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英語を話すのは怖くないよ [英語を勉強する?]

このところこのブログを書く余裕がなくて,久々である。

朝日新聞(大阪本社版)10/20 オピニオン(インタビュー)
鳥飼玖美子 「訳読vs会話」論争をやめ 日本人に合う教育を

を読んだ。今は立教大学教授である鳥飼氏が同時通訳者としてテレビなどで活躍しておられたのを知るのは私より上の世代だろうと思う。ここ数年,いくつか意見を見るのだが,的を射ていて納得することが多い。

特に今日の記事は「グローバル化時代における英語のありかた」についてである。

ずいぶん前に,テレビの朝の番組で人気者だったA.ウィッキー氏が言っていたことを思い出す。

日本では「付加疑問」なんてのを教えるけれど,マレーシアでは肯定文の後ろに「ラ」と付けると付加疑問になる

(記憶があやしい部分もあるが)

日本語でも「ネ」をつけたら付加疑問かもしれない。そんな「マレー英語」だっていいんですよ,通じるように使いましょう,というのがその主旨であったようにおもう。

鳥飼氏も同じようなことを言っている。

英国や米国で話されるのが本物だとしても,グローバル共通語としての英語はそれに固執することはない。大事なのは世界中で通じるもの。米英の文化などと全く切り離すことはできないにせよ,米英のみで通じるような表現は必要ない。少なくとも義務教育・公教育で教える英語は国際共通語としての英語であるべき。もちろん細かいことを気にする必要はない

と。さらにこうも言いきる。
英語か英語でないかを母語話者が選ぶ時代なんて、そんな時代は過ぎました。自分たちをスタンダードにしろと言ったら、それは少数派の身勝手です。英語は申し訳ないけれど米英人たちの固有財産ではなくなったんです。彼らにとっては変な英語がまかり通って不快でしょう。kれど、私たちだって苦労して勉強しているんです。彼らにも歩み寄ってもらわなければ。共通語なんですから。


英語ネイティブという人たちは4億人程度。そのほかの英語を使う人たちは十数億人。それなら多数に従うべきだという氏の主張は明快だ。

英語(米語)が共通語だとしても,彼らの感覚が世界の標準ではないということについてはすでに述べた。言語による支配が文化的な支配になることは不快道具として使おうと

最後のしめがすごい。

・・・自分らしさを出したり、自分の文化を引きずったりしてもいいということです。「アメリカ人はそうは言わない」と言われたら,「アメリカでは言わないでしょうが日本では言うんですよ」と・・・


日本人はこういうところで自分らしさを出せない。合っているか間違っているかの判断しかない。
いいじゃないか間違っても通じれば。言葉だけじゃないよ大切なのは。

だから前にも書いたが,あるシンポジウムの案内を見てうれしかったことを再度書く。

公用語はBroken English です。ただし Queen's English




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