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議論の目的 [自分の生き方]

ひさびさに骨太の主張を見た。

Rootport 日本人が苦手な議論。あるいは、いかにして民主主義は死に至るかhttp://d.hatena.ne.jp/Rootport/20131207/1386387788

この中で言うところの,
日本人はプラクティカルな議論に終始しがちで、フィロソフィカルな議論をあまりしない
には非常に頷ける。

最近遭遇した例。来年度、新規に講義を開講せよとの指示。そこで無い知恵を絞って3つほど提案した。15回の講義内容まで全部書いて出せとの話である。一応市販のテキストを使う形式にしたので、その15回の内容はそれを取り上げる順に書かざるを得ない。

だがそれは仕方なくそうしただけのこと。そもそもその講義の目標はそのテキストの内容を教えることではなく、このテキストを使って原理的なことを伝え、これから学んでいくための1歩としてもらおうというものだ。
教科書を教えるのではない、教科書で教えるのだ
ということを実践しようと思っている。

少なくともこれまで大学における講義はすべてそのように行ってきたつもりだ。だから公式を暗記してそれに当てはめて解くようなことを忌み嫌っている。もちろん小中高ではそういうトレーニングも必要だし、大学でも必要になることはある。

ところがこのような本質的なことを見ようとしない「お偉いさん」からクレームが来た。

○ 振りかぶったような講義題目ではなく、テキストの内容を講義題目にすべきだ
○ そんな講義題目では学生が履修しようとしない

開いた口が塞がらないとはこのことだ。大学はカルチャースクールではない。いやいや、そうならざるを得ない大学も多いとは思うが、日本のトップ○○、世界のトップ○○を目指す大学じゃねぇのか。そしてそこでの教養科目を強化しようというのが元々の狙いじゃねぇのか。

結局、プラクティカルなことにしか目が向かないのだ。

大事なのはフィロソフィカルなことだろう。それが違っているというのなら指摘されてもいい。レベルが低すぎる/高すぎるというならそれも話を聴く。

しかし言うことはそれかよ。それが大学教員か。情けない話だ。

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