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「間違い」の持つ豊かさ [教育について]

学生のゼミ,大学院の講義などは当然対話形式になる。ゼミは学生が黒板の前に立ち,講義はこちらが黒板の前に立つが,その中で対話をしながら話は進行する。

どちらも出来上がった内容(テキスト)を講ずることが多いわけで,「正しい」ことを羅列すればそれで叱られることはない。

だがそれでいいのだろうか。

学生が勘違いすることもある。言葉面では正しいことを言っていても,実感として思っていることが違っているケースもある。多くの場合それはその場では見過ごされるが,後々悪い影響が出てくることがある。

昔,ある中学生が「割り算が分からない」というのでよくよく調べてみたら,3÷2=0.666666・・・・ だと思っていた,という話を読んだことがある。

最初に勉強したときには×がついたのだろうけれど,それがそのままで長年放置されていたケース。そして自信を失い,嫌いになり,心の中に暗部を構成する。

どうしても話は「正しいこと」を教えようとする傾向にある。それが要らないなどと言う気はもちろんないが,その中で起きるちょっとした齟齬や誤解をそれこそ「スルー」しているケースが多いのではないか。

このところ,学生の間違い・誤解を元に議論を始めて議論が発展するケースが続いた。間違いは間違いでも、それを活かしてその当人のみならずみんなが理解を深める機会になるならば,それは豊かなものである。

だから学習者は自ら発信すべきだ。そして間違えてもそれを元にさらに深い理解へ向かおうとする姿勢が大切なのだ。

ICTではそんなことはできない。なぜなら間違いの可能性は無数にあるからだ。

教師の任務はそこにある。


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コメント 2

S.nagamine

今日の授業の出来事です。

「√3=1.732として、6/√3の値を求めなさい。」

「間違ってもいいから」と一言おいて、とりあえず挑戦させると…

・電卓がある生徒は単純に「6÷1・732」を電卓にさせて、エラーがおきたり、大量の数字が出てきて困るが、いまいち原因がわからない。

・電卓がない生徒は「6÷1.732」という割り算を筆算でやろうとしたときに、
「いや、待てよ。これは果てしなくややこしいことになりそうだ・…。怪しい!」
と感づいて別の手段を考える生徒が出てくる。

という状況になりました。笑

「『有理化する』のは教科書に書いてあるからじゃなくてさ…」っていうのを実体験できた良い時間だったなと思いました。
by S.nagamine (2013-06-17 17:19) 

sobu

>みね Facebookなら「いいね!」を付けたい。こういう風に教えてくれる先生に習う生徒たちは幸せです。
by sobu (2013-06-18 10:25) 

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