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オリジナリティを創造する [教育について]

偉そうなタイトルになってしまった。

良く聞くのは
日本人は模倣ばかりでオリジナリティがない
という言い方である。
果たしてそうなのだろうか。

確かに産業界においては,外国の真似をして物事を行い,結局本家よりも質を上げてしまうということが多いのは事実だ。

このことについて様々な意見を聞く。
創造とは大いなる剽窃である
という言い方もできるだろう。大事なのはこの大いなるというところなのだが。
まず型にはまってみて,それから壊す
という言い方もできる。そもそもの基準がないところでは新しい物など産みようがないということである。

最近,ミーハーな私は

思い出袋 (岩波新書)

思い出袋 (岩波新書)

  • 作者: 鶴見 俊輔
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/03/20
  • メディア: 新書

などという本を読んでいる。

さすがに見所はたくさんあるので,いくつか触れたいところがあるのだが,この中で

 あふれ出るもの(p.36)
 はみだしについて(p.53)

はその話題である。曰く
自分で定義をするとき,その定義のとおりに言葉を使ってみて、不都合が生じたら直す。自分の定義でとらえることができないとき,・・・・すっぽりはまらないところに注目して、そこから考えてゆく・・・(p.36)
べきであると言う。なるほどその通りだ。逆に
定義を覚えて、その定義にすっぽりはまる実例をひく。これは学生として試験の答案を書くときには適切な方法である。・・・(p.53)

ところがこの言い方は,今頃の若者の状況が見えていないのだろうなと思ってしまう。

実際,「定義にすっぽりはまる実例」がひけているかというと決してそうではない。むしろ定義されている概念が全く理解できていないので,そこに挙げられている実例を丸覚えしてそのまま書こうとしているのではないかという状況をあちこちで見る。実際,本当に理解できているか細かく質問しようとしても,細かくなどできない。1問目から沈没というケースが多い。

そういう若者に
・・・経験が定義のふちをあふれそうになる。あふれてもいいではないか,そのときの手ごたえ、そのはずみを得て、考えがのびてゆく(p.36)。
というのは段階が先なのではないか,むしろ定義が理解できないまま放り出され,そこからオリジナリティを考えることもできずに右往左往する若者を産むだけではないかと危惧してしまう。

鶴見氏の言うことはもちろんよくわかる。だが若者の現状からはほど遠いように思う。従来の定義をよくよく理解し,それを意図して壊すような段階を踏まなくては,オリジナリティを創造するなど夢のようなことではないかと思ってしまう。
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