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今こそ必要な「考へ方」 [教育について]

今でこそ当たり前の日本語である「考え方」という言葉も,明治以降作られたものだという。

藤森良蔵(1882-1946)による造語だという話である。そして彼の主宰した雑誌「考へ方」,さらに出版社「考へ方研究社」という言葉に表れているように,このことについて深く考えていたようである。

氏の著書はいくつか持っているが,我が国の数学教育の歴史の中では異端扱いされながらも,今読み返してみてもなかなかおもしろいものがおおい。詳細についてはまたどこかで述べたいと思う。

閑話休題。

今期は「数理情報処理」という科目を担当している。「情報」については教員免許のための必修科目であるが,それとは別に数学の教員免許のための必修科目にも「コンピュータ」の領域がある。

わが方では「コンピュータを使って数学を学ぶ」ことを考えている。といっても,Geogebra だとか Grapes だとかいうソフトウエアを教える気はない。

コンピュータを(出来るだけ生々しく)使って数学を考えることが目的である。コンピュータ言語の話はしたくないので,おもちゃの言語・N88互換BASICを使っている。大切なのは言語ではなくて,それを使うために数学をどう見直すかである。

とは言っても,学習モデルは言語に準ずる。

最初は「この問題をコンピュータに解かせるにはこういうプログラムを使えばいい」という例を具体的に実行させる。いわゆる例文だ。そしてそれを真似ながら似たような数学の問題をコンピュータに解かせる。うまく行かないときに文法書をちょっとだけ見るという形式だ。

学生はコンピュータ相手にどんどん作業をする。それに対してこちらは例文の内容を解説する。アルゴリズムや簡易フローチャートなどについても説明する。それは思考の流れを整理することだ。またコンピュータの本質的な特性(速い,間違えない,融通が利かない,有限である,など)について話すこともある。

ところが,年々学生の理解力が下がっていることを痛感する。プログラムをそのまま手入力して実行させるまでは簡単にできる。ところがその後が全くお手上げだ。だから類題に適用できない。

丸写しと丸暗記。

それしかしようとしない。あとはこちらの指示をぼーっと待っている。平気で20分も待っている。

曽布川は例によって厳しく叱正する。自分が出来ることはないのか。自分が知っていることはないのか。指示を待っているだけというのは自分自身の人間としての存在価値を否定していることだ・・・。

お説教には限界がある。大変残念なことなのだが,彼らは「自分で考える」という経験が少なすぎるのだ。だから

「考え方」について教えなくてはならない


のだ。藤森良蔵,その長男の藤森良夫(この方はわが出身高校で教えていたことがあるようだ)らの気持ちはこういうことではなかったのかと思いを馳せる。

氏の係累である故・藤森貞明氏(高校数学の教科書執筆などで活躍)に接し,良蔵・良夫親子について伺う機会もあった自分は,もう一度この「考へ方」について考え直してみたい。
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