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大学教師の仕事 [教育について]

ここでいうのは大学「教授」の仕事ではない。大学「教師」の仕事だ。つまり研究については含まない。



http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20130618/249835/?top_updt




コーチングの定義
「対話を重ねることを通して、クライアントが目標達成に必要なスキル、知識、考え方を備え、行動することを支援し、成果を出させるプロセス」

「間違い」の持つ豊かさ [教育について]

学生のゼミ,大学院の講義などは当然対話形式になる。ゼミは学生が黒板の前に立ち,講義はこちらが黒板の前に立つが,その中で対話をしながら話は進行する。

どちらも出来上がった内容(テキスト)を講ずることが多いわけで,「正しい」ことを羅列すればそれで叱られることはない。

だがそれでいいのだろうか。

学生が勘違いすることもある。言葉面では正しいことを言っていても,実感として思っていることが違っているケースもある。多くの場合それはその場では見過ごされるが,後々悪い影響が出てくることがある。

昔,ある中学生が「割り算が分からない」というのでよくよく調べてみたら,3÷2=0.666666・・・・ だと思っていた,という話を読んだことがある。

最初に勉強したときには×がついたのだろうけれど,それがそのままで長年放置されていたケース。そして自信を失い,嫌いになり,心の中に暗部を構成する。

どうしても話は「正しいこと」を教えようとする傾向にある。それが要らないなどと言う気はもちろんないが,その中で起きるちょっとした齟齬や誤解をそれこそ「スルー」しているケースが多いのではないか。

このところ,学生の間違い・誤解を元に議論を始めて議論が発展するケースが続いた。間違いは間違いでも、それを活かしてその当人のみならずみんなが理解を深める機会になるならば,それは豊かなものである。

だから学習者は自ら発信すべきだ。そして間違えてもそれを元にさらに深い理解へ向かおうとする姿勢が大切なのだ。

ICTではそんなことはできない。なぜなら間違いの可能性は無数にあるからだ。

教師の任務はそこにある。


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背伸びさせようぜ [教育について]

今日は (× ムカつく ◎敬愛する) 林 創 氏がひょっこり訪ねてくれた。

氏は (△ Sぶかわなんていう飲んだくれがいる岡山に見切りをつけて ◎ その高い力を買われて)今春神戸大学発達科学部に異動されたのだが,出張のついでにわざわざ立ち寄ってくれたのだ。新しい環境でまたこれまで以上に活躍を始められたようで,その様子などをお話下さった。少しお疲れのようにも見えたが,相変わらずの美男子・ナイスガイである。

さてそんな活躍の一端で,件の我が方にて引き続き奮闘してくれている同僚・山田剛史氏との(× ムカつく ◎素晴らしい)共著について面白い話しを聞かせてくれた。


大学生のためのリサーチリテラシー入門: 研究のための8つの力

大学生のためのリサーチリテラシー入門: 研究のための8つの力

  • 作者: 山田 剛史
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2011/05/30
  • メディア: 単行本



ある中等教育学校で,この本を指南書にして生徒たちに「卒業研究」をさせているのだという。それも最終学年だけではなく,その前2年以上にわたって。

この本は当世の大学生諸君を意識してとても読みやすく書かれているのだが,あくまでも大学生向けである。それを中高生に読ませようというのは,本当に英断である。

若者はどんどん背伸びをさせなくては。そして到達目標を高く保たなくては発展はない。最近言われている「さとり世代」では困るのだ。

久しぶりにいい話を聞いた。





是非この書籍を読んでほしいと思いますが、ついでにこちらもぽちっと。

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これもスルーするんだろうなぁ [教育について]

こんな記事を見た。

日経ビジネスオンライン 2013年5月2日(木)
横田 尚哉 「明日の決定学」
“分からないこと”をすぐ調べると結果的にソンをする
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130424/247191/

今の若者がすでにこう言われているわけです。

私が(算数・数学教育の立場から)ICT導入に強く反対するのはまさにこの理由。

残念ながら「すぐにググる」習慣が付いている人にこういうことを言っても,「考える」習慣を身につけるのはムリでしょう。若い頃から「疑ってかかる」「自分の知識に引きつけて比較してみる」という習慣をつけることが学校教育の責務だと思っています。

それが付いていないのにICTなどを使ってどんな情報を入れてもダメ。

たぶん,浮かれたテレビタレントさんはこんな記事を読んでもスルーするだろうし,そもそも読まないだろうな。読んでも「わかんない」で片付けるだろう。

そして妄言だらけと思っている私のサイトなど見にも来ないだろうけれど,反論してみな,このコラムに。



ちなみに私の言葉遣いからすると,このコラムにある「論理的問題解決に必要な「考える」」という表現には違和感があるのですけれど,まあそれは本質ではないので。

スルーを受けて [教育について]

せっかく中村伊知哉氏の挑発に乗ったのですが,認知したという連絡を最後に何も反応がないところをみると,どうもスルーされたようです。



この状況をみて2つの可能性を思いました。前の私の記事は,まだ「てにをは」は不完全なれど,議論としては十分なものだと思ってあげたつもりです。それがスルーされてしまったということは、


○ もっとはるかに立派な議論があって,それをすでに論破しているわけで,こんな田舎大学の3流教授の意見などに取り合っている場合ではないと判断された

○ あちこちでいろいろなレベルの人と議論した結果,この手の議論に辟易して,私の記事をまともに読む気になれなかった


前者なら,私もそんな立派な議論をされた方にお会いして教えを受けたいものです。

後者なら,中村氏もお忙しくて大変だなぁと思います。


さてそうは言っても,こちらも一応言い始めてしまったので,言い尽くして終わろうと思います。そこでもう一度中村氏の10の質問を読み返してみたのですが,大半は「無罪を主張するなら自分でやれ,と検察に言われているような類」の質問で,答えるのが難しく,またあまり意味がないと思います。ここでは一応議論になりそうな2つについて検討してみたいと思います。


4 デジタルを導入すると画一的な○×学習になるという指摘について、ネット授業は世界中の多様な考えの人たちと一つではない答えを教え合い学び合うことができるが、それに比べ紙のドリル学習のほうが画一的でないとする理由を教えてもらえませんか? つまり、問題はデジタルかアナログではなく、授業の内容だと思いますがいかがですか?
これも大変残念な質問の展開の仕方だと思います。すなわち,私が主張していることの根幹は,数学の世界に限定しますが,デジタル導入が悪いのではなく,ドリル学習がメインでそれ以外のところへ発展する力を奪うような状況を問題視しているのです。デジタル導入をしてもドリル学習のようなことしかできないと思います。そこにインセンティブがつくことは一見悪くないように思えるが,実はそこから先の発展を阻害してしまうのです。現状でも(紙の)ドリル学習の弊害が出ているわけで,そこについても改善すべきだと日々努力しています。少なくとも自分が係ることができる中等教育に対しては,このことを強調しています。それでも前稿で述べたように,大学入試センター試験がこれを阻害している。この状況で「ドリル的な」部分にさらにインセンティブをつけてしまうと,今の状況よりさらに悪くなる,次の段階へ進みにくくなる,と主張しているのです。




5 デジタルを導入すると読まなくなる・書かなくなるという指摘について、アナログ授業でも書かせなければかかないし、デジタル授業でも書かせれば書くし、つまり、問題はデジタルかアナログではなく、授業の内容だと思いますがいかがですか?
この質問も残念な形だと思います。私だけではないと思っているのですが,「ゲーム的理解」を中心に据えている学生たちに対して「書かせる」教育を施そうと日夜努力し,年々改良を加えながらも苦闘しているのが大学教育の現状です。大学では何も教えない,大学に行っても意味はない,大学教育には期待しないなどと言われていますが,自分は相当やっているつもりです。しかしそれに対して今以上に逆向きの力がかかるとなれば,待ったをかけざるを得ない。デジタル機器を用いた授業で書かせることはこれまでも現在もやっています。自分の頭で考えるような課題をだす。しかし彼らはコピペで済まないものはやろうとしない。面倒だと逃げてしまう。彼らのものの考え方が,大きなスパンで論理を展開するようなこと,議論を積み重ねることなどからさらに遠ざかる。このことが問題なのです。毎年内容も方法論も苦労して変えています。しかしいくら授業の内容を工夫しても,受ける側がそれ以上に変わってしまってはどうしようもない。100m走に例えるなら,今はスタートから5mのところに高さ50㎝の土塁が築かれ,それが溶けたゴムでおおわれているような状況を何とか乗り越えて,13秒ぐらいかかってゴールしている感じ。その土塁の高さが3mとなり,しかも撒き菱が散乱しているような状態になって,それでもプロなんだろ,それで給料もらってるんだから10秒以内で走れと言われても,それは無理というものです。唯一この手のことが成功しているのは,対面で行うゼミナール形式だけです。




それから最後に

番外 要するに、デジタル教育はやめたほうがいいんですか? どうすればいいんですか? 推進する首長たちは、リスクを取り、コストを払い、説明も怠りません。一方、反対派は体を張ってでも止めるべきだと思いますが、そんな話は聞きませんよね? ごめんなさい、答えにくいかもしれないので、問いを変えます。デジタル教育をしないほうがいいとしている手本となる国があれば、教えていただけませんか? あの国ぐらい?
とありました。ずいぶんお疲れなんだなと思います。こういう締め方をなさるのはいかがかと思います。私はどうも理解できません。「リスクを取り」とありますが,何に対してどうリスクをとり,コストを払っているのでしょう。まさか選挙とかいう話じゃないですよね。未来の社会に対する責任が問題なのに,誰のどんなリスクなのか,どういうコストなのか,全く理解できません。体を張ってでも止めに出ているつもりですよ。



現状ではデジタル教育はやめた方がいいと思います。若者たちに欠けている「自分の頭で考えること」に対するトレーニングを,その3倍ぐらい課すようでないと,つり合いは取れません。いくら

世界と瞬時につながり、映像も音楽も利用・生産できるなど、デジタルにしかできない効用がある
としても,それを受け取っただけ,消費するだけの人間を増やすことが社会全体の力を上げることになるのでしょうか。一部の人間が金儲けをするだけのことではありませんか。



一方で、考える力を十分に蓄えた人であれば,デジタル機器はどんどん使うべきだと思います。私自身も先日,J.S.Bachの「フーガの技法」のバッハの直筆譜をネット上で探し,演奏について根本から考え直すような経験をしたばかりですし,使いようがたくさんあることはよくわかっている。しかしそのためには先に自分の頭で物事を考えるトレーニングがいる。そのトレーニングの段階ではむしろデジタル機器は使わせないべきです。高校生ぐらいまではそういうトレーニングに掛ける。高卒・大学生レベルになったら,むしろどんどん使わせる。もちろん私は自分の周辺ではそれもやっています。


本ブログでも何度か取り上げた,クリフォード・ストール博士も同じような主張をしておられるとおもいます。どうなのでしょうか。


まあいずれにせよ,この主張もスルーされてしまうのだろうと思います。でも蟷螂の斧はおれません。


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挑発に乗ってみよう [教育について]

中村伊知哉氏のツイート
「デジタル教育反対派への10の質問」をネットに掲げても何の回答も反論もないな、そうか、考えてみれば反対派はネット読んでないか。 http://bit.ly/16aYZp4
https://twitter.com/ichiyanakamura/status/318519112689143808
の挑発に乗ってみたいと思います。見もせずに反対するような人たちと一緒にされても困るので。

中村伊知哉氏のブログ http://ichiyanakamura.blogspot.jp/2013/03/10.html にある彼の指摘のほとんどについて,それは正しいと私も思います。私も大方賛成できる。反論するのは難しいし,意味が無い。

しかしこの質問はいただけない。
3 デジタルがもたらすゲーム的なわかりやすさは思考力などと無関係ではという指摘について、では勉強へのインセンティブを高める点で何が問題なのか、インセンティブを高めることに関するアナログの優位性は何なのかを教えてもらえませんか?
大変残念なことですが、違う質問にすり替えています。このすり替えたところに唯一の,しかし最大の問題があると私は主張しています。

私が常々言っていることは,
デジタル機器を介して情報を得ることにメリットはあるにせよ,それを用いて考える能力を伸ばすためにマイナスになる
ということです。ゲーム的にわかりやすい問題についてはそれが出来たことを評価されることでインセンティブが上がるのです。そこまではその通り。しかしそれだけでいいのでしょうか。その先には得られた情報を用いて考え,さらに新しいものを生み出す姿勢を身につけることが必要です。しかし残念ながらその間には大きなギャップがある。彼らは「ここまでできたんだからいいじゃん」となってしまう。ゲーム的に理解出来ることが膨らめば膨らむほど「それでいいじゃん」になってしまう。ゲーム的に理解出来ることへのインセンティブは高くとも,それ以外は「そこまで点が取れたんだからいいじゃん」になってしまう。

これは根拠のない杞憂とは思えません。いい例が大学入試です。大学入試センター試験は脅威です。あれは中身は易しいが問題量が多く時間的にきついので,ゲーム的な理解で進めることが戦略として比較的適しています。今の高校教育は「まずセンターの点を取れ」です。だから彼らはすでに「ゲーム的な理解」に気持ちが行っている。実情を知らない人は「だったら個別学力試験で記述式の問題を出せばいいじゃん」と言います。しかしセンター試験のもたらす威力は,記述式試験において「受験者のほぼ全員が白紙」というような状況を生み出しています。すると差がつけられず,入試としての意味が無くなる。結局センター試験で高得点を取ったものが勝つことになります。だから個別学力試験に「いい問題」を出しても意味が無くなるのです。正に悪貨が良貨を駆逐している状態。

近いところでもうすこし別の言い方をしてみましょう。昨今の中高生は数学の勉強をするときに教科書や授業ノートを見ない。もちろん授業の質が低いという問題はあって,そこは地道に解消を図っているので,そこはいくらつつかれても構いません。で,彼らはまず問題集を開ける。そこには大抵「基本のまとめ」とかいう「公式や易しいパターン」を羅列した項目がついています。彼らはそこだけを読んでそれを当てはめて計算し丸をもらう。試験でもそれで対応できる部分で何とか点が取れる。それを彼らは「基本はわかっている」と思ってしまう。もちろんその段階で不快に思って諦めてしまう(これは決しておかしなことではない)生徒もたくさんいるわけですが,彼らはそこまで出来ても
基本はわかるんだけど,応用力がない
と思っているわけです。そういう生徒を個別に指導してみるとわかることですが,実は本当の意味の「基礎」がわかっていない。「基本問題」と書かれたもので得点できても基礎がわかっているわけではないから,応用しようがない。「応用力」という言葉で彼らは表現するけれど,実は基礎がわかっていないのです。だいたい大学入試程度のことで,本当に「応用」することなんかあるわけがないのだし。

また他の例も出してみましょう。元々は本学の教養部廃止に伴い,教養の語学の教員が減ったせいでその担当が回ってきたのですが,この英語が出来ない私が1年生に「英語」の授業をしている。彼らの大半はどんな文章でも全部単語を辞書で引いて,大抵その一番最初にある訳語を抜き出し,それを並べて「訳して」みる。そこから内容を考えようとする。しかしそれは無理です。なぜならその「訳」が間違っているから。しかし彼らは辞書を引いた=情報を得ただけで,その情報を吟味しようとしない。その習慣は高校以下の英語教育に問題があるわけですが,「情報を得ただけで満足してしまう」状況にある彼らの姿勢を,「内容を考える・吟味する」姿勢に変えるには大きな障害がある。3年生になってゼミに配属された学生たちにはつきっきりで厳しく指導しますし,ある程度覚悟して入ってくるので時間は掛かっても形になりますが,それは特殊なケース。ほとんどの学生はそのまま卒業です。情報リテラシーの議論だというなら,どうぞ教育して下さい。私は情報関係の科目も担当しているけれど,そう思っている彼らの姿勢を変えさせるのは容易ではないです。私の能力が低いというのはもちろんわかっていますが。

これらは一見ICT導入とは関係ない話ですが,構図は同じです。こういう現状と対比したとき,ICT導入でゲーム的に「わかる」ものについてはインセンティブが働いても,そこで止まってしまう,その先に進もうとしないと言わざるを得ない。だから害になると主張しているのです。

だったら新しい別のインセンティブを提示すればいいじゃん,ということなります。他の分野のことは言えませんが,少なくとも数学においてはこれまで2千年もの歴史を経て研ぎ澄まされたものなので,新しいインセンティブなど起こしようがありません。

私は決してICTを使ったことがないわけではありません。ずいぶん昔ですが,米国TI社の「グラフ電卓」を用いた数学教育について,従来型の内容ではダメだから,新しいものを考えなくてはいけないと思い,いくつか論文も書きました。またiPadが発売されたときには即購入して,米国の算数関係のソフトを結構たくさん買って使って見ました。しかし私の危惧を打破してくれるものは残念ながら見当たらず,むしろこの危惧を増大させるものだけでした。

お前が能力がないだけだろう,というならそれでも結構です。世の中には私などよりはるかに立派な方がたくさんおられるわけですから,是非私の言い分などぶちこわしていただきたい。

このことは,機会をいただいて拙稿 「算数・数学教育とICTの不適合性」(コンピュータ&エデュケーション vol.33 pp22-27) にも書かせてもらいました。文章がひどいので恥ずかしいですが,私がそこで主張していることに対する中村氏の反論をぜひ聞きたいと思います。

近隣の県立高校のケース。パワーポイントなどを使ってきれいにプレゼンすることは出来る。しかしその見た目は良くても,もっと大事なこと,エートス・やパッション・ロゴスはいい加減です。世間では割合高く評価されているその高校ですが,表面を繕うことに一生懸命。入学してきたあと本質の話をしようとしてもついて来られない。そういう先行例もみています。

中村氏は我が母校・慶應義塾の教員なわけで,実は私は彼の所属するSFCには行ったことがないのですが,まあ慶應義塾ならばこんな心配はいらないのかも知れません。慶應義塾は,私のような「内部出身のバカ」が受験勉強に毒された周りを上手く感化していい状況を作っていますが(と自負しているわけですが)、一般の学校ではそうは行きません。世間の評価はそれほど低くない国立大学で学生の相手をしていてもこのように思うのです。

中村氏はこのブログ記事の冒頭で
やるかやらないかの議論を続けているのは日本だけだという揶揄を海外から受けておりますが
と述べています。しかし諸外国,たとえばアメリカではこのサイトなどに書いてあるように,情報を得た後,どう考え,どうコミュニケーションを取って行くか,そしてその延長で新しいものを考えようとすることを小さい頃から教え,鍛えています。残念ながら日本ではそうなっていない。こういう状況でICTの全面導入をするならば,さらに考えない,コミュ障・ボキャ貧の若者を作り出すだけです。それともまたお抱え外国人を大量に雇って,全国の学校に配置して,パックンがしてくれたようにハーバード仕込みの教育をお願いしますか?

中村氏は書いています。
ぼくはメリット99:デメリット1と見ているので
この数値の意味がよくわかりませんが,私が危惧している方向に進んでしまったら,その「1」が「99」を飲み込んでしまう。バラ色の未来を語るのは大いに結構ですが,この「1」が問題なのです。

ぜひ,私のこの不安を解消して欲しいと思います。この不安を解消してくれるのなら,喜んで「反対」の旗を降ろし,「賛成・推進」の旗を揚げます。

長文になりました。おつきあいいただいた方,ありがとうございます。そして識者の皆さん,どうぞよろしくお願いします。






ご賛同くださる方は、どうぞこちらにもぽちっと。

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本質は何だろう [教育について]

2つの記事を読んだ。

“教育のデジタル化”が目的ではない -- ベネッセ「進研ゼミ」が考えるタブレット端末の意義とは japan.internet.com 編集部 2013.3.28

何のためにICTを整備し、活用するのか?! CHIeru.WebMagazine 2013.3.28

本ブログにおいて,またその他の多くの場面で算数・数学教育へのICTの導入に異議を唱えているのだが,その本質がこれである。



モノや技術の進化に惑わされず、教育の"原点"に立とう!
 ICTと聞くと、テクノロジーの進化に乗り遅れずについていくことが良きことと考える風潮があります。しかし、もっと足元を見ましょう。道具や技術に振り回されないようにしましょう。
日本の教室で行われてきた授業や指導は、多少の変化はあったものの、その根幹は百数十年にわたって不変です。ここに、日本の教育の"原点"があると私は考えます。「古いモノはダメだ」と批判する人もいますが、昔から変わらない伝統には、必ず良さがあるはず。良さがあるからこそ、時代の変化の荒波にも負けず、受け継がれてきたのです。研修で伝え、学び合ってほしい授業づくりのノウハウや指導技術も、日本の教育の"原点"と言えるでしょう。
新しいICT やテクノロジーは、これからもどんどん教育現場に入ってくるでしょう。しかし、"原点"を見失わないようにしてほしい。"原点"さえしっかりとおさえておけば、どのような新しいICTが入ってこようとも、子どもたちの力を伸ばせるICT活用を行えます。便利なICTを使いながらも、"原点"にしっかりと立脚した教育を行ってほしいと思います。
(CHIeru.WebMagazineの記事より)

このことがきちんとわかると,「ここではICTを使わない」という判断を教師が出来るようになります。しかし「算数・数学とは公式を覚えて答えを出すものだ」と思い込んでいる親・教師が多数を占めるこの世の中では,子どももそういう価値観になってしまい,結局「ICTを使わない」という判断は出来ないのです。

一部の優秀な教師,例を挙げるのは失礼ですが,(我が岡山大学が輩出した)陰山英男・立命館大学教授のような人ならば心配ないとしても,世の中そんな優秀な人ばかりではない。

先日遊びに来てくれた卒業生が語ってくれました。その人はある私立の高校に教えに行っている。そこでの数学の授業は,教師は座ったままで生徒に何か問題集のようなものをひたすら解かせていて,それで授業が終わりだという。その卒業生は,カウンセリングの力をつけて生徒に寄り添うために仕事をしようとしていたのに,最初の紹介で「この先生が大学受験のテクニックを教えてくれます」だとか。

学問の本質はおろか,大学入試でさえもわかっていない。考えることは楽をすることだけ。こんな教員がずらり並んでいるこんな学校が他にもたくさんあるとは思いたくないですがどうなんでしょう。

本質をちゃんと理解して仕事が出来る人は多くないのです。そうあるべきだとは思いますが,多くないのです。だったらシステムとして良いものを出すべきである。

誰か私のこの疑問を打ち破って欲しい。



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お前が自分探しかよ [教育について]

このところ、東大が推薦入試?のようなことをすると発表したことについて賛否がいろいろと出ている。

最初は「学校長推薦+センター試験」で判定するというような話だったような気がするが,すぐに「受験生一人に何時間もかけて、その適性をみる」というような話が出ている。

それに対して「数時間の面接で本当にその受験生の能力を見ることができるのか?」という反論なども出ているのだが、どの意見もあまりに現実を見ていないと思う。

その中で本質を突いた意見だなと思ったのが、ジャーナリストのふるまいよしこ氏の意見である。
導入するべき。つか、筆記入試の点数で入学した東大生って、「質の低下」を心配するほど質いいすか? 推薦入試で毛色の変わった(髪の毛の色じゃないよ)人が入ってかき回せば、東大生も優秀になれるんじゃね?
ちょっと斜に構えすぎている感じもするのだが、実態はこれだろう。

そして私の言い方からすると「高校以下の教育の現状を見ると、質の高い若者を輩出していないから入試制度をいじったからといっていい学生をとれるわけがない」。
いない者を採れるわけがない
のである。

昨今よく聞く、そして批判の対象になっている「自分探しをする若者」。本当の自分がどこかにいるはずだ、それを探す途中なんだ、と言っていろいろなことを先送りにしてしまう若者たち。

東大が考えているのもそれである。
どこかにいい学生がいるはずだ。


お前が自分探しかよ。我が国の「最高学府」と言われている東大がそれ?

いやいや、教育関係者としてはこんな批判だけではだめだ。だからいつもの説だが対案を出そう。

今の若者が問題視されているのは、
言われたことだけを最低限の努力でとりあえずこなす
という姿勢である。だから当然イノヴェーションなど起きるわけもない。外国に出かけてやろうなどという意気があるものはごく少数だ。その理由は?

それは簡単だ。問題は大学入試センター試験である。

先日、茂木健一郎氏あたりがセンター試験の現代国語の試験について何か言っていたが、それはそもそも現代国語という科目に対する批判。センター試験でなくてもほぼすべての教育・試験・入試がそうなっている。本当は、先頃話題になった灘高校伝説の国語教師橋本武氏のようにできれば一番いいのだが、残念ながらそれはごく一部の優秀な教師と目の前の結果を追わない自由な校風がさせることであって、そういうのを声高に言う人たちの話は聞きたくない。

だが他の科目においてもセンター試験の問題点は顕著になって来ている。すなわち
いわゆる文系科目では、マーカーペン&緑下敷きが使い物になるような試験であり、自分でストーリーとして理解するようなことをさせない。

いわゆる理系科目では、公式・パターンを丸暗記させてそれに当てはめて計算して答えを出すことを、しかもものすごいスピードでさせる。

というような試験である。進学者が多い高校の教員に聞くと「まずはセンターで点を取れ」である。高校1年からこれをさせている。ちゃんと自分の頭でものを考えようとしている生徒をやんわりとしかし点数という縛りで厳しく否定し「センターで点が取れるように」仕込むのが進学校である

だから東大が小手先の入試改革をしても、センター試験を課している限りこの現状は変わらない。従って絶対に「いい学生」を採ることはできない。いないんだから

東大は日本の入試(教育)の頂点にいるのだから、いるはずの(実はいない)「いい学生」を探すのではなく、高校以下で「いい学生」をどんどん育てられるように教育の全体をリードしなくてはならない。ここまで見据えて入試制度を決めるべきなのに、そんな見識は全くないようだ。

お前が自分探しかよ。

虚しさでいっぱいである。


伝説の灘校教師が教える 一生役立つ 学ぶ力

伝説の灘校教師が教える 一生役立つ 学ぶ力

  • 作者: 橋本 武
  • 出版社/メーカー: 日本実業出版社
  • 発売日: 2012/01/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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MITに学べ [教育について]

そりゃあそうだろうよ。

池上 彰
MITが「学部では最先端なんて教えない」理由 ~米国トップ大学の教養教育事情 MIT編その1
日経ビジネスオンライン ・池上彰の「学問のススメ」2013.3.7
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20130227/244292/
を読んだ。

世界の技術の最先端を切り開いているMIT。いわゆる工学の単科大学なのだが,そこで教養教育を重視し,学部生には「最新の技術など教えない」というのだ。

当然のことである。特に工学でいえば,5年もすれば技術は陳腐化する。学部生にそんなことを教えても意味が無いのだ。それよりも5年後,10年後に新しい状況に対応する力をつけさせることこそが教育の役目である。

ところがこの発想は日本の教育,特に大学に非常に薄い。池上氏も述べているように,日本では教養教育を端折って専門を学ばせるように大学を作り直してしまった。「即戦力」という言葉が跋扈している。しかし
「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」 (小泉信三 元慶應義塾大学塾長・今上天皇の教育係の言葉)
のである。

私が教員養成6年制に反対しているのも実はそこにも関係する。

数年前から,京都大学数理解析研究所で行われている教員養成に関連して数学者が集まって研究しようというプロジェクト研究に顔を出している。同研究所講究録などを参照されたし。
1657 数学教師に必要な数学能力形成に関する研究
1711 数学教師に必要な数学能力に関する研究
ここに参加している数学者たちは,「教員養成を6年制にする」ことに概ね賛成である人が多い。その理由は,2年間余計に数学を勉強し,いわゆる修士レベルの数学を考えた経験が教員として役に立つというのである。

このことには全くもって100%賛成である。

ところが現在考えられている「教員養成6年制」はこれと正反対である。特に今言われているのは,その6年目には1年間学校現場に行って実習をしろというものである。その実習では教師と同じ仕事をしろという。無給で,しかも学費を払って。

つまり,給料をもらう身になれば「即戦力」であれというのがその発想である。

これには強く反対する。

なぜなら,教師は教師として務めながら自らも学び,成長する存在だからである。若い教師は物を知らなかったり,方法を知らなかったりするが,その分子どもたちに近い若さがある。他方,年配の教師は子どもとの距離は多少離れるかも知れないが,その分経験がある。だから一概にどちらがいいとは言えない,むしろ教員にはこうした多様性が必要なのだ。

先日,ある県立高校の学校評議員会に出席した。その学校では経験の浅い教員,まだ教員採用試験に合格していない期限付き講師が多いのだが,それらを育成していく取り組みをしているという。素晴らしい。それが重要なのだ。

一方,私を含む数学者たちが「教員養成6年制」に賛成するとすれば,それはMITと同じ発想,すなわち数学を教える上での「教養」に相当する部分を深めることの意義を感じているからである。

即戦力を促成栽培するための教員養成6年制には強く反対する。2年間余計に学問をさせるならば良い。深い教養に裏付けされたものを教育現場へ。

教員養成系大学/学部は教員就職率についてガミガミ言われているが、採用試験の面接の練習に秀でた学生を養成して合格率を上げればいいのか。それが教育の質の向上なのか?

落ち着いて考えて欲しい。

失われる20年 [教育について]

各地の公立小中学校で,土曜日に授業を行うという動きが盛んになって来た。当分「保護者参観日」のようなことや,学習発表会や運動会など特別活動などをメインに挙げるようだが,そのうち完全週6日制に戻るだろう。

これもそもそもの発想が間違いである。
学校教育のなかで週5日制にしていいことがあるとはなかなか思われない。欧米の状況をそのまま持ち込もうという発想が貧困であるし、週末の子どもたちに何をさせるかについての準備が不充分であったわけだ。単純に授業時間数が減り、昔は学校でさせていた計算練習や漢字の書き取りが宿題となった。それを充分にさせられる家庭なら何とかなるかも知れないが、そもそも勉強以外の躾の部分でさえきちんとできない家庭が大半であるのに、さらに足りない授業を埋めるような活動など出来るわけがない。おかげで学力格差の問題が顕在化してきた。苅谷剛彦の研究のようなことをしなくても、小学校の教師なら皆分かっているし、中学生になれば生徒でも分かっていることである。

しかしそれは当然ことだ。そもそも学校5日制は教育の場から出た話ではない。労働行政の一環として「子どもが休みになれば親も休みにするだろう」「教員・公務員を休みにすればそれが広まるだろう」という安易な発想から出た話である。教員に週休2日を取らせようとするのなら、本来は教員を増員し、教員には日曜ともう一日の休みを設定し、小学校で言えばその日は別の教員が授業をすればよい。実際現在でも、小学校の1つのクラスの授業を全て1人の教員がやっているわけではない(ところが多くなってきた)。だがそれには教員の増員が必要だ。結局金がないという話である。一応それでも小学校の教員は少しは休みが取れるかも知れない。しかし中学校以上では、土曜に授業がなくなってもそこに部活動が入ってくるため、結局休みがないことには変わりがないのだ。

私自身も日曜の他に週1日研究日のある高校に勤務していたが、その研究日を土曜に設定され、しかもその日は部活動の引率で毎週末競輪場通いだった。研究に時間を使うなど全くできなかったのである。

土曜に授業を行う方向に向いているもう一つの理由は「脱・ゆとり」である。「ゆとり教育」と言われた学習指導要領の下,子どもたちの学力が下がってきたと言われている。それを取り戻さなくてはならないということのようだ。こういうと驚かれると思うが、私は「ゆとり教育」の理念自体にはそれほど反対ではなかった。理想の形としては悪くない。詰め込み教育だけでなく,得た知識をどうやって活かしていくかまで考えさせることが、この成熟した社会において必要であるのは確かなのだ。しかし上手く行くわけはないと思っていた。なぜなら、そのシステム自体の成否は、現場の教員の力量に大きく負うものだったからである。

鳴り物入りで導入された「総合的な学習の時間」にしても,どこかの先行事例で「学校で田んぼを作り,稲作を行った」というのが報告されると、じゃあうちも田んぼを作ろうということになって、あちこちで稲作が行われたようだ。しかし何のために稲作を行うのかという根本的なところが分かっていなかったため、結局は単に作っただけ、餅つきをしただけということに終わってしまったところが多かったようである。

それじゃあということで始まったのが小学校への英語導入。英語教育の専門家は勢力拡大で喜ぶだろうが、それが本当に「国際人」を育てる教育なのか?という問いにきちんとした答えを聞いたことはない。

そんな状況の中、バブルの崩壊に端を発した日本経済の低迷は「失われた20年」「ロス・ジェネレーション」などというイヤな表現をされている。他の国々はそれぞれそこそこの回復をしているというのに、通常起こるべき経済循環が我が国だけには起きていない。その原因についての解説が色々と行われているが、確かにそのことにも思うところはある。

さて、前振りが長くなったがここからが本題。

今、日本の教育界は,後に「失われた20年」といわれるであろう方向へ踏み出している。それは何かというと
1.大学入試センター試験制度の堅持
2.教員養成6年制導入
である。

すでに本ブログにおいてはさんざん語り尽くしてきたことである。

センター試験は、最初の趣旨は「基本的な良問を」だったはずだが、その結果起きていることは、「自分の頭で考えない若者」の量産である。受験指導でいわれているのは「考えている時間は無い」ということだ。当初から危惧された「穴埋め丸暗記」の勉強が「センター試験向け」の勉強である。

教員養成6年制も、その根幹は「小中高で教えるのに学問は要らない」である。それが証拠に、4年間で教員養成を行っている現在でも、大学4年生に学校現場へ出向かせるようなことばかりさせている。コミュニケーション能力が低く、その職に不適格な新米教員が多数いることが確かだが、それは選抜段階で排除すればいいのであって、学問をする時間を削るべきではない。しかし前回の教育職員免許法の改定(改悪といいたい)により、改訂前と比べて学問は半分でよろしいと決めてしまったのだ。そしてさらに4年次には現場実習をせよと。そしてさらに6年制を導入して、ちゃらちゃらと現場で遊べることだけが求められるようになる。2年間余計に通っても、その間に学問をするわけではなく、現場に出ろというのだ。しかしその間、給料が出るわけでもなく、責任のある立場でもない。そんなことをしたら、タダでさえ学問レベルが下がっている教員がさらに学問をしない者で占められてしまう。

このことは、上記の「ゆとり教育」「学校週5日制」などと同様に早晩見直さなくてはならない日が来る。だがそのあいだに免許を取り、教員として就職した教師は定年までその低い学問レベルで過ごすのだ。どんな改革を上から塗り込もうとしても、彼らの定年までそれを改革することは出来ないし、一旦レベルの下がった学校現場のレベルを上げるにはさらに長い時間がかかる。

だから教育界においては、少なく見積もってこれから20年が「失われた」と称されることになるのは間違いない。

そして国が衰退するのを見届けて私は人生を全うすることになるのだろうと思う。

悲しい話しである。



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