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まずは敵を知れ [算数・数学教育について]

ずっと,電子教科書・デジタル教科書のようなものに対して警戒している。

何度も問題点を挙げたのだが,使ってみもせずにこういうことを言うのはよくないので,研究用にiPad を買ってもらって使ってみることにした。

昨日入手したアプリ Symbolic Calculator HD 。よく出来ていると思う。iPhone版もあるようだ。
複素数まで含めた高校以下の代数計算のほとんど全部をこなし,関数のグラフを描いてくれる。
代数方程式を解くぐらいのことも当たり前だ。

他にも入手しただけで使いこなせていないが,3D用のソフトもたくさんある。

こんなものが安価に/無償で手に入る状況下で数学は何を学ぶ学問になるのだろう。

もちろん私も数学屋の端くれ。新井紀子氏らの言うようなことはもちろん理解しているし大いに賛成している。

だが,例えば iPad に学校の教科書が載るとき,その脇に数百円で買えるこのソフトがないはずがない。ということは,

「次の関数のグラフを描きなさい」 「次の式の (  ) を展開しなさい」 「次の方程式を解きなさい」

という問題は成立しなくなる。もちろん,曽野綾子大先生がおっしゃったように,こんなものに答えられなくても困ることは一生ないだろう。要らないというのは勝手だが,教育する必要はないというのは身勝手だ。

数学そのものは必要と思う人がやればいい。

という人がいるのだけれど,この状況で誰が数学などやるのだろう。そもそも必要だと誰が思うのか。やってみもせずに必要だなどと言うことはできない。数学の必要性を本当に感じるのは,相当勉強した後だ。

論理的な思考については,他にも教える方法がある。

などということを言う人もたくさんいる。まったく無責任なことだ。それでは論理的な思考をどうやって教えるのか。こういうことをいう人はまず代替案を持っていない。そういうところだけ「専門家が」などとのたまう。あの~,一応こっちは専門家なんですけど。猪瀬直樹・東京都副知事などがいうところの言語技術はこれにずいぶん近い。だが完全ではない。少なくとも二千年もの間,数学に代わる教育法など見つからなかったのだ。

とにかく実際に使ってみている。その上で問題点をはっきりさせなくてはならない。

自己保身の必要はない。私が岡山大学を定年になるまであと20年を切った。
だから知らん顔を決め込むことはできる。しかし未来に向かっての責任をとれるか?

電子教科書の導入には反対し続ける。同時に問題点も勉強する。

まずは「敵を知れ」だ。


生き抜くための数学入門 (よりみちパン!セ)

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  • 作者: 新井 紀子
  • 出版社/メーカー: 理論社
  • 発売日: 2007/02
  • メディア: 単行本



ハッピーになれる算数 (よりみちパン!セ)

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  • 作者: 新井 紀子
  • 出版社/メーカー: 理論社
  • 発売日: 2005/03
  • メディア: 単行本



絶対にお勧め [算数・数学教育について]

今朝の朝日新聞(2010.10.25 大阪本社版)に大学におけるリメディアル教育の話題が出ている。

AO入試がどうしただの,大学進学率が増えただの,ゆとり教育だの,悪者探しをする人が多いが,それはさておき,実態として巷ではひどいレベルの大学生が多いことは事実である。大雑把に言ってそこを補充するのがリメディアル教育である。残念ながら我が方でさえもその必要性は如実に感じる。さらに学生は,未知のことを自ら学ぶという姿勢もないわけで,小学生でもないのに「習ってません」(文系なので数ⅢCできません日本史取ってません。。。。)などと平気で言う。こうした基本的な態度も一から教えなおさなくてはならないのだが,嘆いても意味はないので実態に合わせて教育する。

さらにいうと,算数・数学に関しては大学1年生だけでなく,あらゆる段階で同じことが起きている。学校の内容についていけない/取り残されている子どもはたくさんいる。朝日新聞でも述べられているが,算数・数学に関してそういう状況にある子どもが学校の内容に追いつけるようになると,他の教科・科目に大きく波及することが知られている(すぐに実証研究を挙げられないが,経験的には確かである)。

そこでお勧めするのが「公文式」。これは自分のレベルに合わせてスタートでき,自分のペースで進めることが出来る。モデルとしては「○をつける」教育。これもよろしい。算数・数学について,学校の内容から遅れてしまっている子どものために,公文式は絶対にお勧めである。

図形嫌いだろ [算数・数学教育について]

そうだろうな,と思うこの調査。

「理科教える技能に自信ない小学教員志望学生が過半数」 サイエンスポータル編集ニュース
科学技術振興機構報 第748号より

だって,小学校教員になるためには,ほとんど「教員養成系学部」に行かなくてはならないわけで,しかも教育学部なんて「文系」呼ばわりされているから。

前から言っているように
「理系」 「文系」

なんてのは全くナンセンスな分け方。昨日も書いたように,数学だって「理系」だけの話じゃないのだから。

これは今さらと思うのだが,実は数学という分野では,その中でも「この分野が×」みたいに思われているジャンルがある。

それは 図形 だ。

子どものうちに,空間感覚などを養っておく必要がある。だからジャングルジムに登るべきだし,リズミカルな音楽を体を使って(歌も含む)体験すべきだし,工作をすべきだというのは,これまでさんざん書いてきたこと。

中学校の話はあまり書いたことがないが,実は図形が嫌いという数学教師は多い。
少し前に聞いた話だが,ある私立中では,図形分野を分けて別科目とし(それ自体はおかしくない),それを非常勤講師に担当させていたそうだ。自分が嫌いだから,上手く教えられないからだろう。

高校ではそれが潜在化してもっと酷い。高校の数学の内容では,今は少しユークリッド幾何があるが,受験には関係ないとされ,また受験数学のいらない学校では逆に扱いにくい。それ以外のところでも図形的な要素はたくさんあるのだが,うちの学生を見ている限り,そういう部分を手抜きしている,若しくは教え切れていないと思われる状況である。

図形が嫌いなのは,「赤毛のアン」にも出てくるように古今東西よくある話だが,少なくとも教師がそれで逃げていては話にならない。

今度の学習指導要領の改訂で復活するそうだが,今の高校の指導要領では「複素数平面」が欠落している。その前の指導要領ではあったのに,評判が悪くてやめたようだ。前回の指導要領では行列を用いた1次変換も扱わなくなっているため,図形的なものはどんどん切り捨てられている。

そこの数学のセンセ。 図形は好きですか。


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我がネタ本について [算数・数学教育について]

久々にこのカテゴリで書きたくなった。

最近読んだのは,滝川洋二編著の




理科好きになったのは?ということから,

 ・科学の絵本を,子どもだけでなく大人も含めてみんなで読んでみよう,
 ・そして科学的な見方に多くの人が慣れよう
 ・もしかしたら,そこから未来の科学者がたくさん出てくるのでは?

という感じの話であった。

 ノーベル賞受賞者の益川敏英氏の言葉: 科学は人類にとって「自由の拡大である」

というのは,最近読んだ新井紀子氏の





などでも述べられているように,「理系の人だけのもの」ではなく,誰にとっても必要なことなのだという,私の思う通りのことである。

さて,何かの機会にこういう活動にも手を出してみたいとは思うのだが,その前に私個人の話を。
私にとって,そういうきっかけになった本がある。

算数物語 全3巻  
 Ⅰ 数はだれにでもわかる
 Ⅱ 式で世界をつかまえる
 Ⅲ 点・線・面から空間へ
     大野三郎,大矢真一,黒田孝郞 著, 日本標準 刊 初版 1971年

とっくの昔に絶版になって,現在はネット検索をしても引っかからない。
復刻してくれないかと出版社に言ってもなかなかそうはいかない。

私が小学校3年になる頃に出会ったこの本は,実は今でも私が算数教育関係の話をするためのネタ本として充分使える物なのだ。

今から40年も前のことである。数学教育の歴史を勉強するとわかるが、その頃はいわゆる「数学の現代化」の風が吹き荒れており,小学校で集合論だの関数だのが出てきたころ。その学習指導要領で勉強した私たちは,なんと高校では公理系なんてのにも出くわせている。

そういう背景があって書かれた本であることは間違いないのだが,いずれにせよそんな本が昔はあった。

全国の算数教育に心ある小学校の先生方,もし勤務校が古い学校だったら,是非図書館を探して欲しい。
そしてこの本の良さを知ってもらいたいと思う。

余計な話であるが,今年は小学校の教師,特に理科・生物が得意であった私の父の37回忌を迎える。

ビーカーやアルコールランプや試験管など化学実験のセットも,
また我が家の庭で育てたアブラナ(実は小松菜)を撮影し,解説を書いて販売された小学校理科教材用スライドも
思い出の品ではあるが,

なんと言ってもその父が買ってきてくれたこの本は私の一生の宝である。

電器屋の手先でないと言ってくれ [算数・数学教育について]

熱狂的に迎えられた iPad の発売に合わせたかのように,「デジタル教科書教材協議会」ってのが出来たんだそうだ。

例えば我々数学者の間では「教科書はすべてデジタル化せよ」みたいな流れに非常に抵抗感がある。

私が言いたかったこと,考えていたことを,私よりも先に,しかも遙かにきちんと的確に世の中に向かって述べてしまっている新井紀子氏がここできっちりと述べている。続いて書かれているこれはその話の根っこ。

いわゆるデジタル機器といったものが世の中に普及してくることは間違いないし止められないだろう。だがその意義や如何に。私が思うに

 ・ 検索できてしまう事柄は人間が覚えておく必要性は薄れる 
 ・ 単純計算などは機械に任せてしまった方が確実だ
 ・ 人間は機械に出来ないことをすべきだ

である。この宣言で気に入らないのは,だから「検索能力を付けろ」というのが正面に書いてあることだ。最近はgoogle にせよ appleにせよ,検索能力を高めてこの要望には応えてくれているし,そういう技術を使いこなすことは,若者にとっては簡単だ。別に力を入れて普及などする必要はない。勝手にそれは広まる。この宣言は私にはどう見ても電器屋が商品を売りたがっているとしか見えない。

さて,「機械には代替できず,人間にしかできないこと」を考えるとき,上辺の論理だけで考えたら,デジタル機器をガンガン使って教育をすれば,それ以外のところに目が向くというのかもしれない。

しかし我々数学者の思うそれは違う。それを成し遂げるためには,機械が得意とすることであっても一通りたどってその能力を身につけ,さらにその上で活動することが必要なのだと思っている。

数学教育の関係の場で話をするとき,敢えて
「論理的な理解」などというのはあり得ない
と強弁することがある。中学校の数学教員からあからさまに「何言ってんだ,このバカ」という顔でにらまれたこともたくさんあるし,高校の数学教員からはたいてい無視される(高校段階のセンセでこの話につきあってくれるのは,力のある高校教員や東大にガンガン生徒を送り込んでいるような進学塾・予備校の講師だけだ)。

だが私の考えは違う。論理的に理解できたと思うことについてその根幹を逆にたどっていくと,結局は「感覚的な理解」に行き着く。業界の言葉で言うならば「公理に行き当たる」と言ってもいいだろう。だから私は究極的には「感覚的・直観的に理解する」ことしかあり得ないと思っている。このことを考えたとき,今我々が知っている「デジタル的なもの」はその妨げになる可能性がとても高い。

「やってみてダメだったら」レベルのことはやめて欲しい。「ゆとり教育」や「総合的な学習の時間」(基本精神はとても良いし,全国津々浦々まで本来の設計通りにそれが進められていたとすれば,今みたいに悪く言われることは絶対になかったと考えている。だがうまく行かなかった原因についてはここではもう述べない)は,これが始められたときは多くの人が反対しなかったのだ。一方でこの件についてはこれだけ強い反対が上がっている。我々数学者の疑念がもし悪い方に当たってしまうならば,これはもう取り返しが付かない。その結果,我が国はインドや中国や韓国には大きく水をあけられてしまうのだ(ここに論理の飛躍があると思う人にはいくらでも説明します)。

私が勤務する岡山大学の出身の有名人の1人・陰山英男氏この委員のトップに名を連ねているのだが,まさか電器屋の手先になろうということは無いだろうと信じたい。

数学の勉強の仕方 [算数・数学教育について]

1年次生対象の「学問の方法」という恐ろしい名前?の科目がある。

大学で学ぶためのガイドをする科目で,オムニバス形式。学部全体で行われる4回に続いて,残りは数学教育講座配属学生のために講座の教員が講義をする。

講座で一番声の大きい私が大体を取り仕切るその「残りの11回」について,トップで2回講じることになっている。言いたいことはあって,それだけをやればいいのだが,昨年から何かテキストを読ませたいと思うようになった。その後,常に探しているのだが,なかなか思うテキストが見つからない。

その大きな理由は,数学者のほとんどは,新入生の教育などに興味はないからだ。全く「雑用」としか思っていない。もちろんそれで済むなら幸せなことだ。しかしなかなかそうはいかない。今頃は「数学の勉強の仕方」を何かの形で教えておく必要がある。もちろんそれがすぐに効果が出るわけではないが,折に触れて言及しておくと,3年次ぐらいになって研究室に配属になったときに状況がずいぶん違うと思うのだ。

今年のテキストは

20代 仕事筋の鍛え方

20代 仕事筋の鍛え方

  • 作者: 山本 真司
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2005/08/20
  • メディア: 単行本


である。全くビジネスマン向きなのだが,それをいかに読ませるかがこちらの力である。

今日はこれを探しているうちに見つけた次の本について述べたい。

仕事頭がよくなるアウトプット勉強法

仕事頭がよくなるアウトプット勉強法

  • 作者: 増永 寛之
  • 出版社/メーカー: サンマーク出版
  • 発売日: 2009/03/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


「仕事頭が良くなる」だから,これもビジネスマン向きである。しかしこれはなかなか良い。なぜこの本を買ったのかというと,「アウトプット勉強法」は長年我々数学者が取ってきた勉強法/教育法だからである。

他にもあちこちコメントしたいが,ここでは「第3章 アウトプットありきの読む習慣」を。

数学教室でいうと,いわゆる ゼミにおける原典講読 である。

我々教員は座っている。学生が勉強してきて交互に立って教師役として講義するというものだ。

しかし教員は黙っていない。問題があれば即突っ込みが入る。人によっては説明してくれる先生もあるかもしれないが,怒鳴られるだけで終わることもあるかもしれない。

これがなかなかいい勉強法なのだ。おもしろいのは,質問に来た学生にもこれを援用している。すなわち,「わからないことは何か,黒板で説明しなさい」とやる。相当多くの場合には,ノート・テキストを見ながらそれをさせることによって,問題点が明らかになるのだ。

私の研究室は昨年の改修工事の結果,「普通のサイズ」の部屋になったのだが,壁一面は大きな白板を残してあって,私自身もわからなくなるとそこに説明を始める。いわゆるブレイン・ストーミングというのだろうか。

ビジネス書だから関係ないなどというのはレベルが低い話である。異分野の発想を導入してものにするぐらいの力が必要だ。

来年はこれをテキストにしようかな。

教師になるために必要なこと [算数・数学教育について]

このサイト・カテゴリでは述べてこなかったのだが,新年度に当たって基本方針を述べておこうと思う。

「いい教師」という言葉に対する解釈は人それぞれである。それについて議論したいとは思うが,ここでは敢えて「教師として最低限必要なこと」について考える。それは「授業が出来ること」である。

さらにはっきりしておきたいのだが,「授業が出来るとはこうなっていることだ」という「結果」の話をしない。もしそれをはっきり表現できるとすれば,裏を返すと「とても偉い教師」が1人だけいて,どこかで授業をしてそれをビデオ配信すればよいということになってしまう。すなわちほとんどすべての教師の存在が不要であるという話にもなりかねない。

それには賛成できない。教育は人間の営みである。教師それぞれの個性がなくてはならない。そして我々教員養成学部はそれを築くための手助けをするところである。

ずっと教員養成という世界を見ているが,「教科内容」の専門家と「教科教育」の専門家の意見がかみ合わないケースがとても多い。

「教科内容」の専門家は
内容を充実させることこそが教師にとって必要なことだ
と強調する。「教科教育」の専門家は
内容内容ってうるさい,教育の技術が重要だ
と反発する。

残念ながら不毛の議論であり,私はどちらも論外だと思う。

私は2つの土台があると考えている。1つは教える学問的な内容。もう1つは教育に関する基本的な力(教育学,教育心理学と言われるような分野)である。そして教科教育というのはその上に築かれるべきものだと思う。

長い間,教育の技術については経験的なものとしてしかとらえられなかったように思う。最初は学問内容だけあればいいんだという時代。そして教育に関する基本的な力が考えられるようになってきても,それらを別々に学ぶだけであとは経験的に何とかなる,なんとかすべきだという立場。やっと最近,教える技術のようなものを考えようという動きが出てきた。

ところが困るのは,この「教える技術」はこれら2つの土台の上に立つものだということを明言している人がそれほど多くない。土台しっかりしていないところで上にどんな建物を築こうとしてもうまくいくわけはないのであって当たり前のことなのだが,教員志望の学生でもそこがわかっていない者が多い。
小学校/中学校の内容はわかってる。だから教え方を知りたい。
というのが大方の学生の認識であろう。それが結局どうなるかというと,教育実習に行って最後に言われるのが
大学に帰ったらもう一度学問内容を勉強し直してね
である。

私が昔から学生に言っているのは,
教科教育は教科内容がよくわかった上でその先にあるものだ
ということである。このことについては昔からWebに書いていたが,最近このblogに引っ越した

教育の技術について声高に主張する人がある。気持ちはわかる。残念ながら「開放性」の名の下,こうした基本的な枠組みを考えないシステムの中で教員免許を取る人がたくさんいる。何となくその分野の単位をいくつか取り,適当に教育○○学の単位を取り,専門に研究したことがない人の○○科教育法の単位を取れば免許が取れる。それで教師になってもらうのは確かに困る。教育の技術をバカにしてはいけないと私も思う。

しかし若い学生がそういう主張だけを耳にしたとき,「自分は小学校/中学校の内容はわかっている」などと思い込んで学問をバカにするようになってしまうのではないか。実はそれではだめだ。学年が下がれば下がるほど教育は難しい。学問内容がちゃんとしていることは当然。その上で高い技術が必要。

だから「教育の技術の重要性」だけを主張する人には同意しない。一方で「教育内容を深めることだけが重要だ」というような主張にも賛同しないのだが,こういう主張を声高にする人は少ない。教員養成学部の教員にもそう思っている人は多くいるのだが,彼らは自分の研究に閉じこもってしまってあまり主張しない。

ところでうちの学部の教員の中には「学問内容を」と声高に主張する人がたくさんいるのだが,彼らはいわゆる教育に対してもとても熱心で,小中高生に対して色々な活動をしていて,この基本がよくわかっている。文句を言う必要はないどころか,尊敬すべき連中だ。

いずれにせよ「どちらが重要か」といった,程度の低い議論には与しない。順序はあると思うが,両方なくてはならない。

そこで私自身。数学はもちろんだが,教育学・心理学関連のことについても,うちのゼミ生程度にはまだまだ負けないつもりだ。しかし数学教育については私を超えて良く勉強している者もたくさんいる。立派なことである。こわ~いSobuセンも,そこまでは網羅し切れていない。残念ながら私もスーパーマンではない。

やられた! [算数・数学教育について]

1年前から気になっていて,フォローしようと思いながらなかなか出来ないままになっていたのだが,最近Twitter で見つけてからその方の著書を購入した。

数学は言葉―math stories

数学は言葉―math stories

  • 作者: 新井 紀子
  • 出版社/メーカー: 東京図書
  • 発売日: 2009/09/07
  • メディア: 単行本


まさにこういうことを期待して新井氏の言動をフォローしようと思っていたのだが,いきなりこんな決定版を見てしまっては,悔しさを覚える。
数学が言語であること

はとても重要な視点であり,算数・数学教育を語る上でもっとも必要なことだと思っている。

それをはっきり述べてくれたのがこの本である。「和文数訳」「数文和訳」などと言い切ってくれている。私も昔から「数学語訳」という言い方をしながら,ここに書き,最近も書き直したが,何回書いても同じレベルから抜け出せずに行き詰まっていた。

やられた!と思ったのは,同書 p.62 にある
California in / often / rain / fall / hear / .
という文である。

先日書いた「語順訳」の話そのもの。つまりこういう 論理構造(=文の構造) をとらえることが最も大切なことなのである。

癪に障るが(苦笑),この本をテキストにして講義をしようと思う。来年は開講しないので再来年度になる。

是非この本をご覧いただきたい。

数学が出来なくなる方法 [算数・数学教育について]

私は次のようなことを生徒・学生に勧めてきた。 数学が出来なくなるために  
「消しゴムを多用しましょう」 「暗算で計算をしましょう」 「ノートを節約しましょう」
先日向山洋一氏の主張について少しコメントした。氏の提唱するTOSS,向山式算数などは,必ずしも100%賛同できるわけではないのだが,いくつか私自身の主張と近い点があるので紹介したい。

向山型算数の1つの大きな特徴は 「子ども自らがノートに書く時間が最も大事である」 ということだと思う。

これには大賛成である。なぜなら自らの脳を使って経験することが最も大事なことであり,ノートに書かせることがそのために最も良いことであるから。

小学生には「考えながら書け」などと言っても無理である。なぜならそうしたトレーニングを受けてきていないから。

だから最初は比較的取り組みやすい「黒板を,教科書を写す作業」をさせる。小学生を相手にする限り,これも大賛成である。

特に小学生レベルの内容では「意味も分からず丸写し」にはなり得ないと思う。程度はそれぞれあっても何か内容に引っかかりがあるはずだ。だから大いに意味があると思う。

実際高校・大学で授業をしていても「ノートを取る」ということが分かっていない学生が大半である。 大切なのは,授業中に考えることであり,考える手がかりとして,また考えた記録としてノートに何かを書き留めることが大事なのだが,全くその習慣がない。仕方がないので曽布川は「ここをノートに書け」などと細かい指示をしている。数学の授業の多くは,黒板に説明を書きまくる形になるだろう。困るのはそれをただ丸写しする学生がとても多いことである。高校・大学生になれば,日本語のヒアリング能力も無くてはならないし,人の話を聞きながら考える能力が無くては話にならない。

そこで「大事なことを黒板に書かずに,口頭で言う」ことにしている。もちろん「繰り返し,しつこく」である。

ただし私は「教科書を写せ」とは言わないことにしている。なぜなら,多くの学生は中学・高校で教科書に書かれた公式(ではない。問題集にある「まとめ」の欄に書かれた公式だ。これがガンだ)を見る習慣が付いており,教師の話を聞くことが出来ないから。

大学生になってそれまでの習慣を改めさせようとするのはなかなか骨が折れる。しかしやらなくてはならない。これを乗り越えない限り,彼らを教育現場に出すわけにはいかないからなのだ。

(大昔Webに書いた文章に加筆)

算数・数学は言語だ [算数・数学教育について]

算数の話をしてよく聞くのは,
「計算は出来るが文章題が苦手で」「基礎は分かるが応用問題が出来なくて」
という感想。小学校算数に関してはこれらはほぼ同じ意味だと考えることにしましょう。中学校以上では「応用問題」の意味が若干異なる場合があるので,それは後で述べましょう。

曰くを聞いてみると,計算はやり方を覚えて練習すれば出来るようになるからいいが,文章題は「何をしたらいいか分からない」「考えるのがめんどくさい」とか。なぜそういうことになるのか。それは
文章題は日本語で書かれている。算数(数学)は「数」「式」で書かれている。
ということなのです。そして人々が苦労しているのは実は
日本語→算数・数学「語」への翻訳
なのです.

一方で,人々が算数において「何とか出来る」「基本だ」と言っているのは,ちょうど中学1年の英語で

  “( )に入る語は何ですか?: This (  ) a pen.  答え is”    
  “次の文を受身形にしなさい: They call me TAKUYA.”

という問題に正解できるということなのです。それが出来たからと言って,日本語の文を英語に訳せるのか?当然答えは NO! でしょう。

◎「算数・数学語」における「単語」とは
さて,それではその「算数・数学語」における基本となる部品を考えましょう。まず最初に考えなくてはならないのは「数」。多くの日本人は「数を数える」ということは当たり前に出来ることだと思っているようです。しかし実はこのことは大変なことで,世界中を見渡せば「数は20まで」「数は1,2・・・それ以上はたくさん」という程度の数の認識しかない人たちは意外にたくさんいます。もちろん「普通の日本人」にも。

あくまでも,数の概念は「勉強して会得するもの」です。その点で,日本の教育制度は大多数の国民に「数が数えられるようにした」という素晴らしいものなのです。

~チューリップは赤・白・黄色   信号は青・黄・赤    鉛筆が3本ある   「止まれ」の標識は「3」角形

という概念が,どれも「3」(さん,three, drei, troi,,,,,)という1つの概念で括られるということは,本当は驚くべきことなのです。

日本の算数教育は,大多数の国民にこの概念を認識させることに成功しています。それは本来奇跡と呼ぶべきことなのです。ごくたまに「鉛筆が三本と言っても,黒と赤と青,長いのと短いのは違うじゃないか」という疑問を持つ人がいるようですが,それはその人が頭が悪いのではなくて,その人の感性の中での優先順位として「鉛筆」という広い属性を考えることより狭い属性を考えることを優先してしまう,という傾向 があるだけなのです。

少し議論としては雑ですが「2つの数が等しい」という概念もこれに関連します。

次に出て来るであろう概念は演算。純粋数学の立場では数と演算は同時に考えなくてはならないものですが,それはさておき。こんな算数の問題はいかがでしょう。

“リンゴが2個あります。この図形▲は3つの頂点を持ちます。全部でいくつでしょう。答え 2+3=5”
この文章がほとんどの人に違和感を持って受け止められる(算数の問題として成立していないと考えられる)ことは間違いないでしょう。では次はどうでしょうか。

“リンゴが2個あります。ミカンが3個あります。全部でいくつでしょう。”
これは微妙な問題です。これだけでは違和感を感じる人もあるでしょうし問題ないという人もあります。これは次のように修整したら文句を言う人は少ない。

“リンゴが2個あります。ミカンが3個あります。果物は全部でいくつでしょう。”
このような判定ができるということは「+」という演算について知らず知らずのうちにその概念を会得いているのだということです。理論的にきちんと説明しようとするととても難しいものになります(ここでは止めておきます)。

算数教育の場においては,理論的に説明するのが難しいような「単語」の「本当の意味」を,体得する ために長い時間をかけているのです。それはすごいことなのだと思います。

◎「算数・数学語」における「文法」
単語を並べるための規則が文法であるとするなら,まず演算そのものの中に文法が含まれているだろうとおもいます。でもこの場合は文法というよりも語法というべきでしょう。「単語」を並べて出来上がった「文」に相当するのは「式」だろうと思います。

さらに式を並べて文章にするための方法としては「論理」が挙げられます。小学校算数では式が2つ以上になることは少ないですが,それはそこに論理が入ってくるために,発達の程度を考えても少々難しい。むしろ,年齢的に得意とされる「直感的な理解」(単語の意味と語法)に力を注ぎます。中学生以上になると,この論理がだんだん表に出て来ます。これが文法にあたるものだと思います。

◎日本語→算数・数学語の翻訳のしかた
日本語には日本語の論理があります。そして算数・数学語にもあります。これらを結びつけ,算数・数学語の語法を用いて文を作り,それを組み上げる作業を「立式」といいます。大雑把に言えばこれが「翻訳」の作業。
ちょうど,西はイベリア半島やイタリア半島から,東はペルシャ,場合によってはシルクロードの遥か先から人が去来していた古代ギリシアの都市国家において,異なる言語を話す人たちの共通言語(コミュニケーションツール)として論理学が発達したのはこの理由によると言われていますが,それが論理学と算数・数学の関係を物語っているとも言えるのです。

普通,日本語→英語のような翻訳は,それによって相手に何かを伝えるために行われるものですが,日本語→算数・数学語の翻訳は,その後算数・数学のもつ強力なパワーを用いて,日本語で表されている(もしくは目の前に起きている)現象を明らかにすることが目的であることが多く,しかもそれ自体(計算など)にも技能が必要なため,そちらの習熟に大きなエネルギーが割かれるのです。

◎中高以上の「応用問題」について
中高以上の数学における「応用問題」の多くは,違った様相を示しています。確かに「鶴亀算を連立方程式で解く」など,ほとんど日本語のみで提示された状況を,数学語に翻訳し,その後数学パワーを使うケースもありますが,たとえば

 問: 放物線と,その軸と直交し焦点を通る直線によって囲まれる部分の面積を求めよ。

などと書かれたら,
まず問題を数学語に翻訳し,その状況を把握し,さらにそれを(多くの場合は日本語の助けを借りながら)数学パワーが使えるような数学語に変換(翻訳?)する

という恐ろしく面倒な作業をすることになるのです。でも考えてみれば,英語で書かれた文章および質問に対して英語で答えるようなものですから,自然なものです。

◎むすび
いずれにせよ,算数・数学語に関する「翻訳」の概念を明確にすることで算数・数学教育に資するものは大きいと思います。

(大昔に書いたものに加筆してup)
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