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失われる20年 [教育について]

各地の公立小中学校で,土曜日に授業を行うという動きが盛んになって来た。当分「保護者参観日」のようなことや,学習発表会や運動会など特別活動などをメインに挙げるようだが,そのうち完全週6日制に戻るだろう。

これもそもそもの発想が間違いである。
学校教育のなかで週5日制にしていいことがあるとはなかなか思われない。欧米の状況をそのまま持ち込もうという発想が貧困であるし、週末の子どもたちに何をさせるかについての準備が不充分であったわけだ。単純に授業時間数が減り、昔は学校でさせていた計算練習や漢字の書き取りが宿題となった。それを充分にさせられる家庭なら何とかなるかも知れないが、そもそも勉強以外の躾の部分でさえきちんとできない家庭が大半であるのに、さらに足りない授業を埋めるような活動など出来るわけがない。おかげで学力格差の問題が顕在化してきた。苅谷剛彦の研究のようなことをしなくても、小学校の教師なら皆分かっているし、中学生になれば生徒でも分かっていることである。

しかしそれは当然ことだ。そもそも学校5日制は教育の場から出た話ではない。労働行政の一環として「子どもが休みになれば親も休みにするだろう」「教員・公務員を休みにすればそれが広まるだろう」という安易な発想から出た話である。教員に週休2日を取らせようとするのなら、本来は教員を増員し、教員には日曜ともう一日の休みを設定し、小学校で言えばその日は別の教員が授業をすればよい。実際現在でも、小学校の1つのクラスの授業を全て1人の教員がやっているわけではない(ところが多くなってきた)。だがそれには教員の増員が必要だ。結局金がないという話である。一応それでも小学校の教員は少しは休みが取れるかも知れない。しかし中学校以上では、土曜に授業がなくなってもそこに部活動が入ってくるため、結局休みがないことには変わりがないのだ。

私自身も日曜の他に週1日研究日のある高校に勤務していたが、その研究日を土曜に設定され、しかもその日は部活動の引率で毎週末競輪場通いだった。研究に時間を使うなど全くできなかったのである。

土曜に授業を行う方向に向いているもう一つの理由は「脱・ゆとり」である。「ゆとり教育」と言われた学習指導要領の下,子どもたちの学力が下がってきたと言われている。それを取り戻さなくてはならないということのようだ。こういうと驚かれると思うが、私は「ゆとり教育」の理念自体にはそれほど反対ではなかった。理想の形としては悪くない。詰め込み教育だけでなく,得た知識をどうやって活かしていくかまで考えさせることが、この成熟した社会において必要であるのは確かなのだ。しかし上手く行くわけはないと思っていた。なぜなら、そのシステム自体の成否は、現場の教員の力量に大きく負うものだったからである。

鳴り物入りで導入された「総合的な学習の時間」にしても,どこかの先行事例で「学校で田んぼを作り,稲作を行った」というのが報告されると、じゃあうちも田んぼを作ろうということになって、あちこちで稲作が行われたようだ。しかし何のために稲作を行うのかという根本的なところが分かっていなかったため、結局は単に作っただけ、餅つきをしただけということに終わってしまったところが多かったようである。

それじゃあということで始まったのが小学校への英語導入。英語教育の専門家は勢力拡大で喜ぶだろうが、それが本当に「国際人」を育てる教育なのか?という問いにきちんとした答えを聞いたことはない。

そんな状況の中、バブルの崩壊に端を発した日本経済の低迷は「失われた20年」「ロス・ジェネレーション」などというイヤな表現をされている。他の国々はそれぞれそこそこの回復をしているというのに、通常起こるべき経済循環が我が国だけには起きていない。その原因についての解説が色々と行われているが、確かにそのことにも思うところはある。

さて、前振りが長くなったがここからが本題。

今、日本の教育界は,後に「失われた20年」といわれるであろう方向へ踏み出している。それは何かというと
1.大学入試センター試験制度の堅持
2.教員養成6年制導入
である。

すでに本ブログにおいてはさんざん語り尽くしてきたことである。

センター試験は、最初の趣旨は「基本的な良問を」だったはずだが、その結果起きていることは、「自分の頭で考えない若者」の量産である。受験指導でいわれているのは「考えている時間は無い」ということだ。当初から危惧された「穴埋め丸暗記」の勉強が「センター試験向け」の勉強である。

教員養成6年制も、その根幹は「小中高で教えるのに学問は要らない」である。それが証拠に、4年間で教員養成を行っている現在でも、大学4年生に学校現場へ出向かせるようなことばかりさせている。コミュニケーション能力が低く、その職に不適格な新米教員が多数いることが確かだが、それは選抜段階で排除すればいいのであって、学問をする時間を削るべきではない。しかし前回の教育職員免許法の改定(改悪といいたい)により、改訂前と比べて学問は半分でよろしいと決めてしまったのだ。そしてさらに4年次には現場実習をせよと。そしてさらに6年制を導入して、ちゃらちゃらと現場で遊べることだけが求められるようになる。2年間余計に通っても、その間に学問をするわけではなく、現場に出ろというのだ。しかしその間、給料が出るわけでもなく、責任のある立場でもない。そんなことをしたら、タダでさえ学問レベルが下がっている教員がさらに学問をしない者で占められてしまう。

このことは、上記の「ゆとり教育」「学校週5日制」などと同様に早晩見直さなくてはならない日が来る。だがそのあいだに免許を取り、教員として就職した教師は定年までその低い学問レベルで過ごすのだ。どんな改革を上から塗り込もうとしても、彼らの定年までそれを改革することは出来ないし、一旦レベルの下がった学校現場のレベルを上げるにはさらに長い時間がかかる。

だから教育界においては、少なく見積もってこれから20年が「失われた」と称されることになるのは間違いない。

そして国が衰退するのを見届けて私は人生を全うすることになるのだろうと思う。

悲しい話しである。



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