SSブログ
英語を勉強する? ブログトップ
前の10件 | 次の10件

「アリス」を原文で読まなくてはならないかも [英語を勉強する?]

自分が変な人間だということは常々わかっているつもりなのだが,再確認した。

宗宮喜代子「ルイス・キャロルの意味論」(大修館書店)を読む。

最初から笑い通しであった。こんな本を読んで大声で笑う人がどれだけいるのか。

同書は有名な童話「不思議な国のアリス」を,論理学,意味論の立場から読み解こうとしている。
言語学というか哲学というか,いずれにせよ,そういう類の本である。

恥ずかしながら,この「アリス」をちゃんと読んだことがないのだが,元々が楽しい本のようだ。ただしその本来的なおもしろさは,なかなか日本語訳にはしにくいことのようである。これまで何種類も邦訳が出ているが,イギリスの言葉のウイットを訳するのは容易ではないらしい。むしろ本書のような解説が加えられている方が,そのおもしろさがわかるのではないかと思う。いずれにせよ原文を読んでいない私には偉そうにする資格はない。

読み進めていくうちに妙なことに気付いた。それはこの10年ぐらい思っている,「英語の文献の読み方」についてである。やめとけばいいのに英語の講義を持ったりしているのだが,そこで学生に伝えたいのは,多くの高校生が学んできた「英文和訳」の問題点である。英語で書かれた文献を見ると

まずは訳して

と来る。それがダメなのだ。その「訳」の段階で多くの情報が欠落しまた付加され,議論が歪められる。その結果「わかりません」となってしまう。

そもそも,英単語にぴったり来る日本語の単語など無いのだ。それすらわかっていない。いや,学生がわかっていないだけでなく,それを教えられていないのだ。その段階からこちらが面倒を見なくてはならないのは辛い。

その点で,意味論を学んでみるのもおもしろいと思った。




英語で授業できるかい? [英語を勉強する?]

先日,高等学校の学習指導要領の改訂が発表された。

私は新聞の見出しを見たレベルなのだが,はっきり言って笑った。

 英語の授業は英語でやれ

アホか。そんなことを言ってるヤツはクズとしか言いようがない。

なぜか。英語で指導して大学入試センター試験の詰め込み指導ができるのか?それほど英語が話せる教員ばかりでないし,そもそも生徒が理解できないではないか。

確かに英語で話し続け,それをたくさん聞くことには大いに意味がある。それ自体は否定しない。

しかしその前にやることがある。それは

 大学入試センター試験の廃止

である。その上ならば英語での指導も結構だ。しかし現状を放置したままでこんなことを決めるのだとすれば,目一杯轡を引きながら馬の尻を叩くようなものだ。フルブレーキを踏みながらスロットル全開にするようなものだ。

英語が使えるようにしたいのだとすれば。

1.小学校段階で英語の発音に耳から慣れ,口を動かす練習だけをする
2.日本語を使って,論理的にしっかり考える訓練をする
3.日本語を使って,日本および英語圏の文化をしっかり学ぶ

その上でセンター試験を廃止する。

それができないのなら,絵に描いた餅にもならない。高校の英語教師にプレッシャーがかかるだけの害毒だ。

英文和訳禁止令 [英語を勉強する?]

不肖わたくしめのような者が担当する「英語」の講義というのが存在する。

そこで申し渡すのは「英文和訳禁止令」である。大学に入り立ての1年次生にはショックが大きいようである。

研究室に入ってきた3年生にも同じ命令を出す。守ろうとしない者も多いが,特に膝詰めでやるゼミでは本人は知らん顔して文章に書かれた内容を紹介しようとするが,必ず破綻を来たし

「英文和訳をするな!」

と叱られる。

このところ読んでいる


受けてみたフィンランドの教育

受けてみたフィンランドの教育

  • 作者: 実川 真由
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2007/09
  • メディア: 単行本



にも,この話が(逆向きに)紹介されていた。高校2年生でフィンランドに留学した実川真由氏は,向こうの英語の授業でたくさんのエッセイを書かされて苦労する。そこで悟ったこととして,300~400語のエッセイを書くとなれば,その短さから「読み手に興味をいだかせる技術がいる」ということが挙げられている。そしてそのときには「日本語でものを考え,それをほぼ直訳した言葉を探し出して」「わからない単語があればそれを辞書で検索して出てきた単語を書」いているような

「ニホンゴエイゴ文章」

では相手に何も伝わらないのだと断じている(p.112)。

実はこのことは向きを逆に見れば,英語で書かれた文章を読むときも一緒である。とりあえず英単語を日本語に直して適当につなげ,それから内容を考えてみるという作業が多く行われるようだが,大抵の場合「日本語に直す」段階で情報が欠落し曲解されるため,結局何を言っているのかわからないということになる。だからうちのゼミ生は叱られる(笑)。

さらに最悪なのは,高校レベルの教え方だろう。大昔,高校生のときに勉強していた参考書はすべて「このケースではこういう日本語だ」と言い切っているだけで,話は「覚えろ」である。それが他の文章では通用するのか?そこに出てくるのは「根性」「努力」のみであった。ところが,思い出してみると,高校の時の学校の英語の授業ではそうではなかったようなので,自分自身は比較的恵まれていたのかも知れないが,当時の自分,そして周囲もだれもそんなことはわかっていなかったように思う。

そこで思い出す,中学校のときの英会話のテキスト。表題がすべてを物語っている。


Thinking in English

Thinking in English

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 開拓社
  • 発売日: 1992/08
  • メディア: 単行本



私が英語で話すのを怖くないわけ [英語を勉強する?]

先日,県内のある高校でコンサートをさせてもらった時のことを書いた。本番ではこの学校の生徒さんたちと一緒に演奏する機会もあったのだが,そのリハーサルのとき,にこにこした,元気そうな女子生徒が声をかけてきた。別の男子生徒が楽器について聞きたいことがあるというのだが,その積極性と,日本で音楽教育を受けた人ならいわないような表現だったこと,さらに日本語のイントネーションが気になったので,ちょっと英語で問いかけてみたら,カナダからの留学生だそうだ。

いわゆる世間話をちょこちょこっとしたのだが,その男子生徒や楽団の仲間たちの驚きの表情は面白かった。

「すごいですね~」

そこで私はすかさず答えた。

「使っている英語は中学レベルの易しい言葉だけだよ~」

なかなか人々は納得しないのだけれど,事実だから仕方がない。

このところ,フィンランド・メソッドとか呼ばれてフィンランドの教育に関心が集まっている。
その関連で読んだ本の1つがこれである。





各所に面白い話があるので,何回かに分けてコメントしたいのだが,今日述べるのは第3章「英語は書くことに始まり,書くことに終わる」の行である。

高校生2年生の時に1年間留学した著者の一人の実川真由氏は,私の言い分をジャスト,このように表現している。

「簡単な英語をつかって言いたいことを述べる癖」
氏の話は,特に英語の授業で毎回エッセイを書かされたことに関する話であった。必要なのは難しい表現を使うなどということではなく,言いたいことを明らかにし,それを論理的に明確に述べることだというのがその中心となる主張であり,会話においても全く同じであると,経験談を交えて述べている。

私の研究室(の飲み会や昼食会)では時々「English time」と銘打って,何分間か日本語禁止時間を作ってみるのだが,もじもじするばかりでなかなかうまくできない。

必要なのは,持っている知識を十分に使いこなすことである。大学入試センター試験(は廃止すべきだというのが私の主張だが)程度の英語力であっても,充分会話はできる。それはリスニングテストを導入したからではない(あれは手間がかかるだけで,さらに愚だと思っている)。あの程度で充分なのだ。私など,その力さえもないかもしれないが,それでも英語で話すのは怖くない。

よければこちらもぽちっと。

英語 ブログランキングへ

hearing はどうしようか? [英語を勉強する?]

相当に多くの若者は受験英語のことを「英語」だと思っているようだ。そして「英語は嫌いだ」などと。

私の場合,嫌いはともかく,どう見ても全くの劣等生だ.しかし受験英語ではなく,日本語を話さない人とのコミュニケーションツールとして英語を考えれば,こんな楽しいことはない.私は大好きだ.

最近、大学入試センター試験にもヒアリングテストが導入された。まあその意味は如何に。確かに無いよりは良いが,我々テストを実施する側の大変さを思うと,それほどの意味があるかどうか是非検討してもらいたいと思う。

なぜヒアリングが出来ないのか.どうしたら出来るようになるのか.それについて一つの方法論を聞いたので,それをここに説明したい.

 それを教えてくださったのは,岡山の隣町・倉敷出身で,現在はチェコ・プラハ在住でヨーロッパ中で活躍しておられるオペラ歌手・慶児(けいこ)道代さんである.

 チェコでは人々はチェコ語を話す.スラブ系の言葉で,言語学の専門家によれば,とても豊かな言葉だそうで,日本語では一つの言葉であっても,細かくいくつもの表現があるらしい.たとえば「豚肉」という言葉はあるが,実際には「すね肉」「もも肉」「肩肉」「バラ肉」全部全く違う単語を持っている.またもちろん名詞には文法上の性があり,それらに語尾変化があり,もちろん動詞も思い切り変化がある.そのことはひとまずおくことにしよう.問題なのは「音」「ヒアリング」である.

 慶児さんはオペラ歌手である.モーツアルトの古いものやもちろんイタリアオペラはイタリア語で演じられる.ものによってはドイツ語だ.またそれほど多くはないがフランス語のオペラもある.彼女はプラハにある世界有数の歌劇場・Narodni Divadlo などでも歌っており,ここではチェコ物も多く取り上げられるし,もちろん日常の仕事の打ち合わせなどはチェコ語で行われる.何かの折りにはもちろん英語が話せないとどうしようもない.日本人だから日本語はもちろんだ.

 その彼女からチェコ語について聞いたのは,「他の言葉にないような特別な発音があって難しい」というのである.意味は適当に調べてあとは丸暗記でもオペラを歌うことは可能だが,発音がきちんとしていないと劇場で人前で歌うことはできない.だから発音を厳密にやるというのは歌を歌う上での常識なのだが,彼女曰く,チェコ語の難しい発音について,

口の中でこんな動きをしてこうやったらこういう音が出る

というのが出来るようになったら,途端にヒアリングが出来るようになってきた.

さらにチェコ語はもちろんだが,他の言語も,というのであった.これは注目すべきアドヴァイスである.日本人はよく,英語のRとLの発音が区別できない,と言われるのだが,聞き取る前に,これらの発音を自分で出来るのだろうか.自分で出来ない発音は聞き取れない,逆に発音できるようになったら聞き取れるようになる,これが彼女の話から得たヒントである.

 私自身のことを思いだしてみる.もちろん,ヒアリング○○などという教材を買って練習したこともあるのだが,思い出して一番役に立ったのは,今を去ること20年前,大学1年の時の英語の授業である.担当は担任でもあった「たこ」というあだ名の教授だったのだが,彼は「文法とか解釈は充分勉強してきただろうから」と,会話が出来るようにするための授業をしてくれた.そこで面白かったのはたとえば,

 I want to ○○○

と話すとき,皆さんはどう発音するだろうか.カタカナで恐縮だが

 アイ ウォンッ トゥ ○○○

と発音するのではないか.だが英語を普通に話す人でこんな発音をする人は滅多にいない.普通はどちらかと言えば

 アイ ウォンヌ ○○○

という発音の方が聞いた感じでは近い.これは子音の t が変わるのではなくて,どういう母音を使うべきか我々が知らないことや,英語のリズムがどうであるかということを知らない,ということなのだが.

 我々がヒアリングに苦しむのは,ヒアリングそのものだけではなくてスピーキングに問題があるのではないかとおもう.実際,こうした「ただしい,英語らしい発音」が出来るようになってからというもの,ヒアリングに関して私はずいぶん変わったと思う.

 是非お試しいただきたい.また専門家からのアドヴァイスもいただければ幸いです.

(昔Webに書いた文章に加筆)

古語辞典と独立自尊 [英語を勉強する?]

恩師の話を書きたい。本当は存命中の方についてこうやって書くことははばかられるし,言われた方も困る(怒る?)かもしれないが。

高校生の時に国語を習った本井 英さんの話である。

このリンクをたどっていただければ分かるが,彼は定年を前にして高校教員をリタイアし,自身で俳句会/俳句雑誌を主宰しておられる。

大学の教養でも講義をしておられたから,「日本語表現論の本井」というと記憶にある塾員もあるだろう。
私は高1の時に現代国語を,高3の時に古文の授業を聞いた。私と同じ中学校の出である彼から受けた薫陶は,無形の部分でとても大きく,これについては文章で述べるのはなかなか難しいのだが,とにかく影響を受けた人である。

「英語を」というカテゴリにある小文にて「古語辞典の引き方」とは何か?と思う向きもあるかもしれないが,本質がここにある。

古典の授業について彼は基本的に予習してこない。少なくともそれを公言している。高校の教科書にあるような有名な文章なら何度も読んでいるし,ある程度解釈も定まっているはず。だから彼も本気で考えているところがわかる。

ある詩歌の解釈のところで,本井氏はちょっと解釈に詰まった。そして「誰か辞書を引いてくれないか」と。
友人が辞書でその言葉を見つけたところ,ちょうど例文としてその詩歌が出ていたので,

 「先生,この歌が出ています。現代語訳はこうです」

と言ったときの彼の言ったことが忘れられない。

 「それは間違っているだろうから,ちゃんと品詞分解からやろう」

最終的にはその辞書にある解釈と同じ結論が出たのだが,彼のこの姿勢が私の心に深く刻み込まれた。

その辞書を執筆した人がどんな権威であっても,そういう人が言うことを鵜呑みにしてはいけない。自ら正しいかどうかを確認する必要がある。

祖として仰ぐ福澤諭吉の言葉をもちいるならば,それが人として独立することである。このことを具現化した説明であった。

翻って「英語」の話。よく考えもせずに「覚えよう」という者が多すぎる。その結果,少し難しい文章になるとお手上げである。常に疑って掛かり,自分が納得するまで突き詰める。この姿勢が大切である。このシリーズでも辞書の引き方についても色々と述べてきたが,突き詰めようという姿勢がなければ辞書の引き方もいい加減で終わるのだろう。

歴史を勉強しよう [英語を勉強する?]

昨日の話に続いて今度は「歴史を勉強しよう」である。

 少し前,かつて日本とアメリカが戦争したことを知らない若者がいる,と話題になったことがある.色々な理由から,近現代の特に日本史を学校で学ばないことに,大きな原因があるという話だった.それももちろんである.だが,勉強しているはずの,もう少し前の歴史についてはどうだろうか.「知っている」と言えるだろうか。

我々が思っている以上に,外国人は日本の歴史を知っている.これは人から聞いた話だが,タイでは日本に学べとばかりに,江戸から明治・大正・昭和の日本の歴史を勉強するそうだ.また欧米人も,詳しくは知らなくても,日本が鎖国をしたことなどはよく知っている.

そこで考えてみよう.日本は江戸時代,なぜ鎖国をしたのか.これは入学試験ではない.だから正解を知って覚えるなどというバカげたことは通用しない.実際,こういうことについては後から分析してみて理由付けをしている部分もあるのだし,タイムマシンに乗って当時の政策を決めていた人にインタビューしに行くわけにもいかないのだから,正解,という発想すら怪しい.

結局問われるのは「あなたの意見は?」だ。もちろん,全く知識がなくてはダメだ.知識がないところに意見などあるわけもない.だが知識があってもダメだ.知識など百科事典でもインターネットでも,どこでも探すことが出来る.覚えているだけではダメなのだ.そんなことは人間でなくても出来る.外国人だって,やる気になればどこかで探してくることが出来るだろう.大事なのは,その

知識を踏まえて「自分がどう考えるか」


をきちんと出せることである.外国人から日本の歴史について聞かれて「わかりません」では話にならない.そこで何らかの説明をし,何らかのコメントを加えられなくてはならない.

 逆に外国人が日本の歴史についてちょっとでも知っていて,話の種にしようというのだから,逆に我々も外国の歴史について少しは知っている必要がある.世界史取ってませんなどというのは言い訳にも何にもならない.取ってないから何なんだろう.逆に取ってたら何でも知っているのか.大事なのはそういうことに興味を持って,常に知識を増やそうとしているかどうかだ.

 最近はご無沙汰だが,ひと頃ずいぶんヨーロッパを訪れた。そのとき何かのガイドブックで読んだ.ヨーロッパはあらかじめ勉強した分だけ何かを与えてくれる.確かに.何となく訪れて,きれいな街並みだなぁ,いやいや汚い街だ,犬の糞だらけだ,大きなお城だなぁ,大きな教会だなぁ,では何にもならない.ここはフランス革命のときに最初に暴動が起きたバスティーユの監獄があったところだとか,この街は15世紀にハンガリー帝国の首都が置かれていたところで,ここでその後もずっと戴冠式が行われてきたとか,ここはモーツアルトが結婚式を挙げた教会だとか.そう思ってみると感慨も全く違う.アジアならなおさらだ.アジアの国々はもっと我々に近い.朝鮮半島では未だに豊臣秀吉の朝鮮戦役のことが人々の頭にある.もちろん,太平洋戦争のことについては,その国々によって色々な記憶として残っている. こうしたことを知っていることが重要なのだ.こうしたことを念頭に置いて外国人と接する必要がある.場合によっては気を遣ってやらなくてはならないだろう.もちろん,ヨーロッパの歴史について我々日本人が彼らより知っているというのは難しい.だがせめて何の話かぐらいはすぐにわからなければならないし,ちょっとは質問も出来なくてはならない.あなたの国の歴史には何の興味もありません,ということになれば,彼らは自分の国をバカにされたと思うだろう.

 たとえば国歌について考えてみるのも面白い。どの国も皆,その国旗・国歌には歴史的に意味がある.そうした歴史は国,場合によっては民族というべきかも知れないが,その誇りである.フランス人は自分たちが一番だと思っている.だから「戦え」という歌詞を大事にしている.ドイツ国歌もドイツは最高,だ.だから彼らに敬意を表して立って聞くべきものなのだ.アメリカは国として新しい.元々そういった人々の心の拠り所がない.だから,ある程度作為的に国歌・星条旗を大事にする法律を作った(という歴史がある)のだ.

 そういうことを踏まえて,他国の国旗・国歌に対する態度というのが決まってくる。折しもオリンピック開催中である。

単に英語を話すというだけでなく,外国人と接するための知識と思うと歴史を知ることが重要であることを忘れないで欲しい.

(むかしのWebサイトの内容に加筆)

地理を勉強しよう [英語を勉強する?]

カテゴリは「英語を勉強する」なのに,なぜ「地理を勉強しよう」なのか。

それはお勉強ではなく最低限の常識だからである.

実際に私が体験した話をしよう.もう15年も前,岡大に赴任した年のことである.あるアメリカ人研究者が岡大にやってきた.もちろん,研究のためなのだが.岡大側の呼んだ人(ホスト)については一応単に「英語が堪能」とだけ言っておこう.少なくともバリバリしゃべれるし,話している相手は会話を楽しんでいるようだ.

周辺の観光を,ということで瀬戸大橋を見に行った.確かにすばらしい景勝地だ.私は車を運転して,そのホストとアメリカ人を乗せていったのだ.運転しながらの英会話は結構気を取られて難しい.それで私はうなずくだけでほぼ黙っていたのだが.鷲羽山について瀬戸内の島々を見ていた時のことだ.そのアメリカ人が,突然「どうした,お前ずっと黙っているけど具合でも悪いのか?」と言う.そうじゃないんだ,ただ話すべき内容が見つからないから・・・と言った.すると突然,「岡山市の人口はどれくらいだ?」と聞いてきた.私は知らなかった.woo.「それじゃ岡山県は?」もちろん知るはずがなかった.そうか.そこで会話は終わった.

欧米人にとっては日本は東洋の神秘である.残念ながらヨーロッパ人には,南北朝鮮の歴史的な首脳会談も,おまけみたいなもののようだ.アメリカ人にしても,目は大西洋には向いていても,太平洋には,遊びに行くところぐらいであまり目がむいていないらしい.だが逆に目の前にそういう連中がいると,面白がって聞いてくることが多い.

日本の国土はどのくらいの広さだ,それっぽっちしかないのに1億2千万人もいたら窒息するんじゃないか?
なに,その多くを森林が占める?それじゃお前たちはどこで暮らすんだ?
Okayama?なんだそれは,聞いたことがないぞ,どこにあるんだ?
日本は4つ島があると言うがそれはどこだ? ← 意外に我々は本州を島だと思っていないが・・・・・
こういった質問は当たり前のように出てくる.そこで私は常に日本地図を書くようにしている.私が会うのは数学者が多いので,たとえば次のように紹介する.

東京:東京ぐらいは知っているだろう.人口は1200万人ぐらいだが,周辺まで合わせるともっとだ
京都:1990年に国際数学者会議が行われたところで,日本の古い都だ.
奈良:京都の近くのこの辺だ.かの有名な岡潔先生はここで多くの仕事をされた.
大阪:2番目に大きい都市.そしてここが神戸.地震のことを知っているか?
福岡:朝鮮半島に近いので,大昔はここが大陸との接点になった.
仙台:お前,仙台という都市の名前は聞いたことがないだろう.だが Tohoku Mathematical Journal は知っているだろう.東北大学はここだ
札幌:ここが札幌.

と言う具合だ.たまには長野オリンピックや札幌オリンピックを知っている人もある.もちろん名古屋や新潟や・・・となるのだが,その上でここに岡山があって,新幹線がこう通っている富士山はこの辺にあって,というと,またその話で充分盛り上がる.この辺にはこう山が通っていて,こちら側とこちら側ではこの位気候が違って,という話になると,また違う話が出来る.すなわち,日本には四季がある,夏の暑さはどう見ても熱帯(Tropical)だが,冬は多くのところで雪が降る.夏には台風(Typhoon)がこんな調子でやってくる.さらに緯度がという話をしてみよう.ヨーロッパ人には,スペインやイタリアと緯度を比べてみよう.アメリカはNYとフロリダという具合に,自分の国の中に全く違う地域が同居しているので,彼らこの話はあまり面白くないようだ.

こういうことは最低限の常識である.とりあえず話につまっても,逆に相手の国について同じような質問してやればいいのだ.お互いに違うところにいるから面白い.違う話を聞くのが面白い.しかしこれは同時に,自分自身をよく知る必要があると言うことなのだ.諸君は日本地図が書けるだろうか.そしてその気候や地理について説明できるだろうか.ちなみに英語の問題ではない.日本語でもいい.説明できるかが問題だ.説明に使う英語は易しいものだけで十分だ.

(むかし書いたサイトの内容に加筆)

語学留学って役に立つの? [英語を勉強する?]

芸能人なんかで「語学留学に行きます」なんて言いながら表舞台から隠れる人がいる。
一見格好いいとは思うのだが,よく考えてみると何をしに行くんだろうか。

一昔前,どこかで読んだ話で全くのうろ覚えなのだが,こういう人がたくさんいたそうだ.

「語学留学」でロンドンに来ては見たものの,語学学校もそう大したことはないし,ある程度英語が話せるようになったところでイギリスには職があるわけではない.東洋からふらっとやってきた,特に手に職があるわけでもない日本人に働き口などあるはずがない.運良くあったとしても「そんな仕事は私たちのようなインテリのする仕事じゃない」と蹴ってしまうのだという.さらにもっとひどいのは,その外国で結局日本人同士仲良くなって,日本人のソサイエティにどっぷり浸かって,日本の悪口ばかりを言い合うようになる

という話である.

もちろんみんながみんなそうだとは思わないのだが,言葉がしゃべれるようになったところで何が意味があるのだろうか.

たとえば貿易関係の仕事をするとしよう.相手は英語だ.だからこちらも英語を話せなければ・・・それはそうである.こちらが話せなければどうしようもない.直接膝詰めの交渉をするときに言葉が通じなければどうしようもない.

だが英語が話せればいいのだろうか.つまり

 英語が話せれば充分 なのか 英語が話せることは最低限必要なのか

である.もう英語が話せればそれだけでスターになれる時代はとっくの昔に終わった.
それは昭和30年代までだろう.だから,敢えて問いたい.
たとえば英語を勉強するためにそれだけのために1年も2年もの時間をかけられるのか?
若い人にとってそれだけの時間を外国で過ごすことはいい経験になることは認めるが,英語だけを学ぶのにそれだけ費やすのか?

私は言いたい.語学をメインに学ぶために安易に外国に行くのはおすすめしない。結局何も残らないことの方が多い.むしろ,

 これを学びに行くんだ,そしてそれは英語でだ

というのなら大いにわかる.そして他の項目でも述べるが,そういうつもりで行けば,言葉も身に付く.
しかし語学を目的として何年も過ごすことは決して有意義なこととは思えない.

さらに問いたい.その費用は誰が出すんだろうか。

(昔Webで書いたものに加筆)

この記事がお気に召していただけたら,このバナーをクリックして下さい。

英語 ブログランキングへ

高校まで何を勉強してきたんだろう [英語を勉強する?]

自分の不出来な学生時代がどうであったのか思い出せないので,話は我々大学教員がもっとも言ってはならない

今どきの若い者はなってない[むかっ(怒り)]


レベルの話に成り下がってしまう可能性が大であることを先にお断りしておく。

それでも言いたい。「英語」の期末試験の採点をしていて,信じられないケースがあまりにも多く見受けられた。たとえて言うなら

 nation national  nationally

の意味が違うことを知らないということ。

大嫌いであるが,強引に訳語を1つずつ当てるならば

 国家 国家の 国家的に

とでもなるのだろうか (国家じゃない,国民だろ みたいな議論についてはここでは立ち入らない)。

言いたいことはこれらが

 名詞 形容詞 副詞

であることが理解できていないということである。

個人的な意見だが,これらのうち最初に知るのは national だろうか。でもすぐに nation に行き当たるだろう。しかし一見同じような言葉であっても,文中の役割が全く違うのだから,トータルで意味するところは全く違ってしまう。高校で言うような表現を使うなら

 「形容詞は名詞を修飾するもの」 「副詞は形容詞や他の副詞を修飾するもの」 

 「名詞に-al などの語尾をつけると形容詞化する」 「形容詞に -ly などの語尾をつけると副詞化する」

ていうところか。こんなことがわかっていない答案があまりにも多すぎる。


  これは大学で教えること?


高校で英文法ってのがあると思うけれど,難しいことを言う前にこの程度のことをきちんとしてくれないと。

大学入試センター試験に英語ってあるよね。この程度の差異がわからなくても大丈夫なの?

高校の英語教師諸君。 一体何をしているのかね? 



愚痴っぽいこんなことを書いていたんだなとおもうと情けないのだが,共感して下さったらこちらをポチッと。

英語 ブログランキングへ
前の10件 | 次の10件 英語を勉強する? ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。