知性の活動 [英語を勉強する?]
今年度前期は,「英語」の講義を担当している。
そもそも我が方に来る学生で「英語が出来る」ヤツなんて言うのはそんなにいるとは思えないので,たいていは出来ないだろうと思っている。
心配するな,ダメに決まっている。
だからこそ大学で学ばなくてはならないのである。特にこの講義は,私のように英語教育の専門家ではない教員が担当するものである。一応英語を道具として使っている先輩として,学生諸君に受験勉強とは違う,道具としての「英語」について講じたいと思って担当している。
隔年でやっているので,空いている2年間にこちらの感覚が鈍っていることは相当にあるようで,毎回講義の始めに,いわゆる「雑談」を英語で5分以上はすることにしているが,これがなかなかきつい。黒板に少し書いて説明するぐらいは許してもらうにしても,そもそも話題がない。学生がある程度付いてきそうな話題で,しかもこちらの英語力で話せるような内容。もちろん原稿を作るようなことはしないので,毎回苦闘の繰り返しである。
なんでそんなことをするのか。私はいつも,学生の側から見ればきついであろう予習を課し,毎回ランダムに指名して黒板の前で発表させている。せっかく発表してもその場でボロクソに言われるので,辛い話になることはわかっている。だから先にこちらが辛い思いをしてみせるのである。
しかし残念なことに,今年は2年前とは明らかに手ごたえが違う。こちらの側としては2年前の反省記録を元に,学生に「予習の仕方」を毎回丁寧に述べているつもりなのだが,なんとかそれにあわせてやってみようという風もない。前に本ブログに書いた「語順訳」については,2年前はちゃんと説明しなかったので,今年は2回説明をした。
だが問題はそんなことではなかったらしい。驚いたのは初回の講義だ。
いくら1年生とは言え,水曜日に新学期が始まってほぼ1週間経った火曜の5時限目の講義である。
そこに教科書を買ってきた者がなんと4分の1。辞書を持ってきた者は1割。
この時点で教科書の入手方法がわからないはずはない。辞書もなく英語が読めるのなら,代わりに講義をして欲しいぐらいだ。曽布川の講義の口調は厳しいので,私の講義に一度出てイヤになる人がいるのは理解できる。だが一度も講義を受けていない段階でのこの所行は一体何なのか。
初回,最初の講義で言うのは「辞書の引き方」である。岡山大学は事前にシラバスを公開している。そこには初回から辞書を持ってこいと書いてある。だが持ってこない。さらに「語順訳」の説明をするために,テキストを形式を替えて人数分準備して行ったので,しかたなくその点について一応説明はしてごまかした。しかし驚いたのは初回だけではなかった。
人数はいるはずなのに,予習レポート(予習ノートの当該ページを見開き2ページコピーして提出させる)の枚数が足りない。それを捲ってランダムに当てるのだが,当てられるのがイヤで提出しないのだ。もちろん欠席扱いなのだが,講義には来ている。
???
昔,代返というのがあったが,このパターンは?
さらに,ランダムに当てるから,ばらつきが出ることもある。すると「先週当たりました」などと平気で言う。これではこちらがどんなに授業方法や内容を工夫したところで,全く手の打ちようがない。楽しく勉強して英語の力が付く、なんてのが本当にあるならば,こっちが授業料を払って聞きに行くよ。ついでにフランス語とドイツ語とロシア語と中国語と朝鮮語でやってくれ。全部行く。
小テストやプレ期末試験の出来も惨憺たるもの。
期末試験も一応やったのだが,パラパラっと見てどうしたものか考えてしまった。
そうやって悩んでいるときにちょうど見たのが,内田樹氏のブログ「英語ができんが、何がいかんとや」。http://blog.tatsuru.com/2010/07/25_1133.php
あれれ。そう来たか。確かに英語を毛嫌いする学生が多いとは思っていたのだが,納得できてしまった。しかしそんな風に解説されてしまっては,私には何の術もない。
この記事,書きかけて長らく放っておいたのだが,3週間もおいた後やっとアップする。というのも,悩んでいる場合ではない,もう採点の締め切りがすぐなのだ。
そもそも我が方に来る学生で「英語が出来る」ヤツなんて言うのはそんなにいるとは思えないので,たいていは出来ないだろうと思っている。
心配するな,ダメに決まっている。
だからこそ大学で学ばなくてはならないのである。特にこの講義は,私のように英語教育の専門家ではない教員が担当するものである。一応英語を道具として使っている先輩として,学生諸君に受験勉強とは違う,道具としての「英語」について講じたいと思って担当している。
隔年でやっているので,空いている2年間にこちらの感覚が鈍っていることは相当にあるようで,毎回講義の始めに,いわゆる「雑談」を英語で5分以上はすることにしているが,これがなかなかきつい。黒板に少し書いて説明するぐらいは許してもらうにしても,そもそも話題がない。学生がある程度付いてきそうな話題で,しかもこちらの英語力で話せるような内容。もちろん原稿を作るようなことはしないので,毎回苦闘の繰り返しである。
なんでそんなことをするのか。私はいつも,学生の側から見ればきついであろう予習を課し,毎回ランダムに指名して黒板の前で発表させている。せっかく発表してもその場でボロクソに言われるので,辛い話になることはわかっている。だから先にこちらが辛い思いをしてみせるのである。
しかし残念なことに,今年は2年前とは明らかに手ごたえが違う。こちらの側としては2年前の反省記録を元に,学生に「予習の仕方」を毎回丁寧に述べているつもりなのだが,なんとかそれにあわせてやってみようという風もない。前に本ブログに書いた「語順訳」については,2年前はちゃんと説明しなかったので,今年は2回説明をした。
だが問題はそんなことではなかったらしい。驚いたのは初回の講義だ。
いくら1年生とは言え,水曜日に新学期が始まってほぼ1週間経った火曜の5時限目の講義である。
そこに教科書を買ってきた者がなんと4分の1。辞書を持ってきた者は1割。
この時点で教科書の入手方法がわからないはずはない。辞書もなく英語が読めるのなら,代わりに講義をして欲しいぐらいだ。曽布川の講義の口調は厳しいので,私の講義に一度出てイヤになる人がいるのは理解できる。だが一度も講義を受けていない段階でのこの所行は一体何なのか。
初回,最初の講義で言うのは「辞書の引き方」である。岡山大学は事前にシラバスを公開している。そこには初回から辞書を持ってこいと書いてある。だが持ってこない。さらに「語順訳」の説明をするために,テキストを形式を替えて人数分準備して行ったので,しかたなくその点について一応説明はしてごまかした。しかし驚いたのは初回だけではなかった。
人数はいるはずなのに,予習レポート(予習ノートの当該ページを見開き2ページコピーして提出させる)の枚数が足りない。それを捲ってランダムに当てるのだが,当てられるのがイヤで提出しないのだ。もちろん欠席扱いなのだが,講義には来ている。
???
昔,代返というのがあったが,このパターンは?
さらに,ランダムに当てるから,ばらつきが出ることもある。すると「先週当たりました」などと平気で言う。これではこちらがどんなに授業方法や内容を工夫したところで,全く手の打ちようがない。楽しく勉強して英語の力が付く、なんてのが本当にあるならば,こっちが授業料を払って聞きに行くよ。ついでにフランス語とドイツ語とロシア語と中国語と朝鮮語でやってくれ。全部行く。
小テストやプレ期末試験の出来も惨憺たるもの。
期末試験も一応やったのだが,パラパラっと見てどうしたものか考えてしまった。
そうやって悩んでいるときにちょうど見たのが,内田樹氏のブログ「英語ができんが、何がいかんとや」。http://blog.tatsuru.com/2010/07/25_1133.php
「学び」においては、努力と報酬を相関させてはならない。しかし英語については、「英語ができんが、何がいかんとや」と叫ぶことが許されていない・・・
あれれ。そう来たか。確かに英語を毛嫌いする学生が多いとは思っていたのだが,納得できてしまった。しかしそんな風に解説されてしまっては,私には何の術もない。
この記事,書きかけて長らく放っておいたのだが,3週間もおいた後やっとアップする。というのも,悩んでいる場合ではない,もう採点の締め切りがすぐなのだ。
2010-08-15 18:21
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