ヶ月程度でも,ずいぶんチェコ語が使えるようになった.どうやらロシア語の素養が役に立ったらしい.面白いのはその先である.妻曰く「チェコ語を一生懸命読むようになったら,実は英語が簡単になった」妻は行く先々でその国の料理の本を買うのが趣味である(その本がどう使われているかについては述べない).もちろん,チェコ語で書かれたものもたくさん買い込んで見ているのだが,「チェコ語を思ったら,英語で書いてあることが何とすらすら読めることか」と言いながら,英語で書かれたボヘミア料理の本を見ている.おまけに,このプラハでイタリア語で上演されているオペラについているチェコ語の字幕が気になって仕方がない,でもおかげで細かい筋書きがわかった,と言っているのだから,何がどう幸いするかわからないものである.

 私も英語の成績は悪かった.英語で苦労している人もたくさんいるようだ.私の友人では共通一次試験(今の大学入試センター試験の前身)を受けるのに,英語は出来ないからと言って高校3年でドイツ語を選択し,ドイツ語で試験を受けた人がいた.結局最終的にはその経験が役に立ち,言葉の問題は怖くなくなったそうである.その後彼女はとても優秀な化学者になり,引き抜かれてアメリカに行き,結局アメリカ人と結婚してしまったのだから,分からないものである.

 昨今は「大変だから」という理由で第2外国語を課さない大学が多いそうだ.確かに自分自身も第2外国語は苦痛だったし,あまり勉強もしなかったのでほとんど使えない.しかしやらないのとやったのではずいぶん違う.年齢を重ねた後でも努力して色々な言葉を習得した人がいると聞く.よし,Sobu研でもフランス語かロシア語で書かれた本をやるか(曽布川が先に音を上げるかも?!)


(大昔に書いたものを少し更新して転載)

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語順訳ってなに? [英語を勉強する?]

もう来年度のことを考えなくてはならない。気になっているのは英語(教養科目)を担当することだ。テキストは W.V.Quine の Elementary Logic という易しい本で,読んでみて楽勝だと思ったので選んだのだが,どうも学生達には厳しいらしい。なぜ彼らが読めないのか。その大きな原因は
英文和訳をする習慣がある
ことなのではないかと思っている。実際,3,4年次生のゼミで英語のテキストを使っていると,「まず訳すと・・・」と言う学生が多い。仮に何らかの形で日本語になっていても,だからといってわかるわけではないのだ。それに,その訳文を作るのに大変な苦労がいるようだ。

よく聞く話として
後ろから訳せ
などというのがある。確かに日本語に直すときにはそういう風になることが多い。しかしそれで本当にきちんとした日本語になるのだろうか。それにそんなことをしたら,どうやって英語をしゃべれるようになるのだろうか。
日本語で考え,後ろから順に英訳して?

考えられない。そんなことが出来る人がいたら,すごいものだ。

「Thinking in English」という語句を良く聞く。私が中学生のときに使っていた英会話のテキストもそんな題だった。しかし私も,そんなことを言ったって・・・と思っていた。

何かの本で「後ろから訳してはいけない」「そのままの順に読め」というのを読んだ。それをやってみてから,ずいぶん英語が使えるようになった。最近,それをはっきり説明してくれているのがこの どんぐり倶楽部 のサイトである.

ここには「語順訳」について解説されている。この習慣が付いているだけで難しい英文に取り組めるようになる。高等学校でさんざんやらされるような難しい英文和訳の練習は要らない。このサイトにあるような「英語の語順を変えない」日本語訳で充分である。そしてそれを使う習慣が逆に英語で話すときに生きるのだ。もちろん和文英訳でも,である。

私が「英語」の授業で言うのは,「中学レベルで充分」ということである。実際,高校で扱う難しい英文和訳は,実は「英語の」勉強ではなく「日本語の」「教養の」勉強であることが多い。

たとえば,よく使う単語 see 。

1. 日本語の訳語は一体何種類あるのだろうか。
2. それを全部覚えなくてはならないのだろうか。
3. たくさんある訳語を逆に使いこなせるのだろうか。
4. その訳語だけで足りるのだろうか。

私にはこの全ての質問に答えられない。私は, see とあれば,「だいたい見ることなんだ」と考えている。そこから派生して「見える」「見つかる」「判明する」「わかる」等々,違う日本語の訳語が考えられるが,それはその時の状況によって日本語で考えればいいのだ。

語順訳になっている妙な日本語を普通の,状況にあった日本語に直すことは別の勉強だろう。すくなくとも英語で書かれたテキストの「内容を」勉強したいと思っている人にとっては,あまり必要でない。

(大昔に書いた内容を少しだけ書き換えてアップ)


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そうだ,英文和訳をしてはいけない [英語を勉強する?]

曽布川のゼミでは必ず英語のテキストを使うことにしている。本当はもっと違った言語の教科書を使っても良いのだろうが,曽布川が他の言語に全く疎いので,テキストを選ぶ段階で落ちこぼれてしまうからだ。

4月からの新学期にはまた「英語」を担当する。相変わらず「英文和訳禁止」を謳おうと思う。もちろんゼミは当然だ。
学生は面食らうが,時間をかけてつきあっているうちにだんだんわかってきて,そのうちに「数学を勉強するなら日本語の本よりも英語で書いた本の方がラクだ」などと言い出してしまうのだが。

どうもこのことを上手く説明できずに日々が過ぎていたのだが,面白いサイトを読んでいる。
自分自身の備忘録も兼ねて記しておく。


山岡洋一(やまおか・よういち)
「古典を読んでもさっぱり分からなかった人へ」 
日経ビジネスオンライン
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20091125/210564/

くだらない「電子辞書」論争 [英語を勉強する?]

7/19の朝日新聞に,「電子辞書と紙の辞書,どっちがいい?」という論争が上がっていた。

笑ってしまったのは,いわゆる専門家の意見がなかったことである。「素人さんの個人体験」ばかりが上がっている。こういうことでは多数決には意味がない。最近よく見る「TVショッピング」の「これは個人の体験であり,効能を意味するわけではありません」のレベルである。

ではなぜ専門家の意見がないのか。それは利害関係者だから。然るべき専門家はみんな辞書を書いている。悪く言えば利害関係者である。だからどちらかに軍配を上げることは出来ないのだ。

そこで,半分素人の私が結論を言おう。話はわかりやすいように英和辞典に限定するが,仏和,独和,露和,また和英,和仏など同じことだし,実は国語辞典でも漢和辞典でも古語辞典でも本質は同じなのだが,深く言及はしない。

そもそも「英単語の意味」とはどういうものなのか。残念ながら,英単語1つに対して日本語の単語が1つぴったり当てはまるケースは皆無である。外来語として互いに取り入れている語でも,その段階で意味が狭められたり変えられたりしていることが大半である。

従って当然のごとく,辞書を引いたときに最初に見つかる訳語がその語の意味を完全に表しているとは限らない。

そういう意味で,1967年に出版された 森一郎「試験に出る英単語」(青春出版社)は人々を驚かせた。その前書きにはっきり書いてあるとおり,「大学受験のためにもっとも効率の良い方法をとるため,過去の大学入試の問題を調べ上げ,試験に良く出る順に,試験で要求される訳語を1つだけ当てるように」作られた参考書である。

改訂版に寄せて著者は,これは試験に出る順なのであって,一般社会で使われる頻度と一致するとは限らないとはっきり述べている。手元にはもう同書はないが,確か issue という言葉についての訳語について議論があったように思う。この単語の意味をぜひ調べてもらいたい。

だがそれは「大学受験」のための便法なのであって,それだけが目的あるならば,「でる単・電子辞書版」(があればそれ)を使えばいいと思う。

そうやって森氏のデータを信じるのも入試対策には良いだろう。だが大学に入ってきた学生を見ると,英単語の見方が「試験に出る」に流されてしまっている。しかしそれは入試以外には役に立たないのである。英文の原書を読ませてみると,全く辞書の見方がわかっていない。だから残念ながらそれを最初から教え直さなくてはならない。さらに言えば,入試の出題側は,「英文を読んでちゃんと理解し,考える力があるか?」を見たくて出題しているのであるから,結果的に「でる順」が上手くいくケースもあるだろうが,それだけで上手くいくとも限らないのではないだろうか。

だから,この点を良く理解しているならば,どちらを使っても構わないということになる。しかしじっくり考えるという点での使いやすさや力の付きやすさを考えると,紙の辞書に軍配を上げなくてはならないだろう。

電子辞書派の人の中には,「百科事典も付いてる」「色々な言語の辞書がある」などと言う人もいるが,そんなものを色々携帯する必要がある人なんてごく少数だし,然るべき場所でじっくり調べれば済む話である。

ただし「おもちゃ」として「辞書で遊ぶ」人にとっては,電子辞書は大いにオススメである。我が長男は,(紙版であるが)広辞苑第6版を半分おもちゃとして持っている(○×リーグの影響?)。



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