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ステージに上がってもらうこと [教育について]

この前読んだ記事について書きたいと思っていた。

日経ビジネスオンライン 2013年2月14日(木) 「オリンピック選手に体罰」が行われる謎を解く 甲野善紀×小田嶋隆 アウトサイダー対談
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20130212/243601/?P=1

甲野善紀氏は私でも名前を聞いたことがある,武道研究家である。

今回の「体罰」問題を取り上げての対談なのだが,氏の言う

柔道の指導者が体罰をするのは、「自分も叩かれて育ったから、叩くのが当たり前だと思っている」ということ以外にはないでしょうね。
一方で私は、「体罰禁止を法的にさらに厳しくしよう」という動きには反対です。大阪の高校で体罰による自殺があったということで、学校での体罰禁止を強化して、徹底的に取り締まろうという気配がありますが、そういうやり方がいいとは思えません。(中略)それ(体罰)を犯罪行為のように規定すると、たちの悪い生徒が、気の弱い先生を馬鹿にする、といった問題が今以上に起きかねない。

という議論が展開されているので,基本的な考えには全く異存はないのだが,
指導法うんぬん以前に、その技自体で周囲が指導者に対して尊敬の念を持つようになれば、体罰など自然に必要なくなりますよ。

となると,なかなか厳しい。すなわち武道では「勝負」がはっきり付く。

しかし我が方はこうは行かない。大学に入る段階で
数学って公式を暗記して計算して答えを出すだけのもの
と思っている学生は,大学受験で点が取れることが全てだと思っている。それでうんと点が取れる奴が医学部、そこそこ取れる奴が教師になるという発想。生徒として受けてきた授業を,教師の側がどういうつもりでやっているかには想いが至るわけがない。そこへ導こうと講義をしても、結局こちらの思う舞台には乗ってこない。だから彼らは大学で学ぶべき数学やそれを教える教師に対して尊敬の念など持つはずもない。必修科目で仕切られていない限り、ちょっと厳しいと思うとすぐに逃げてしまう。そんな学生をどうやって指導したらいいのだろう。

ちょうど今,研究室の4年生が明日の卒業研究発表会に向けてねじを巻いている。彼らは自分たちだけで何とかなるだろうと高をくくっていたが、いざ直前になってそれではどうしようもないことに気がついたのだ。しかしその段階では指導教員は出張でいない。前々から言っていたのだが,それでも動きが遅い。24時間以内に発表をしなくてはならないのに、自分たちでも納得が行かない。

さて,ギリギリになってセンセーにお呼び出しがかかった。別々の発表をする4名。内容については少し前に指導してある。制限時間に収まるかを測りながら私の前で試演。しかしいきなり途中で打ち切られる。酷い話だ。だが自分の状況がよくわかった彼らはセンセーの指導を本気で聞く。完全にこちらのステージに上がっている。だからセンセーの話をしっかり聞ける。これまでの経験も踏まえるので,1を言うと100ぐらい分かる。

信じられないことだが、今日のこの数時間で彼らはものすごく成長する。喜ばしいことだ。

1つ困るのは、毎年ギリギリにならないと彼らはステージに乗らないことだ。卒業論文の提出の日もギリギリだった。そして発表会も。論文提出は17時が〆切なのでいいが、卒業研究の発表会の前日は夕方以降に予定を入れられない。勘弁して欲しい(笑)。


考え方を変えさせること [教育について]

書きたいことは山ほどあるのだが、「忙しい」とかいう言葉が麻薬のように脳を蝕み、それを口にすれば世の中の全てに言い訳できるような気がしている。ひどい衰えだと思うし、これは周りに老害をまき散らしているんだろうなと一応反省するのだが、なかなか行動は伴わないままに一月は去ぬ(ゐぬ)。二月にまで「逃げられ」ないように、ここはエイヤッと書いてみる。

このところ、体罰の問題が話題になっている。人の意見を断片的にしか見ていないせいか、論点がぐちゃぐちゃで話にならないので、またSobu研的に整理してみようと思う。

○大阪市立桜宮高校で起きた事件の周辺
この件に付随していわれている問題点を2つ挙げる。

(1) そもそも論外なのは、スポーツにおいて「結果が悪かったから体罰だ」という構造である。
・結果が悪かったとして、選手がそれをどうでも良いと思っているのだろうか。もし選手たちがそう思っているのなら、そのモチベーションを上げるための方策がいる。最近はその必要性がある「運動部」も多いらしいから捨てていい話ではないが、指導者の暴力によって達成されるのはなかなか難しい。言い換えれば、指導の方法として不適切なのである。
・結果が悪くてそれでもいいと思っていないのだとすれば、いちいちそれを指摘する必要は無い。選手だってそのことをわかっているのだから必要なのは「ではどうすればいいか」という方策を授けることである。もちろん厳しいトレーニングを行うわけで、その辛さや問題を乗り越えるために精神的なパートナーが必要なことともある。マラソンの指導って何をするのかな?と思っていたが、小出義雄監督の指導の話しを読んで、また(地元・天満屋陸上部の)武富豊監督の講演を伺うチャンスがあって、その辺りがはっきりした。そこに暴力はあり得ないだろう。各所で指摘されている通り、「指導者」の自己満足を裏切るものだから、腹立ち紛れの暴力ということになる。

(2) 連帯責任という考えはいかがなものか。
最近は学校スポーツの現場で「連帯責任を取れ」という物言いが減ってきたように思う。いい傾向だ。数年前、甲子園出場チームの補欠選手が大会直前に地元の校外で何かワルさをしたということが話題になった。それでそのチームが出場辞退というのは、全く理屈に合わない話しだと思ったが、そんなことは無く大会は続けられた。私は古い考えの持ち主だが、連帯責任を「取れ」と「周りが」いうのは理不尽なことだと思う。一方でその集団の一員として「知らん顔する」というのは腑に落ちない。このことについてはちょうど読み始めた池田信夫・與那覇潤『「日本史」の終わり』(PHP)に宗教についての考察があって面白いのだが、そのことについてはまた改めて書きたい。だが「連帯責任を取れ」だの「お前が主将なんだから代表だ」などとして暴力の対象になるのは全く理不尽である。それは選手同士の人間関係を悪用した恐怖支配である。昔は若者にそういう理不尽に耐えるような経験を積み重ねさせてきたため何とか成立したのだろうが、それは長い歴史の中で見るとほんの一時のことであり、このようなやり方は本来上手く行く方がおかしい(池田・與那覇はこんな意味でも読む価値があると思う)。

○「そもそも体罰は」という問題
この件を契機に、「そもそも体罰は良くない」「法律で禁止されている」という議論がある。日本は刑罰に関しても死刑を除いて基本的に「教育刑主義」であり、「罪を犯しても教育によって矯正できる」という立場である。文明国家の一員として「因果応報主義」を廃した理想論は大事にしたいと思う。だが、「処罰」については「体罰」も含むものである。最近芸能人の若い女の子が丸刈りになった(させられた?)ことが話題になっているが、あれは処罰の一つの形態だ。もし自ら行ったのであれば「自らを罰したこと」を表に出そうというのだろうが、その周辺のことには立ち入らないことにする。だが学校という場はそもそも「教育の場」なのであって、「処罰」ではないはずだ。体罰は教育に必要ない、意味が無いというのは1に述べたようなことから見ても(それがスポーツであれ学問であれ一緒だ)取りあえずは議論の余地が内容に見える。

さてここからが本題。

私の仕事は教員を養成することである。具体的には
 ○小学校できちんと教えられること、特に算数を教えることが得意な教師
 ○中学校・高等学校できちんと数学を教えられる教師
がメインである。もちろん教師に求められる力はそれだけではなくて,児童・生徒に寄り添う力であったり,児童・生徒を取り巻く種々の環境(学校内外)を上手に構成する力であったりする。もちろんその点についても意識して学生を教育しているが、その点は教育現場におけるOJTの方が効果が高い。だから教員養成6年制に強く反対しているのだが、それについては別途述べているのでそちらに委ねよう(などなど)。ここで述べるのは「算数/数学を教えられるように」である。

残念ながら大学入試センター試験を頂点とする「受験体制」のおかげで、数学は

公式・パターンを覚え、それに当てはめて解くもの


という見方をする人が大半であり、大学に入学してくる学生は

自分は小学校の算数・中学校の数学ぐらいは簡単に解ける。あとは「教え方」だけ教えてくれれば教師が出来る


と思っている。これはひどい誤解であり、決してそんなことは無い。ちゃんと算数・数学を教えるとき、大学レベルの数学(難しい公式・定理そのものはもちろん要らないが)を学んでいるかどうかが大きく効いてくるのだ。我が研究室に来るような学生は(たとえじゃんけんに負けて仕方なく入って来たのだとしても)最終的にその必要性を理解するようになる。最初はそうは思っていなくいても、ゼミできちんと勉強した上で教育実習に臨むとこのことが実感できるようになるのだ。そうやって考え方を大きく転換させた学生は、力をつけて学校現場へ出て行くし、そこでも児童・生徒のために力を発揮し、周囲からも一目置かれるような存在になる。

彼らは自分たちの考え方に固執せず、より広い見方で教育を捉えられるようになったのだ。だがどの学生もそうなれるというものではない。

1年次生の科目(微積分学、実は実数論)においてこのことを徹底しようとしても、ほとんどの学生の耳には届かない。「お前の力が無いんだろ」と言って下さる方もあるのだが,批判はいいからそれを上手くやる方法を知らせて欲しい。勢い,彼らのものの見方の根幹まで入り込んでいって揺さぶるようなことが必要になってくる。だが講義という枠内でそれを行うのは至難である。「お前の力が無いんだろ」という人は、対処法をくれなくてもいいから全国的にみてその「発想転換」に成功している例を一つでもいいから見せて欲しい。残念ながら発想を「転換」するのは教員の側、教える内容の側であり、教員養成学部でε-δ論法を教えているところは激減、理学部数学科でも3年次になっても使えるようにならず、たとえばルベーグ積分論などについて行けない学生が大多数である。

もちろんかく言う曽布川自身も、偉そうに言う資格はない。大学3年の時、やはりε-δ論法が使えず、ルベーグ積分論の演習の時間にに何回も小テストをやってもらい、その後ゼミで使って議論をするようになってやっと身につけたものだ(そういう意味で本当にこの先生には感謝している)。だからこちらも手数はかけようと思うのだが、残念ながら学生諸君は
 ・ 単位は(くれる)安直に取れるもの
 ・ 曽布川は説教がうるさいから嫌い。ムカつくから取るのをやめちゃう
ということになっている。

確かに将来意味があるからといって,体幹筋トレを好きこのんでやる人は少ないことはわかる。だがこれを「楽しく」「面白く」教えることなど不可能である。そんな例はどこにも見当たらない。

体罰の話の一貫で、「大きな声でものをいう」「学生の持っているものを否定するような態度は良くない」と紋切り型の物言いをする人がたくさんいるが、ではどうやってこれを指導したらいいのだろうか。多くの教員養成系学部に習って、そんなものはやめてしまえというのだろうか。


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長いお話でありましたが,最後まで読んで下さりありがとうございました。ついでにこちらもポチッと。

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続・穴埋め式の罪 [教育について]

「文系の教育は信用しないとかバリバリ言っちゃってるけど、まあそういう例は枚挙にいとまがないっていう感じ。

前にも書いた、岡山県で最も優秀と言われている県立高校。

知人のうちに遊びに行ったらそこの息子さん、どうも成績が伸びないという。中でも気合いが入らないのが地理だとか。

で、学校の授業について聞いてみた。授業ノートを見せてもらったところ、毎回穴埋め問題の形式のプリントが配られてそれを埋めるそうだ。

お茶の生産の世界でのシェアランキング
 1.___ {答え:中国)
 2.___ (答え:インド)
 3.___ (答え:スリランカだったと思う)
 4.___ (答え:ケニア 3,4逆だったかな)
 5.トルコ

この表を埋める話だとか。それでも一応「丘陵地だから」とかなんだとか言っているんだそうだけど、そして言ってる内容だけを見るとまともな話をしているのかも知れないけれど、少なくともその生徒の聞き方はそうなってない。

重要なのは「なぜこのランキングなのか」である。原産国、適した気候、歴史的な経緯。日本国内との比較にも意味がある。そうやって考えることが社会科学なのに、「暗記」になっている。

一応そんな内容をしゃべっていたとしても、生徒にそんな「見方」を教えられないのなら一緒だ。知人の家にお茶を飲みに行っただけなのだが、かわいそうになってそんな「見方」について話してやった。どうみてもこれは「センター試験」の影響である。非常に困った話だ。こんなことで何がイノベーションだ。



文系の話は常に気になります。私の言い分に共感して下さったらこちらをポチッと。

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「文系」の指導の仕方 [教育について]

最近、教育界における「反動的」「守旧派」の論者の1人としてまつりあげられている気がする(爆笑)

本ブログをご覧いただければわかるとおり、曽布川は

○ 算数・数学へのICTの導入にひどく消極的
○ 教員養成6年制に強く反対

である。

今夏、突然その編集委員の先生からご連絡をいただいて寄稿させていただくことになった拙文が公になった。

算数・数学教育とICTの不適合性
コンピュータ&エデュケーション vol.33 pp.22--33  
特集「教育とコンピュータの適切な関係 -教育論と方法論から-」
抄録はこちらから

慌てて書いた部分もあり、自らの文章力のひどさには改めて愕然とするのだが、驚いたのはこの特集の記事紹介の文章である。編集委員である中村彰氏(秋田大)がこの特集の下にある5本の記事について紹介して下さっている。雑誌や学会の性格からみて拙稿は完全な「異端者」のもたらす論であるが、氏は議論があちこちに飛んでいる(謙遜ではなく)拙い文章を丁寧に読み、書いている私自身がしっかり認識していなかったような形で整理して下さっている。少々遠慮して表現を弱めて書いた部分についてこちらの想いとは違う解釈も見えるのだが、そのことも含めてこういう形で「対話」することには大きな意味を感じる。すなわちこのまとめによって自分の考えている内容が整理され、深まったのだ。

高校生になり、そろそろ進学に関連して「理系」「文系」の選択を迫られている長男と話しているときに言ったことなのだが、私は残念ながら日本の「文系」と言われる大学・学部にはあまり信頼を置いていない。陳腐な内容の一方通行のマスプロ教育を受けるだけであるならば社会に出て役に立つ力などつくはずがない。さらに言えば、もっと濃密であるべき「研究指導」に於いても、こうした「議論の深め方」を実際に付き合ってやってみせることが必要である。昔は単に「ほら、論文を書いてこい、見てやるから」といった調子の「指導」も多かったようだが、それは指導ではなく、論文提出の「場」を作るだけだ。

こう思っていたところで今般拝読した拙文に対する紹介記事は、自分に対する「文系的な論文の書き方の指導」というべきものであった。

改めて 秋田大医学系研究科・中村 彰氏、そしてこの機会を下さった 名古屋大情報学研究科・中村泰之氏に深く感謝を表したい。

自己肯定感 [教育について]

久々にいい記事を見た。

いじめ問題を説く園長先生 2006/12/10
<若草幼稚園(愛媛県松山市)流水(りゅうすい)龍也園長インタビュー>
http://janjan.voicejapan.org/area/0612/0612076027/1.php

記事自体は古いが、中身は全く古くない。

友人・知人を見ても、またうちの学生を見ても、みんな自己効力感・自己肯定感に乏しい。

だから、空気を読まなくてはならないし、連みたがる。

この記事で良かったのは次の部分だ。

 今の幼児期の、幼稚園の問題というのがあって、幼児期に自己肯定というのが全くできてなくて。みんなが頑張れ頑張れていうんよ、大人は。幼稚園の先生、みんな頑張れ言うんが好きなんやな。ようがんばったな、いうんが好きなんやな。  頑張れいうんは肯定する言葉じゃなくて、否定する言葉なわけよ。おまえ今のままじゃいかんぞ、もうちょっと上がれよ、という言葉なんよ。  幼稚園って、もう完全に否定しとる、そのままでいいよって言うこと、ないんよなー。先生の言うこと聞かないけん、右手上げて、左手上げてと。それしたない、ゆうことも言わしてももらえんのよな。そういう現場にもうほとんどなっておって」


数年前、うちの女子学生が「じゃあね、がんばれぇ」というのを別れの挨拶替わりに交わされてたのをみて、何じゃそりゃと思ったのだが。

自分では記憶にないのだが、小学校5年で父親を亡くした私は、その後ことある頃に大人たちから「頑張れ」と言われ、「もう頑張れないよ」と答えたのだそうだ。そうそう、頑張れは命令だし、現状を否定している言葉だ。

阪神・淡路大震災のときに、テレビでやたらと「頑張って下さい」を連呼していて不快に思ったのだが、東日本の震災の折には、欧米の言い方よろしく「我々は皆さんとともにあります」に変わっていたっけ。

そんなこともあって実は私は滅多なことでは「頑張れ」と言わないようにしている。むしろ「滅多に言わないのだが、ここは珍しく頑張りどころで、それをクリアすれば新しい世界が開けるよ」というときにだけ使うようにしている。

もちろん、ちゃんと勉強していない学生をやたらに肯定することは無いのだが、かならず「斯く斯く然々ダメだ、これをこうせよ、ここをこう変えろ」と具体的にいうことは多い。

そしてそれを乗り越えるために出来る限りの努力をした者は、結果を問わず褒めることにしている。そうやって少しずつ自己効力感を持つようになり、自己肯定感が生まれるのだ。

このところ学生気質が急激に変わっていることを痛感する。曽布川に褒められるところまで頑張れない学生がずいぶん増えてきた。残念ながらそんな「褒められて伸びるタイプ」なんてのは世の中では使い物にならないのだ。かわいそうだが、自己肯定感は社会に出る前に養ってておく必要があるのだ。その上で新しい困難に当たることが必要なのだ。

教員養成を6年制にしてもこういうところがちゃんと出来ていないと何の意味もない。結局現場で責任のある立場に立ったとき、力を振るうことは出来ないのだ。

隣を気にすること [教育について]

このところ講義は惨敗である。なにしろ、学生は全く勉強してこない。講義中には一生懸命やっているようには見えるのだが、決して自分で勉強してこない。予習しろとか言ってもほとんど無視。予習のための指針をWebサイトに書いても、テキストのその部分を斜め読みしてくるだけだ。いや、実はその大半は予習を要求しているのではなくて復習を要求しているのだが。

残念ながらゼミについてもそうである。これまでと比べて決して題材が難しくなっているわけではないのだが、何となくの低下が見える。

個々人に聞いてみると「よくわからないんです」という返事。わからないから勉強するわけだし、そもそもどこがわからないかを考えてくるのが勉強。どこがわからないかを抽出し、それをきちんと整理すれば自ずと考えることが見えてくる。もちろん質問のしようもある。

友だち同士でも
なんかわかんないよね~ そうだよね~
のレベルで終わっているように見える。予想問題通りの試験を出すと、同じ解答が並ぶ。誰かの解答例を覚えて乗り切ろうとする。それが元答案の不完全さを残したままで出てくるもんだから、バレバレ。もちろん全員0点だ。

諸悪の根源の1つに、大学入試センター試験があることは間違いない。はっきり言わないが、センター試験は選抜試験ではなく資格試験のようなものにしたら良いだろうという提案がなされていることで、心ある人々はこのことを理解しているのだと言える。文部科学省でさえも、
1点刻みではないレベル型の成績提供方式の導入によるセンター試験の資格試験的活用の促進
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/24/06/__icsFiles/afieldfile/2012/06/25/1312798_01.pdf p.11 などと言い出している。

だがそれだけではないような気がする。ちょっと違う話に見えるが、この記事。
野口能也 「ブレインストーミング」を問い直せ 2012.2.21
http://fiftyplus.jp/2012/02/21/rework-brainstorming/

どうも日本の社会はこの要素が強いような気がする。すなわち「隣が足を引っ張る」という状況。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」はあのビートたけしの迷言だが、それを地で行っているような気がする。

隣ができないからと言ってあなたが出来なくて良い理由はありません。私は構わず全員落としますから。



あ~あ、曽布川は鬼だなぁ~(笑)と思う方は、こちらのバナーをクリック

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俯瞰してみるということ [教育について]

もう一年以上も前になるのか。あの(× ムカつく奴ら ○ 我が岡山大学教育学部が誇る俊英)山田剛史&林創 両氏が(× 許し難い本をもって押しかけて来やがった ○ わざわざ私の研究室まで近著を持って来られた)のは。

それでもあの本は学生向けの啓蒙書だし、大学で勉強するには?という内容だから、私でも充分理解出来る内容だった。そして( × ひどくムカついて ○ 柄にもなく感動して)、言いたい放題ぶっ放したのだった

ところが先日。これまた我が学部が誇る(× 兵隊 ○ 立派な研究業績を挙げ、同時に教育を行うだけでなく、若いのに学部および大学の管理運営の仕事にも素晴らしい力を発揮する)熊谷愼之輔准教授が近著を持って来られた。


学校づくりとスクールミドル (講座 現代学校教育の高度化)

学校づくりとスクールミドル (講座 現代学校教育の高度化)

  • 作者: 小島 弘道,熊谷愼之輔,末松裕基
  • 出版社/メーカー: 学文社
  • 発売日: 2012/08
  • メディア: 単行本


なんでも、先の2人のやり様をみて、自身もわざわざ私に献本に来てくれたのだという。
何だよ、てめぇ。 サインぐらいしろ


と言ったかどうかは忘れたが[あせあせ(飛び散る汗)]、これは困ったことになったと思った。せっかくもらった本だし、読んでコメントの1つもしなくてはならないだろう。しかし今度は全くの専門書だ。この本は教育学の専門書だ。いちおう日本語で書いてあるが、細かいことにコメントなどできるわけもない。

だが腹を括った。前述の山田・林両氏にしても熊谷氏にしても私よりずいぶん若いわけで、私を(?飲んだくれのノータリンだとバカにして ?良い兄貴分だと思って慕ってくれて)いるのだろう。(× 一応ご挨拶・ご報告に持ってきた ◎ てめえ、しっかり読んで勉強しろ、この渾身の文章を理解しないのなら許さないぞ)という愛すべき若い同僚の行動には、渾身の力を振り絞って応えなくてはならない。たとえそこでこちらが討ち死にしようとも。

3名の共著者の中でおそらく親分と思われる方が書いた最初の部分がどうもあまり気に入らなくて何度も挫折したのだが、やっと熊谷氏の執筆担当部分まで到達した。

内容は、40代ぐらいの中堅の教師「スクールミドル」の職能発達についてである。素人たる私のイメージでは、学校における教員集団の中での役割についての話だろうから、ああすべきだ、こうあるべきだという論考(説教?)になるかと思ったのだが、全く違った。最初は「スクールミドル」と呼ばれる彼らの個人の立場と周りの状況の比較から話が始まっている。すなわち、個人として・人間としての転換点でもあり、同時に職場においても転換点にあるということ。素人たる私はそういう視点が全く欠落していたので、とても新鮮だった。それを受けて、指導した大学院生(なんと偶然、私の妻と高校の同級生で、現在はその高校で愚息を教えて下さっている現職教員だ)の研究を引いて、個々の教員に職能発達をもたらすためのキャリアデザインについて述べ、さらにそれをサポートする学校・学校外の環境のあり方について論じている。

この3つの章が熊谷氏の担当なのだが、1つのことをこうやって違った角度から見ていることが素人の私にもよく理解出来る。これは本当に教師のこと、学校現場のことをよくわかっていなければ出来ない仕事である。

そこでまたあの(× ムカつく ○ 素晴らしい)本を思い出した。
キーワードはメタ認知

つまり俯瞰することである。いわゆる「文系」の学問に必要なことが何であるかを改めて見せてもらった。

こうやって俊英たちが次々と専門の本を持ってきてくれるようになるのは光栄だ。そして大変だ。





大学生のためのリサーチリテラシー入門: 研究のための8つの力

大学生のためのリサーチリテラシー入門: 研究のための8つの力

  • 作者: 山田 剛史・林 創
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2011/05/30
  • メディア: 単行本



蟷螂の斧は折れません [教育について]

アゴラに上がっている色々な方々の意見が面白い。

私が注目している方の1人が松本徹三氏である。@matsumotot68

氏の主張には賛同することが多いのだが、先日少し私との食い違いが見えた。

  情報教育」が何故必要かを総括すべき時 2012年07月09日

ICTの威力は「使い方を知れば」というレベルではない。機器やコンテンツは、打って金儲けしようとする輩の奮闘により、相当に刺激的な物になっている。だからそんな悠長な発想ではダメなのだと私は思う。少なくともそういうものを使って教育することを研究してみての言い分。

ここには、数学者の辻元氏の意見(これとかこれとか)についてもコメントしている。辻氏の意見は同業者として至極もっともなものだし、実は松本氏もそれに反対をしているわけではない。

しかしそれでも松本氏はICT導入をすべきだと力説する。どうにも話がかみ合わないのだ。

そうこうしているうちに、こんなコラムを見た。

橋本治の相変わらず役に立たない話  第4回「日本の議論の進め方」- 週プレNEWS(2012年7月10日15時00分)

このコラムでは、原発再稼働を巡る議論のかみ合わなさを述べているのだが、それが松本氏と辻氏の議論のかみ合わなさにあまりにもぴったりだった。面白いので、そのコラムをパクってコラージュしてみた。是非もとの記事と見比べていただきたい。

********************************************
電子教科書導入推進派は、めんどくさいので「電子教科書にデメリットがあるか」の議論をすっ飛ばして、「電子教科書は良いものだから導入します」という論を立てます。賛成派が「電子教科書にデメリットがあるか」という議論を放棄してしまっているので、反対派が「電子教科書を導入するとこんな問題があるじゃないですか!」と言っても議論は噛み合いません。「電子教科書には問題がある!」と言われたって、推進派は、「そういう部分もありますが」と一部は肯定し、「そうなるのかかどうか分かりませんし」と一部は保留し、「そんなことはないでしょ」と一部では反対して、「じゃ、あなたは電子教科書にデメリットがないと言えるのですか?」の問いに対して、「うーん、ムニャムニャムニャ」で、話を「電子教科書にデメリットがあるか」ではなくて、「電子教科書は良いものである」という方向へ持って行きたがるのです。

電子教科書導入推進派が、電子教科書というものを本当にデメリットがないものと思っているのかどうかの答は「本当のところは何がデメリットなのかわからない」なんじゃないかと思います。

電子教科書導入推進派が「そんなデメリットはたいしたことがないから導入させよう」という方向に進んでしまえば、これに対する反対派だって、「電子教科書が導入されたら大変なことになる」と思って、「電子教科書は良いものではない」という方向に転換しちゃいます。いわく、「計算をしなくなるから、計算力が落ちる」とか、「画像で見せてもらうだけで自分の頭で考えなくなる」とか。

ロクに考えなくたって「そんなもの導入したら大問題だよ」という状態だったりすれば、電子教科書反対派は「だから導入させてはならない」と訴えますが、電子教科書導入推進派にとっては、それが好都合なのです。どうしてかと言うと、「電子教科書にデメリットがあるか」という議論から離れて、事態はもう「電子教科書は良いものかどうか」というところに行ってしまっているからです。

「電子教科書にデメリットはないのか?」という議論は、「コンピュータを無自覚に使わせて良いものなのか?」という議論を含んでいて、すでにゲーム機に絡め取られている若者がたくさんいるわけで、この答ははっきりしています。とんでもないことになって、すでにマンガすら読めない子どもが出てくるほど、子どもたちの考える力は衰えてきています。

でも「電子教科書は良いものなのか?」という議論は違います。こちらは「デメリットがある」ということを考えません。こちらでの「デメリット」は、「導入されたら問題が起きるかどうか」のジャッジだけです。「問題が起きるかどうか」は、「デメリットはないのか?」という議論の中に含まれるものなので、それがどっかに行って議論が「電子教科書は良いものなのか」になったら、「導入されて問題が起こったら ――」は考えなくていいのです。「問題が起きないように専門家が研究をすればいいのです」と示すだけで、その「問題がないこと」は保障されてしまうのです。実はその研究すべき専門家が、デメリットを指摘しているのですが。

「計算をしなくなるから、計算力が落ちる」と反対派は言いますが、「デメリットはないのか」という議論をスルーしてしまった推進派は困りません。「はい、分かっています。それらはみんな処置する予定です」と言ってしまえばいいのです。

本当のことを言えば、その処置は「将来に於いてのこと」で、だからこそ現段階では全然安全ではないのですが、それなのにどうして、電子教科書導入推進派が「問題はありません」と言えてしまうのかといえば、それは電子教科書にデメリットはないのかという議論が素っ飛ばされているからです。

「その議論はしなくていい」になったら、話は簡単で、「デメリットは考えなくていい」ということになります。デメリットは考えなくていいわけですから、「計算をしなくなるから、計算力が落ちることはとりあえずは考えない」ということになってしまうわけで、である以上、「ただでさえ考えなくていいはずの問題なのに、心配する人のために専門家が考えてくれることになっているわけですから、電子教科書導入にはなんの問題もないのです」になってしまうのですね。

「そんなバカな」と言ってもしょうがないですね。「電子教科書にデメリットはないのか」という議論を素っ飛ばしてしまえば、そういうことになる。「議論を素っ飛ばす」ということは、「反対だ、問題がある」と言われて、それに対して「そんなことはない!」と言って拒絶することではないんですね。「問題がある」と言われて、それに対して「うーん、そうですねェ――」とうなずいて、しばらく考えて、考えたままで態度保留にしっ放しにしておくというのが、日本でありがちの「議論を素っ飛ばす」ですね。「反対」もない、「賛成」でもない。ただ「保留」の沈黙がしばらく続いて、その後に「初めに結論ありき」だった方針が動き出すというのが、日本式の議論素っ飛ばしです。こういう相手に「こっちの言うことも聞いて下さい」と言っても無駄です。相手は聞いていないわけではないのですから、「聞いてますよ」で終わりです。

電子教科書の導入は多数決による決定ではないので、そこに「議論」のある必要も――よく考えるとありません。しかし、導入に問題点を提起する勢力は多くあって、これを押し切って導入を実現するのは容易なことじゃありません。しかし押し切った、どうして押し切ることが出来たのかという論理の構造は以上のようなもんだと思います。ここまで私の言ったことは、読むだけでイライラするようなもんですが、これが日本の議論なので、これを呑み込むしかありません。

日本での議論の噛み合わなさはこうしたもので、かみ合わない議論だからこそ盛んに戦わせる――そうして収集がつかなくなってからこそ、「賛成か、反対か」の二択に絞れる。大事なのは、「初めに結論ありき」で態度を決定している推進派に対する反対派です。「ああも反対、こうも反対」と言って、反対意見はやたらと拡散して、どの条件がクリアされるべきなのかが分からなくなる。重要なのは、根本の前提がなにかを見定めて動かさないことです。
**************************************************

曽布川は、各方面に「こんなデメリットがあるがどうか」と投げていますが、誰1人としてこの「杞憂」を打ち払ってくれた人がありません

結局スルーです。辻氏の言われることも同じ数学者・数学教師の端くれとしてとてもよくわかるけれど、「それは単にその先生が偉大だったんでしょ」で一蹴されている。で残念ながらこういう方向へ拡散しても、相手にしてもらえません。

前途多難だ。でも蟷螂の斧は折れません

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意地を張ることは悪いとは言わないけれど [教育について]

ちょうどこのところ、ネット上の私の周りで、2つの議論が起きている。

一つは

JBPress 世界の中の日本 2012.06.29(金) 伊東 乾
東京大学には入ったけれど・・・ああ無常 人生の失敗を始める頭の“良すぎる”学生たち
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35548

を巡る議論。簡単に言えば、「パターン丸暗記でテストをクリアする」ことを強く習慣づけられ、さらにそれに成功体験を持つ学生がそこから抜けられないでいる、ということに対する憂いであると読んだ(他の読み方をする人もいることは承知している)。

大学の教員で、そうした学生がたくさんいることに危機感をもって何かをしなければいけないと考えている人の多くは納得できる指摘だと思う。少なくとも口汚く批判している人の多くは、大学生を相手に仕事をしたことのない人であり、机上の空論だ。もちろん伊東氏の文章を読んで「今時の若い者はなっとらん」という年寄り発言だと言う人もあるのだが、伊東氏はそれに対して欧米の大学のようなやり方で(相当な労力をかけて)教育を施した。特にここに挙げている科目については

東大式 絶対情報学

東大式 絶対情報学

  • 作者: 伊東 乾
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2006/03/23
  • メディア: 単行本


という最低のネーミングの本に述べられている。標題は不愉快だが、中身は悪くない。こういう教育を実践したことがない奴がどんなに吠えても、まあ言いたがりなんだなという括りにさせてもらう。

さてもう一つ。こちらはまだ大きな議論にはなっていないようだが、同じく東大教授の本田由紀氏の次のtweet(アクセスが出来なくなる可能性があるので、全文を挙げさせてもらう)。

ある中堅私大の教員の方から聞いた話。一般入試で入学してきた学生の中には、偏差値が1、2上の第一・第二志望に落ちてその大学に入った学生がかなりおり、そういう層はずっと不本意さを感じて大学生活になじもうとしない。それよりは推薦やAOで入学した学生の方が入学後にずっとがんばるのだと。

https://twitter.com/hahaguma/status/220506788464824320

この手合いについては、我が社でもぽつぽつ見かける。学生がなじもうとしないのはなぜか。それは偏差値による序列こそが全てだとする、凝り固まった価値観から抜け出せないからだ。

我が方の小学校教育コースでもちょっと違うが似たような話がある。我が方では、どこか一つの分野または教科を中心に学んでそこを得意分野にさせるようなシステム(ピーク制)を採用している。それでも小学校は全部の教科を教えるのが原則であるから、配属された分野・教科がどこであってもそれなりに対応できなくてはならないはずだ。ただしその分布に余り偏りがあると指導に支障があるので、希望を取った上で学部として配属を決めることになっている。ところが人気の英語教育講座(小学校なのになぜここが人気なのかについてもそれ自体似た部分があるのだが、ここでは述べない)の選に漏れて数学教育講座(実は人気)に配属されたにもかかわらずそれが不満で、再受験するだの転学部をしたいだのとゴネている奴がいる。これも思い込んだ価値観を揺さぶられていることに対応しようとしないケースだ。

意地を張って自分の価値観に固執するのは構わないが、それでは社会では評価されない。社会における異端児が新しいものを作ってきたのは確かだが、この考え方では新しいものは生まれるはずがない。なぜなら、上のトーダイ生は「先人が作ったものの部分集合」でしかあり得ず、チューケン大学不満分子は、自分の大学を認めないのはまあいいとしても、昔の古き良き時代の学生のように勝手に何かをどんどんやるわけではなく、結局何もしないのだろうから。

そこでわれわれ教師は、また社会の先達は何をしなくてはならないか。

本田氏のtweetに対する私の返信は
そういう価値観を壊す何かが必要です。私はそれは人との出会いだと思っています。そして自分もその候補になるべきだとも考えています。
https://twitter.com/sobukawa/status/220511656957054977

である。彼らがそれまでと違った価値観を持ちうるようなきっかけが必要である。それは人との出会いしかあり得ない。もちろん誰にとって誰がその「いい」出会いであるかはわからない。だが私自身もその候補の1人でありたいと思っている。私の場合は、どちらかというと腕尽くである。相当厳しい圧力を、しかも必修科目という鎧を着た上でやるから質が悪い(と、学生は間違いなく思っているだろう)。だがそれでいいと思っている。全部の学生に気に入られのは無理だ。一部でもいいから社会でどんどん通用するような若者を送り出したいと思っている。


上の伊東氏のコラムに対して2chやFBなどで色々と議論が広がっているようである。それも件のトーダイ生を擁護する意見がたくさんあるという。

ネットはフラットな関係だ。そうした凝り固まった価値観をもった若者たちも、私のような古臭い感覚の持ち主も同格だから、彼らの盛り上がりを食い止めることは出来ない。実際ネットでは多数派をしめるだろう。だから私は諦めてこう言ってしまう。

伊東氏の言うことはわかる。私はそんな学生には頭ごなしに「そんなものが出来るだけでは人間として存在価値がない」と喝破するが。RT @JBpress: 東京大学には入ったけれど・・・ああ無常 人生の失敗を始める頭の“良すぎる”学生たち http://goo.gl/fEgLz
https://twitter.com/sobukawa/status/218377224812892160

基本的に学生なんてこんな奴ばっかり。だから私は最初から喧嘩腰。答えが存在する問題の解法を暗記して試験に備えようなんて奴は、自分は不要な人間だと公言してるようなもの、とやる。 >>>東京大学には入ったけれど・・・ああ無常 http://goo.gl/fEgLz
https://twitter.com/sobukawa/status/218548230957441026


>スナックかえるちゃん(営業中) この東京大学には入ったけれど・・・ああ無常 http://goo.gl/fEgLz が2chでスレッド立っていて、それに対する反応書き込みがすごい・・。この学生支持するのがいる・・・・(T^T) >曽布川拓也 そりゃあ凄いですね。まあそんな奴はシューカツに失敗してクビでも括ればよろしい。つける薬はありません。面と向かって腕づくでもやる覚悟が無ければどうにもならない。
https://twitter.com/sobukawa/status/218662305741799424

例によってきつい物言いだが、まあそんなもんだ。


大学のセンセも大変なんです。。

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やっぱり金、金、金 [教育について]

昨日の怒りもさめやらぬうちに、こんな記事を見た。

内田樹の研究室 2012.6.26
韓国の教育事情はどうなっているんだろう
http://blog.tatsuru.com/2012/06/26_0945.php

そうそう。ずいぶん前から私が感じていたこと。むか~し(多分今世紀初頭に)書いたものに加筆して本サイトに挙げたのはずいぶん前だった。

60点主義は大変危険な思想(2010-01-25)

最近、なぜかこのページのアクセスが急増しているのだが、それは違うところに原因があることはそのページのコメントとして書いておいた。

内田氏は私が感じていたことを、その原因まで含めてしっかり分析している。その通りだと思う。
一言でいえば

   経済合理性

である。昨日の怒りも結局「金、金、金」じゃんか、ということ。まったく根は同一だ。

私は日夜、ほとんど「腕づく」でこれと立ち向かっている。もちろん学生の評判はすこぶる悪く、うちの研究室でない3年次以上の学生はほとんど私の講義に来ないし、ゼミ生でも来ないやつがいて、常に破門の危機にある。

でもこっちがすべきことは変わらないし、それに取り組む姿勢も変わらない。


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